山路天酬法話ブログ

厄年を役年に変える

令和4年12月16日

 

あさか大師の境内に、令和5年の厄よけ・災難よけの早見表が立ちました(写真)。どなた様も境内に入るや、じっと見るのがこの一覧表です。先日は30分近くも、メモを取りながら立ち尽くした方もいましたから、よほど気になったのでしょう。この一覧表は、ホームページ「厄よけ・災難よけ」欄でも見ることができます。

私がなぜ〈厄除祈願〉に関心を持ったかといいますと、人は自分のことが一番気になるのだということを思い知らされたからです。この世で、人が最も大切にしているものは何でしょうか。それはもちろん、自分自身です。人は自分をこの世で最も大切にしつつ、自分に関心を注いでくれて、自分が認められることを願って生きています。そして自分の顔や名前を覚えてくれる人に近づき、自分の話を聞いてくれる人を好きになり、自分が望むものを与えてくれる人を大切にするのです。

たとえば、私が「お大師さまがこのようにおっしゃっていますよ」といっても、多くの人は興味を持ちません。しかし、「何と、あなたは今年が大厄たいやくですよ」といえば、身を乗り出して聞き入るのです。昨日、占いのことを書きましたが、人が占いに興味をもつ理由もここにあります。つまり、自分のことだから関心を持つという、ただそれに尽きるのです。

だからといって、私は決して厄年をいたずらにあおり立てているわけではありません。お寺に関心をもっていただければ、それだけでもいいのですが、それが信仰への糸口となるからです。厄よけのおはらいを受けても、心がけが変わらねば意味がありません。また開運への道は、衰運期(厄年)の過ごし方で決まることも知らねばなりません。人生は万事、うまくいくように準備をするからうまくいくのです。厄年の時こそ健康に配慮し、身辺を整理し、必要な段取りを進めれば、それこそ〈役年やくどし〉、つまり役立つ年になるからです。だから、厄年こそは、開運へのチャンスなのです。

あさか大師では元旦から節分までの午前9時から午後4時まで、随時お護摩を修します。節分までを〈新春祈願大祭〉として休みなく続けます。ぜひ、お参りにお越しください。

ラーメンのような占い

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九星気学

令和4年12月15日

 

先日、「占いは人生の吉凶は判断できますが、幸不幸は判断できません」と書きました(12月6日)。たしかに、それはそうなのですが、占いに対しては、少し申し訳なかったという気がします。今日は多いにほめておきましょう。それというのも、私の『九星気学立命法きゅうせいきがくりつめいほう』を読んで、近在の主婦の方が6名ほど集まり、「わかりやすく教えてほしい」と言い出したのです。今日はその一回目で、2時間ほどお話をして来ました(写真)。

私が九星気学を重んじるのは、それなりの理由があります。占いにはその人の先天運を鑑定する〈推命すいめい〉と、物ごとの吉凶判断を鑑定する〈卜占ぼくせん〉と、方位や家相等を鑑定する〈相法そうほう〉などがありますが、九星気学はそのすべてに応用できるからです。四柱推命や算命学は緻密ちみつな先天運を鑑定できますが、あくまで推命の分野にとどまります。易占は「あれかこれか」の判断に迷った時、その鑑定をうことはできますが、推命はできません。九星気学は方位学 として発展しただけに、方位を鑑定するにも適しています。つまり、単独にして応用がく占いとして、九星気学は追従を許しません。しかも、親しみやすく、平易で学びやすいという点にも特長があります。

九星気学の源流は中国の〈奇門遁甲きもんとんこう〉という方位学 にあります。その一部を借り受け、日本独自の発展を遂げました。外国で作られたものをさらに改良する技術は、日本人の得意とするところです。私はよく「九星気学はラーメンのような占いです」とお話をしています。皆様は驚くかも知れませんが、中国料理には本来、〈ラーメン〉というメニューはありません。よく似た麺料理に〈柳麺りゅうめん〉がありますが、やはり別のものです。ラーメンは麺にもスープにもトッピングにも、独自の工夫を加えて苦心を重ねました。今や本国の中国や韓国はもちろん、世界中で人気があります。そして同じようにして、奇門遁甲から九星気学が体系化されました。

私は九星気学を年運・月運や方位のレベルから引き上げ、「なるほど」と呼べる完成を目ざしています。そのためには、ラーメン屋さんの店先に行列ができるほどの努力が必要でしょう。毎日、毎日、寝ても覚めてもラーメンのことばかり考えているのですから。

