山路天酬法話ブログ
続・運と不運の理由
令和3年10月8日
それでは、私が日頃から感じている、〈運と不運〉へのアドバイスをいたしましょう。アドバイスといっても、ごく当たり前の常識ばかりです。ところが、この常識が通らぬところに現代社会の病根があります。これでは、いくら名前を変えても、方位を変えても、開運グッズを求めても、絶対に開運することはありません。お若い方にはオッサンのたわごとと聞こえましょうが、これも老婆心とお心得を。
①目上や上司の前を素通りしてはなりません。
コンビニやスーパーの商品を1メートル以内で見ていても、お若い方が平気で素通りする現状は何なのでしょうか。せめて、会釈ぐらいはするのが日本人の常識です。「失礼します」とだけ声をかければ、相手は必ず半歩でも一歩でも下がってくれるのです。これを目上や上司の前でも、同じようにするのでしょうか。「失礼なヤツだ!」と思われること、間違いありません。ちょっとだけでも会釈をすれば、その結果は明白です。
②〈ら〉ぬき言葉には充分な注意を。
いずれは日本語として通用するのでしょうが、〈ら〉ぬき言葉はあまりいい気持ちにはなれません。「見られる」を「見れる」と、「着られる」を「着れる」と、「食べられる」を「食べれる」と、これが〈ら〉ぬき言葉です。これを小学校の教師から再教育すべきだと言ったら、よけいなお節介でしょうか。少なくとも公用の場でこんな発言をしては、目上や上司が目をしかめるはずです。
③「ホントですか」はやめましょう。
ついでにもう一つ。何かにつけて、「ホントですか」はやめましょう。これもよく聞かされる言葉です。どうして普通に、「そうですか」と言えないのでしょう。言われた相手にとっては、まるで自分がウソを言っているような印象さえ与えかねません。「ホントですか」と発言するたびに、その発言が疑いの波動となり、その波動が自分の〈運〉を損ねることを肝に銘じましょう。これ、ホントですよ(笑)。
④〈前略〉は失礼な禁句です。
最後に、手紙の大問題。公用文の冒頭に、「前略」は絶対の禁句とお心得を。これは「あなたには季節の挨拶などする気はありませんよ」と書いているのと同じことなのです。最低でも「前略ご免ください」と、あるいは「時下ご清祥のこととお慶び申し上げます」は必要です。欧米では「親愛なる〇〇様へ」「愛する〇〇へ」で通りますが、家族や友人、また恋人どおしでもないかぎり、日本社会の手紙にはそれなりのルールがあることを知らねば恥となり、罪となり、やがてはあの世へ往っても報われません。
言い出したらキリがありませんが、このへんにしておきましょう。小さなことをゴチャゴチャ言っているのではありません。大切で重要ななことばかりなのです。この程度の常識を心得るだけでも、開運することを私が保証します。
運と不運の理由
令和3年10月7日
銀座「クラブ由美」のママ・伊藤由美さんが『「運と不運」には理由があります』(ワニブックス)という本を出版しました。銀座の高級クラブなどまったく縁のない私ですが、「運と不運」は関心の高い分野なのでさっそく購入し、きわめてマジメに、しっかりと愛読しました。何しろ政界や財界の一流人を相手に、43年もの間この仕事を続けてきた方だけあって、書かれていることは一つ一つが鋭く、納得のいくことばかり。こういう人になってはいけないという33項目の中から、私にとって特に耳の痛かったお話をご紹介しましょう。
①爪が汚れている人
女性は男性のどこを見るのかとの問いに対し、顔や衣類はもちろんでしょうが、意外にも指や爪を見るという答えが返って来るようです。特に営業マンの方は注意せねばなりません。商品やカタログの説明をする時、爪が汚れているようではすべてが台なしです。仕事の〈運〉を逃すことにもなりかねません。私は毎日お護摩を修するためか、爪が汚れやすいので困っています。かなり短く切っていますが、うっかりすることがあります。
②四六時中スマホやネットを見ている人
