お葬式は無用なのか

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令和5年1月29日

 

昨日、久しぶりにお葬式を依頼されました。私はお葬式を勤めることは少ないのですが、時には求めに応じて出仕しています。それは、私が出版した『真言宗・独行葬儀次第』でお導師を勤める僧侶の方が多いので、現代のお葬式事情を勉強するという目的もあるからです。

私は通夜やお葬式の後、必ず法話をします。たいていは、「お葬式は大切ですよ」いうことを力説することにしています。ご承知のように、近年はお葬式をしない方が急増しました。その理由のほとんどは費用がかかり過ぎるからというものです。これはお寺や葬儀社にも責任がありますし、世間体せけんていを気にする日本人の風習にも問題がありました。また〈葬式無用論〉が、さも文化的であるかのような主張にも問題があります。

ただ、「戒名はいらない」「葬式はいらない」といった意見は、あくまでこの世に残っている自分たちの事情であって、故人の〝あの世〟の事情については何も考えていないことを知ってほしいのです。もちろん、あの世などあるはずがないというならそれ以上は問いませんが、人は儀式を通じて自覚が伴っていくことを忘れてはなりません。入学式があるからその学校に入ったことを自覚するのです。成人式があるから大人になったことを自覚するのです。結婚式があるから夫婦となったことを自覚するのです。そして、お葬式で引導いんどうを受け、子や孫から見送られてこそ、人は安心してあの世に旅立てるのではないでしょうか。

もし、誰からも見送られず、だたのお骨となって荷物のように扱われたなら、その故人は自分の一生が何だあったかと悲しむはずです。お葬式の費用は工夫をすれば、何とかなるものです。また、あの世への旅立ちは、お葬式の費用で成否が決まるわけではありません。事実、昨日の祭壇はとても簡素なものでした(写真)。子を持てば、親の苦労はわかるはずです。自分が社会に出るまで、親がどれほどの苦労を背負ったかがわかるはずです。その親のお葬式だけは、何があっても行ってほしいと私はお話しています。

私は時々、境内の片隅に人の気配を感じることがあります。また深夜の2時・3時に、インターホンが鳴ったり、ドアをノックする音を聞くことがあります。たいていは、「ああ、お葬式をしてもらえなかった人だな」とわかります。本堂には入って来ません。というより、自分がみじめで入れないのでしょう。私たちは生まれた時、誰かの手を借りて産湯うぶゆにつかります。あの世への旅立ちも、誰かのサポートが必要なのです。お葬式はこの世の残った人のためのものではありません。あくまで、故人のためのものであることをわかってほしいのです。

山路天酬密教私塾

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