死体は語る

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令和4年12月14日

 

上野正彦氏のベストセラー著書『死体は語る』(文春文庫)は、法医学の専門医として、声なき死体のミステリーを解き明かしたものでした。偽装殺人、他殺を装った自殺、事故死に見せた心中など、もの言わぬ死体は人間の喜怒哀楽を語ってやみません。「事実は小説よりも奇なり」です。

たとえば、智恵遅れの幼女がハイハイしていて石油ストーブにぶつかり、沸騰ふっとうしたヤカンが背中に落ちて大火傷おおやけどを負いました。母親は半狂乱でしたが、病院の手当てもむなしく、幼女は亡くなりました。普通なら当然、事故死と思うでしょう。しかし、そこが監察医の出番です。火傷の形が丸いということで疑問が生じました。偶然にヤカンが落ちたなら、その形は不定形となって散るはずです。やがて母親が自白し、智恵遅れのその子の前途を悲観し、過失を装って殺害したことが真相でした。まさに「死体は語る」です。

しかし、私は別の意味で死体が語ることを知っています。そのことをお話しましょう。

私は20代で僧侶となりましたが、その当時は「葬式坊主にはなりませんよ」と公言していました。真言密教は生きている人のために祈るものだと考えていたからです。しかし、やがてこれが間違いだったと気づきました。生死は一如、死者への祈りこそ、生きている人たちへの祈りであるからです。そこで葬儀について、真剣に研究しました。私の著書『真言宗・独行葬儀次第』(青山社刊・写真)は、今や日本中で使われています。

私が葬儀のお導師を勤める時、まず式場に着いたら結界(ガード)をなし、次にご遺体の顔をよく観察します。その表情の中に、その方の一生の縮図があるからです。仮に納棺師のうかんしによって化粧が施されていても、どことなく悲しみや苦しみを漂わせている場合も少なくはありません。その表情を脳裏に留めて葬儀の作法に入ります。

そして葬儀が終って出棺の時、もう一度ご遺体の顔を見て、安らかな表情に変じているかを確認します。この瞬間こそ、葬儀におけるお導師の正念場です。つまり、遺体ではあっても死者はまだ〝生きている〟からです。仏教ではこれを〈中陰ちゅういん〉といい、この世とあの世の中間を意味します。ここでも、「死体は語る」ことがわかりますでしょうか。

ついでですが、お葬式はとても大切です。入籍だけをして夫婦になるより、結婚式(という儀式)を挙げれば、本当の夫婦になったという実感が湧くはずです。子供さんやお孫さんと別れの儀式もせずして、あの世へ旅立てるでしょうか。自分のために集まった人たちに見送られてこそ、人は安心してけるのです。皆様もどうか、親のお葬式ばかりはなさってください。費用は少なくてもよいのです。死体はなおも語るのですから。

あの世はあるのでしょうか。

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令和4年12月13日

 

仏教を信じる方のほとんどは、「あの世はある」と思っています。少なくとも、そのように信じています。しかし、世の中には「そんなものがあるはずはない」とか、「死ねば何もかも亡くなるんだ」と思っている方もいます。今日はこれに対する私の意見を述べてみましょう。

世の中には霊能者と呼ばれる方が少なくありません。私自身はそのようなレッテルをられたくはありませんが、中には霊能力があるとして、それを誇り、宣伝したり、テレビに出演する方もいます。その真偽のほどはともかく、人類史上最大の霊能者として評価される人物に、エマニュエル・スエーデンボルグ(1688~1772)という方がいました。彼はスウェーデンの貴族として生まれましたが、物理・天文・経済・哲学などの分野でも一流の学者でした。そして肉体をこの世に置いたまま、20年以上にわたって死後の世界に出入りし、これを『霊界著述』と題して出版しました(写真はその日本語抄訳『私は霊界を見て来た』・叢文社刊)。しかも、自分が1972年3月29日のその日に亡くなることを予言し、そのとおりに他界しましたから、まさに驚異的な人物というほかはありません。興味のある方は、ぜひ読んでみてください。

ところで、現代人がこれを読んで、どのように思うのでしょうか。「なるほど」 と納得する方もいるでしょうが、中には「とんでもないホラ吹きだ」と笑い飛ばす方もいるはずです。つまり、あの世のことは論理的な思考を超えて、結局は信じる信じないという次元に行き着くからです。