現代人はスマホがなければ、生活はできても仕事はできません。当然ながら、メールやネットのお世話になります。しかし、人と会っていても片時もスマホを離さない人は、やはり相手によい印象を与えるはずがありません。お店に入って、注文したコーヒーや食事が運ばれて来てもおかまいなし。これはもう、依存症としか言いようがありません。こういう人は味も逃しますが、〈運〉も逃すはずです。文中には「使いこなしても振り回されるな」と、表記されています。
③言葉遣いに無頓着な人
伊東さんは特に気をつけるべき3つの言葉をあげています。「女性のことをオンナと言わない」「お金のことをカネと言わない」「相手のことをオマエと言わない」の3つです。昔の男性は女性をよく、「おい、オンナ!」と呼んで卑下しました。見栄と差別を強調したつもりかも知れませんが、現代には通用しません。お金を「カネ」と呼ぶ人は、お金の神さまから嫌われます。相手を「オマエ」と呼ぶ人は、高慢に過ぎて〈運〉を引き寄せられません。
④敬語を疎かにする人
これも気になります。お若い方には「媚びを売っているようでイヤだ」とか、「年功序列の崩壊した時代には不必要だ」と思っている方がいるようですが、まったくの間違いです。それに、敬語を使わないのではなく、使えない方が多いのには困ったものです。人間関係は友達づきあいではありません。敬語という〝品位〟がなければ、〈運〉も遠ざかります。お若い方は基本的な敬語だけは、しっかりと身につけましょう。
そのほか、「人の名前を忘れる人」「道具やモノを大事にしない人」「デスクの上が散らかっている人」など、チクリと刺さるようなお話がたくさんあるのですが、紙面が尽きました。興味のある方は、ぜひご愛読を。
10月の総回向
令和3年10月3日
昨日と本日は月初めの総回向光明真言法要を奉修しました。緊急事態宣言解除のためか、ご参詣の方がいくらか増えてきたように思います(写真)。それでも油断は禁物で、気をゆるめると、また感染者が増える可能があります。そのことをお話し、発熱や喉の痛みに対応する私の考えをお伝えしました。〈イベルメクチン〉や〈5-ALA〉、また漢方薬も常備し、初期段階では充分に平癒した経過を説明しました。
また、昨日は年末に先駆け、大そうじをしました。年末は初詣の準備で忙しくなるからです。一年分のお護摩のススで、雑巾が真っ黒でした。本堂が明るくなり、心地よい気分となりました。挨拶をすることと同様、清掃をすることは生活の基本です。よい〈気〉は、挨拶と清掃から来ることを肝に銘じましょう。

続・「調子がいい」とは
令和3年9月29日
それでは、腸の調子がいい状態を保つには、何が必要なのでしょう。いうまでもなく、その答えは「腸内フローラ」にあるのです。つまり、善玉菌・悪玉菌・日和見菌のバランスが整い、まるで腸内がお花畑(フローラ)のように美しく、明るく、生き生きとしている状態のことです。
そういうと、善玉菌さえ増えればいいと単純に思うかも知れませんが、そうとばかりも言えません。善玉菌が二割、悪玉菌が一割、日和見菌が七割のバランスが理想的な腸内フローラとされるからです。優等の善玉菌、不良の悪玉菌、そして、普通ほどの日和見菌がこのバランスで整えば、腸は絶好調といえましょう。便秘をすることもなく、力まずに心地よく、バナナ状の排便をすることができるはずです。
このことは世の中を考えるうえでも、大切なことです。多くの人は、世の中に特別な貢献ができなくても、悪いことをせず、まずまず〝いい人〟になろうと心がけています。これが日和見菌です。しかし、慈悲心をもって、世のため人のために貢献しようとする人が二割ほどはいて、これが善玉菌です。そして、一割ほどの悪人も必要です。それはどういうことかと言いますと、悪の見本を示してくれるからです。こういうことをしてはいけないという見本があるからこそ、人は自らを戒めるからです。これが悪玉菌も必要な理由です。世の中はこのバランスで成り立っています。そして、このバランスを腸内に保つためは、食物繊維や発酵食品を食事に取り入れることが大切です。これによって腸内フローラを保つことができるのです。
最近の研究では、幸せホルモンであるセントニンも、腸管にあることがわかってきました。セントニンは腸内でのトリプトファンというアミノ酸から合成されるからです。このセントニンが脳を高揚させ、幸せを感じることができるのです。つまり、腸内フローラは人生の幸せをももたらし、人生そのものの調子もよくなるということになるのです。