そこで、私の考えです。私はいつも「あの世はあるものと信じましょう」とお話をしています。もっとも、私がお会いする多くの皆様はお寺にお参りするわけですから、会話のレベルとしてはこれで通ります。しかし、そうはいっても「どうしてですか?」と疑問を投げかける方もいます。そこで私は笑いながら、「これがウソだったら、私を詐欺師さぎしだと思ってけっこうですよ」とお話をしています。

なぜなら、あの世があると信じて功徳を積み、先祖供養を怠らない方は、死んだ後にやはりあの世があるならいることがありません。「よかった!」と思うはずです。しかし、これを信じないでいて、意外にもあの世があったとしたら、「しまった!」と思うのではないでしょうか。そういうと、「じゃー、あの世がなかったら和尚さんは詐欺師だ」と笑う声が聞こえそうです。残念でした。私が詐欺師だと呼ばれることは絶対にありません。なぜなら、あの世がないなら、死んだ後はすべてが〈無〉に帰するなら、あの世がないと確認することも、和尚さんは詐欺師だと思うこともできないからです。つまり、何もないなら、結局は何もないのです(笑)。この意味、わかりますよね。だから、どちらかを選ぶなら、あの世はあると信じた方がいいのです、その方がお得(!)なのです。

霊能者が何を言おうが、いずれは誰でもけるのですから、それを楽しみに待ちましょう。もしかしたらテレビに出演して、見て来たように言っていた〇〇〇〇さんがとんでもない詐欺師だったとわかるかも知れません。それもお楽しみに。

水子供養は重要です

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水子供養

令和4年12月12日

 

あさか大師では水子供養も積極的におすすめしています。一昨日も遠方から女性の方がお越しになりました(写真)。かなり以前に流産をされたそうで、長い間このことで悩んでおられたようです。気軽に相談できるお寺さんは少ないですし、法外な供養料を請求されることもあるので、その一歩が踏み出せなかったとのことでした。

現代社会において、水子供養はきわめて重要です。母親の病気や子供さんの非行が、その水子さんから影響していることが多いからです。水子さんのことは、心配したり悩んだりするより、できるだけ早く供養してあげることが一番です。

また、水子さんには名前も戒名も、位牌もお墓もありません。できれば、無事に生まれた子供さんと同様に、名前(戒名)をつけて供養してあげるべきだと私は思っています。なぜなら、無事に生まれた自分の〝兄弟〟をうらまずとも、うらやましくは思うからです。

水子さんはこの世の苦悩にさらされていませんから、さほどの怨念おんねんは残しません。よく「水子霊のたたり」などと言いますが、水子さんはしっかりと供養をすれば、素直にあの世にきます。つまり、大人より純粋なのです。だから、悩むよりはまず、しっかりとした供養をすることなのです。

あさか大師で水子供養をした方は、お菓子を持参してお参りしたり、お線香をお供えしたりしています。戒名をつけてお位牌を安置した場合は、私の弟子となってこのお寺で修行することになります。その修行の様子を見に、たまには会いに来てほしいと思います。詳しくお知りになりたい方はお電話でもメールでも、お気軽にお問い合わせください。

*事故によって電話線が切断され、ネットもメールも三日間ほど不通になりました。ご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。

占いの吉凶と人生の幸不幸

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占術

令和4年12月6日

 

このたび、『九星気学立命法きゅうせいきがくりつめいほう』を(株)青山社より刊行しました(写真)。九星気学の初歩から推命法の奥義秘伝まで、惜しみなく公開しました。九星気学が初めての方はもちろん、占いのプロとして鑑定をなさっている方にも、ぜひ読んでいただきたいと思っています。【(株)青山社 0120(18)0341 定価10450円(税込)】

九星気学はほとんど、方位の活用によって開運を目ざすものです。これに対する私の考えは、本文に書きました。ただし、本書は生まれ年の〈本命ほんめい〉と生まれ月の〈月命げつめい〉によって、その人の先天運を出す推命法すいめいほうです。簡単でありながら、奥深い鑑定ができますので、ぜひご活用ください。

また、本書が最も強調したのは方位の活用ではなく、〈積徳せきとく〉による運命改善であり、これを「立命法りつめい」としたことにあります。人の運命は何によって決まるのかといいますと、仏教ではこれを「宿業しゅくごう」と定義しています。宿業とは、人の生き方です。生き方がごう(カルマ)となって、意識の底に蓄積し、人の運命を決定するのです。だから、宿業を変えれば運命も変わります。そのためには徳を積むことです。人には親切をなし、やさしい言葉をかけ、思いやりを尽くして積徳に励むことです。また、仏天のご加護を祈り、先祖供養を怠らぬことです。