私たちは「腹黒いヤツ」とか、「腹を見せろ」とか、「腹を割って話す」などと言います。これは腸に心があることを、昔から直観的に知っていたからです。また、臍下丹田という〈気〉の集まる場所でもあり、腹式呼吸をして気持を落ち着かせることもできます。さらに真言密教ではおヘソのことを〈臍輪〉といい、修法をするうえでも重要な要なのです。
腸は脳でもあり、心でもあり、何とも偉大な存在であることがお分かりいただけましたでしょうか。
「調子がいい」とは
令和3年9月27日
「健康は血液で決まる」「人は血管から老いる」などと言いますが、その血液の云々を決めるのは大小の腸と、「肝腎(心)要」の肝臓・腎臓だと私は思っています。もちろん、人の内臓器官に何一つムダなものがあるはずはありません。それでも、腸の働きは特に重要です。なぜなら、私は「調子がいい」とは、「腸の調子がいい」ことだとさえ考えているからです。「肝腎要」については以前にもお話をしましたし、法話集『一話一会 第2集』にも掲載しました。ここでは腸について、私なりの考えをお話をしましょう。
腸について、多くの人は食べ物の消化吸収や排泄の器官ぐらいとしか知っていません。ところが、これが大間違いなのです。実は腸こそは「第二の脳」とさえ呼ばれるからです。この定義はアメリカのコロンビア大学医学部教授のマイケル・D・ガ―ション博士が、1999年に刊行した著書『セカンド・ブレイン』に由来します。博士は腸は非常に賢く、豊かな感情を持っている、と発表しました。この衝撃的な発表はまたたく間に普及し、今や重要な研究課題となりました。
腸が感情を持っていると聞くと、奇妙な感じを受けることでしょう。しかし、腸内には数億という膨大な神経細胞のネットワークが機能し、脳の指令を受けずに独立して働いているというのです。人が脳死にいたれば、続いて心肺停止となりますが、腸ばかりは正常に機能します。つまり、心臓は脳の支配下にありますが、腸は独立し続けるのです。これが「第二の脳」と呼ばれる由縁なのです。
腸の基本的な働きは、もちろん消化吸収と排泄です。しかしそのほかにも、自律神経と深く関わりつつ、病気を未然に防ぐ免疫組織であることがわかってきました。また、消化器官全体に張り巡らされた毛細血管全体を統括し、人の健康状態を維持管理しています。つまり、危険なものを見逃さず、消化吸収してよいかどうか、消化するにはどんな酵素が必要かを瞬時に判断するのです。まるで、あらゆる物質のデータを備えた高速コンピューターではありませんか。
そもそも、地球上に最初に誕生した生物には、脳などありませんでした。臓器と呼べるのは腸だけだったのです。つまり、食べて生きるという生命活動の根源は腸から始まったといえるのです。たとえば、田や沼に棲むヒドラという1センチほどの生物がいます。水草に付着してミジンコなどを食べて生息しています。脳はなく筒状の先端に口と触手がありますが、あとは腸だけの生物です。ほかの臓器はここから進化したものに過ぎません。これが生物の最も根源的な姿なのです。
始めに腸あり。腸は脳なり。腸こそは「第2の脳」どころか、「第1の脳」なのです。私たちの今の脳は、後に付属した臓器といっても過言ではありません。このお話、次回また。
性格判断
令和3年9月25日
人にはさまざまな性格があります。私はたいてい、九星気学でこれを判断していますが、そのほか特に重視しているのがクレッチマーの性格類型です。クレッチマーは二十世紀におけるドイツの精神科医ですが、彼は人の性格を五つのタイプに分類しています。私なりの分類用語で、ちょっと覗いていみましょう。
①自己顕示型
社交的で派手好き、自己主張が強く負けず嫌いな人です。他人が自分より上にいることが許せず、嫉妬心も人一倍強いので、対人関係のトラブルが絶えません。嫌いな相手やライバルには徹底的に攻撃しますが、うまくいかないとヒステリー症状に陥ります。しかし、上を目ざしてはい上がるパワーは強く、水商売や芸能人タイプと言えましょう。