さらにもう一つ、私が力説したのは占いは人生の吉凶は判断できますが、幸不幸は判断できないということです。吉凶とは健康運や結婚運や金運をいいます。しかし、宝くじで一億円が当たったり、一流大学に合格することは吉運には違いありませんがが、それが不幸の始まりになることもあるのです。

占いは大変に役立ちますが、ここに限界があります。方位を活用したからといって、誰もが億万長者になれるはずがありません。名前の画数が悪くても、著名な成功者はたくさんいます。しかし、徳を積んで人に好かれるならば、誰でも幸せになれます。要はその人の生き方、考え方次第であるということです。どのように徳を積むべきかも、具体的に列記しました。

私の講釈はこのへんにして、本書には天台寺門宗・金翅鳥こんじちょういん院の羽田守快はねだしゅかい先生より玉稿の推薦文が掲載されています。また、ご自分のブログでも紹介していただきましたので、ここに掲載しましょう。羽田先生は私が20代からの畏友であり、また尊星王流宿曜道そんじょうおうりゅうしゅくようどうの宗家でもあります。以下は、そのブログの写しです。

山路天酬先生の「九星気学立命法」刊 青山社

青山社から山路天酬先生の「九星気学立命法」が出ました。

これを熟読すれば気学の基礎はもとよりその妙味に至りましょう。

まことに僭越ながら私も推薦文を書かせていただいています。

本書の特徴は九星気学の方位術は措いて、人の生き方としての九星に焦点が当てられていることです。したがってテーマは「立命」本書の名の通りです。

寺院における檀信徒の指導において宗派を問わず縦横に活用されることを希望します。

山路先生の九星は永年の研鑽を得た秘奥の域ですが、さりとて本書は占術のプロのみが理解できるような難しい奥義書などではなく、それでいて実に簡にして要を得た内容であり、逆に無理や無駄をそぎおとした純烈さに触れて、改めて師のこの術の造詣のふかさに驚きを憶えます。

 

本書籍のご注文は青山社へ

https://seizansha.com/

天酬師は祈願に、そして密教指導に余念のない方です。

住職をされている「あさか大師香林寺」では初行から灌頂までの僧侶への道も開かれています。

実際で山路師の指導で阿闍梨にまでなった方の喜びの声も聞いています。

同じ修行者養成にしても私などごときの門下になるよりはるかに本格的で充実していると思います。

修行者の良き門がここに開かれています。

「山路天酬密教私塾」の模様

あさか大師での伝授風景

 

先祖供養はなぜ大切か

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あさか大師

令和4年12月5日

 

一昨日と昨日、あさか大師では先祖供養の総回向を挙行し、多数の方が参詣しました(写真)。

私が先祖供養の大切さを強調する理由は、あの世の人からもプラスのおもい(気)をいただけるからです。

私たちはいろいろな想いを受けて暮らしています。つまり、自分の身辺や世の中の人からプラスの想いを受けている方は、どんどん運がよくなります。逆にうらみやにくしみといったマイナスの想いを受けている方は、どんなに努力をしても、開運は望めません。吉方の方位取りをしても、名前の画数を変えてもダメなのです。一時的によくなることはあっても、必ずそのツケが回ってきます。

では、運がよくなるプラスの想いを受けるのは、どういう方でしょうか。人に親切をなし、やさしい言葉をかけ、思いやりを尽くす方です。それは生きている人はもちろんですが、実はあの世の人に対しても同じです。私たちはこの世(現世げんせ)に生きていることは間違いありません。しかし、現世を「うつつよ」といい、「うつしよ」と呼ぶのは、あの世の写しであるからです。つまり、この世とあの世は写し合っているということ、いっしょにあるということです。先祖供養をすると、あの世からもプラスの想いを受ける道理がわかりますでしょうか。

先祖供養はもちろん、あの世の人に対する感謝のためのものです。しかし、現代人には「あの世の人たちからもプラスの想いを受けましょう」と説明した方がよいかも知れません。事実、先祖供養に熱心な方は、まず運がいいはずです。皆様も、この世の人はもちろん、あの世の人にも好かれるよう心がけましょう。

私はいつもお話をしています。「好かれることは生涯最高の財産ですよ」とね。

五色は何を意味するか

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あさか大師

令和4年12月2日

 

あさか大師の境内に、〈五色の吹流ふきながし〉が掲揚けいようされました(写真)。お寺の本堂にはよく〈五色の幕〉が張られますが、同じ意味でこの吹き流しも境内の荘厳しょうごんとなります。