②几帳面型
いわゆる几帳面でねばり強く、きわめてまじめな人です。だらしのない生活を極端に嫌い、ルールやセオリーをきちんと守らなければ気がすみません。持久戦に強い反面、こらえきれなくなると、癇癪をおこして年に一度二度と、これを爆発させます。不器用なほどのマイペースですが、一人でコツコツと成果を積み重ねる研究者タイプと言えましょう。
③柔軟性型
五つの分類では最も柔軟性に富み、まずまず無難な人です。つまり、ものごとを素直に受け入れる能力に富み、しかも七転び八起きのしぶとさにも欠きません。いささか八方美人ではありますが、人づきあいがうまく、好んで他人の面倒もみます。たくましさを持つこのタイプは政治家に多く、最後に天下人となった徳川家康がその代表的タイプと言えましょう。
④理想空想型
きわめて非社交的であり、ああくまで自分のカラに閉じこもる人です。偏屈な変わり者と見られますが、特異な才能を発揮して、世間を驚かせることもあります。繊細で空想や理想に走り、まわりの評価など気にもせず、世渡りのヘタなのが特徴です。一部の人からは熱狂的に愛されますが、一方では誤解されることも多い芸術家タイプと言えましょう。
⑤完全主義型
感受性が強く、過敏で、小さなことにこだわる神経質な人です。何ごとも完璧にやり遂げねば気がすまず、他人の失敗まで自分の責任であるかのように思い込むと、ノイローゼにもなりかねません。完全主義が強い反面、身辺のささいな一言が気になると、強いコンプレックスをいだきます。寒がり屋なのに暑がり屋の、いわゆる汗かきタイプと言えましょう。
もちろん、人はこの五つのタイプを複数に持ち合わせ、時に応じてどれかが強く現れるのです。私などは、この五つのすべてをそなえているようにさえ思えます。さて、皆様はいかがでしょうか。もしかして・・・。
秋彼岸会
令和3年9月23日
あさか大師では本日、秋彼岸会を挙行しました。数日前からお塔婆(お飾りしてある白い経木)を浄書し、光明真言曼荼羅を中心とする両部曼荼羅(左・金剛界と右・胎蔵界)の前に荘厳しました(写真)。実は、この荘厳そのものが、先祖供養における光明真言法(光明真言による真言密教の行法)の口伝なのです。

残暑きびしく、むし暑い一日でしたが、大勢の方が参列し、僧侶の方々の声明(譜のついた真言や経典)に続いて読経をしました(写真)。法要後は、先日のブログにも書きましたが、日本は春彼岸に木蓮、夏のお盆には蓮、そして秋彼岸には曼珠沙華が開く「仏の国」であるという法話をしました。本当に、そのとおりだと思っているからです。

また、終了後は参詣の方々とお供えしたオハギをいただき、楽しいひと時を過ごしました。よけいなことかも知れませんが、ボタモチとオハギは同じものです。しかし仏花に加えて、春彼岸には牡丹が咲くので「ボタモチ」と、秋彼岸には萩が咲くので「オハギ」と言います。これ、もちろん、皆様はご存知ですよね。
中秋名月
令和3年9月21日
今夜は中秋名月で、しかもお大師さまご縁日という特別な日です。つまり、旧暦8月15日の夜に当たり、これを「十五夜」と呼ぶわけです。昨夜は一点の雲もない〈待宵の月〉でしたが、今夜は雲が多く、多分に隠れるかも知れません。ご縁日のお護摩を修してより、何となく落ち着かず、空模様を気にしていました。実は今夜の雲を予測して、明け方近くに写真を撮っておいたのです。ほとんど満月ですが、わずかな欠けを感じるかも知れません(写真)。

せっかくですので、日本人なら知っておきたい〈月待ち言葉〉をお伝えしましょう。
先にお話しましたが、十五夜の前日、つまり14日の夜を「待宵」と言います。文字どおり15日の夜を待つ宵ですが、十五夜に雨が降りそうなら、晴れたこの日のうちにお月見をしておこうという意味も含まれています。ついでですが、竹久夢二作詞、多 忠亮作曲の抒情歌『宵待草』は夢二の造語で、正しくは「マツヨイグサ」と呼びます。しかし、恋人を待つ心境としては、「ヨイマチグサ」の方が詩情に合っているのでしょう。詩人はこうして、自分の造語を生み出すのです。
また、16日の夜を「十六夜」、17日の夜を「立待」18日の夜を「居待」と言います。もう、このへんになると、満月からは欠けますが、満月の名残を楽しむ余韻が日本人らしいところです。そして、「十三夜」も忘れてはなりません。旧暦9月13日の夜で、十五夜に並ぶ名月の美しさを楽しめます。十五夜は中国から伝わりましたが、十三夜は日本独特の〈未完の美意識〉を象徴しています。今年は10月18日なので、忘れずにいてください。
毎月1日を「ついたち」と呼ぶのは、次の月が始まる、つまり「月が立つ(始まる)」の意味からです。また30日を「つごもり」と呼ぶのは、「月隠もり(かくれる)」から転じた言葉です。
これらは、お大師さまがご在世の平安時代から使われてきました。お大師さまと親交の深かった嵯峨天皇さまは月見を好まれましたから、お二人で名月を楽しんだに違いありません。
金運宝珠護摩
令和3年9月19日
今日は第三日曜日で、午前11時半より金運宝珠護摩を修しました。コロナ禍のさびしい集まりでしたが、僧侶の方もご信徒の方も力強く読経しました。ご祈願も多く、たくさんの護摩木(添え護摩)で高々と炎が舞い上がりました(写真)。

あさか大師の本堂は土間(床)なので、クツのままお参りし、僧侶の方もご信徒もイスに座って読経します。また、玄関までの段差もありません。これは車イスの方でも楽に入れるよう思案したからです。お隣りが特別養護老人ホームなので、入居者の方が車イスでお参りします。時代の流れからしても、これでよかったと思っています。
現代はどのお寺も、本堂には畳の上にイスを置くようになりました。現代人は家庭においても、ほとんど正座をしません。茶道なども立礼席(イス席でのお点前)が増えているはずです。正座は正しく座れば実は健康的な座法なのですが、膝や腰の悪い方には苦痛です。しかし、トイレも洋式となり、雑巾がけもしなくなり、車が普及して歩くことも少なく、足腰が弱くなったのも事実です。ところが、年齢だけは長命となり、グルコサミンやコンドロチンのお世話になっているのです(笑)。何ごとにも一長一短があるものですね。
彼岸花が咲く
令和3年9月17日
あさか大師の近辺でも彼岸花が咲き始めました(写真)。曼珠沙華という別称もありますが、かつては「お墓の花」「死人の花」として嫌われ、生け花として用いられることはありませんでした。まして茶室においては、今でも代表的な禁花となっています。

ところが、最近では事情が一変しました。全国の群生地には人が集まり、カメラマンの姿が絶えません。特に本県日高市には〈巾着田曼珠沙華公園〉があり、 約500万本がいっせいに花開きます。私も一度だけうかがいましたが、駐車場に入るだけでも2時間を要しました。公園を囲む高麗川の蛇行が〈きんちゃく〉に似ていることから、「巾着田」と呼ばれるようになったそうです。その高麗川が増水した折、漂流物に混じった球根が根付いたのでしょう。多くの方の関心を呼ぶようになりました。一面に赤ジュータンを引き詰めたような景観は圧巻としか言いようがありません。
私の郷里(栃木県芳賀郡)では近年まで土葬(火葬せずに柩のまま埋葬する葬法)の風習が残り、彼岸花はおなじみのものでした。土葬した盛土の上には堅い球根を乗せ、その球根が持つアルカロイドの毒性によってモグラや野ネズミから遺体を守ったのです。もちろん、田んぼのあぜ道や土手に植えるのは、土くずれを防ぐためです。また、その毒性さえ除けば、飢饉の折の救荒食として人命を救って来ました。すり込んで水にさらせば、毒が抜けるし、湿布薬や尿毒薬ともなったのです。
今日では白色・桃色・紫色と言った多彩さがありますが、私は昔ながらの赤色を好んでいます。多くの詩歌や小説に登場しますが、まずは俳人・山口誓子の「突き抜けて天上の紺曼珠沙華」が浮かびます。天上の青空(紺色)と真っ赤な曼珠沙華を対比させた名句です。すばらしいでしょう。
日本は春彼岸に木蓮、お盆には蓮、秋彼岸にはこの曼珠沙華(彼岸花)と、仏縁の花が咲く国です。遠い先祖を神棚に、近い先祖を仏壇に、神を父とし、仏を母としながら、皇室が一度も滅びなかった世界一古い国家です(ギネス登録)。世界一の日本に生れたことを喜び、世界一の日本を讃えましょう。