五色は〈せいおうせきびゃくこく〉と覚えます。真言密教では五仏ごぶつ大日だいにち阿閦あしゅく宝生ほうしょう・阿弥陀・不空成就ふくうじょうじゅ)を、五大(地・水・火・風・空)を、五方(中央・東・南・西・北)を、五智(仏の五つの智慧)を意味します。自然界には形があり、色があり、音があり、香りがあり、味があります。この五色が融合して、あらゆる色へと変化するのです。つまり、この五色をもって自然界が融合する曼荼羅世界を表示するのです。

お大師さまは若くして大学を中退し、修験者となってきびしい山岳修行に身を投じました。そして、虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ求聞持法ぐもんじほうという難行なんぎょうを通じて、自分というものが自然界の縮図、いや自然界そのものであることを体得したのでした。五色はこの自然界そのものでもあります。

お寺にこの五色があるだけで、空気が変わります。冬空に曼荼羅を描いたような気分です。お正月に向けて、また一つ、準備が整いました。初詣にお越しください。

まずは聞くことからです

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仏教

令和4年12月1日

 

私は毎月ごとに、境内の一角で掲示伝道をしています。今日から12月に入りましたので、また書きえました。今月は、

大事なことは

何度も聞くことです。

初めて聞くつもりで

何度も聞くことです。

と書きました(写真)。いつも書体には苦心します。活字のような楷書では味がありません。かといって、古筆のようにくずして書くと、現代人は読めません。また、三行か四行で字数をまとめるのも大変です。目立つように、いつも朱墨で書いています。

どのお経も常に、「このように私は聞いた」という文句で始まります。つまり、お釈迦さまから、このように私はその説法を聞いたと前置きして始まります。また仏教には〈多聞たもん〉という言葉があります。どれだけ多くを聞いたかが、いかに重要かという意味です。修行の始まりは、まずお話をよく聞くことからという意味がわかりますでしょうか。

このことは、仏教の修行ばかりにかぎりません。何を学ぶにも、まずは先生のお話を聞くことからなのです。それも、大事なことは、初めて聞くつもりで何度も聞くことです。何度も聞くことで、記憶に留まり、意識の底に蓄積され、体で覚え、自分のものとなるからです。〈体得たいとく〉というではありませんか。体が得るまで、くり返しなさいということです。

私も若い頃は、大事なことは何度も聞きました。そして、紙に書きました。そして、壁にはりました。私たちは天才ではありませんから、それでも身につくまでには時間がかかります。こうして覚えた言葉は、今になっても忘れません。人生の宝です。宝は簡単には手に入りません。まずは、先生のお話を聞きましょう。何度も何度も聞きましょう。多聞を第一と心がけましょう。

あさか大師長野別院の開山

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あさか大師

令和4年11月28日

 

昨日、あさか大師長野別院・龍嶽山蔵光院りゅうがくさんぞうこういんが開山し、その落慶らっけい大護摩供法要が修されました(写真・中央のお護摩導師が筆者)。長野県は新型コロナの感染者が増大し、落慶そのものすら危ぶまれた状態でしたが、魔事なく終了することができました。院主の宮本覚匠かくしょう師(写真左端)をはじめ、関係各位のご配慮には深く御礼を申し上げます。

宮本院主は若くして中国・台湾・アメリカにて整体やカイロプラクチックを学び、やがて比叡山にて得度し、後に高野山真言宗に移籍。3年前に私と出会い、加行けぎょう(基礎修行)と入壇にゅうだん(住職資格の習得)を果たし、新寺建立を発願ほつがんしました。落慶に当たっては、あさか大師からも3名が参集。また弟子の方々が一途に支え、来賓や友人の方々も列席しました。

弘法大師に「法は人によって弘まり、法は人を待って昇る」という名言があります。つまり、正しい教えは人によって弘まるのであり、人はまたその教えによって成長するという意味でありましょう。正しい教えも、すぐれた人材がなければ世に知られることはありません。求道に燃えた僧侶の布教こそ、大切だということです。

私は宮本院主の懸命な努力が、やがて立派な実を結ぶことを信じてやみません。そして、このお寺に集まる多くの人々が苦難を乗り越え、生きることの喜びを知っていただきたいと願っています。大変に気さくで、親しみやすい院主です。特に長野県の方々には、ぜひお参りしていただきたいと思います。カイロプラクチックの施術も一流ですが、よいお話がたくさん聞けることでしょう。

山路天酬密教私塾

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