山路天酬法話ブログ

〈あさか大師〉開創秘話

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信仰

令和5年5月19日

 

「厄除大師」といえば、真言宗では弘法大師、天台宗では元三がんさん慈恵じえ)大師です。ただ、〈大師〉と呼ばれる祖師はたくさんおりますが、単に「大師」といった場合は弘法大師を指しますので、あさか大師では私もご信徒も「お大師さま」と呼んでいます。

ところで、お大師さまが四十二歳の厄年の折に四国を巡礼して八十八ヶ所霊場を開創し、「厄除大師」の信仰が始まったことを知る人は意外に少ないかも知れません。したがって、四国には四十二歳のお大師さまが関与したとされるお寺がいくつか現存しています。愛媛県の遍照院・仙龍寺、香川県の海岸寺・遍照院などに伝承があります。また、高野山奥の院護摩堂には「厄除大師」の額があり、〈弘法大師四十二歳厄除御自作像〉が安置されています。

私があさか大師を開創しようとした時、はじめは尊像をおまつりしたいと考えました。私が考えている尊形はないかと探したり、仏師に相談したりしました。しかし、何か気持ちが定まらぬまま、時間ばかりが過ぎ去りました。そんなある日、一冊の本が就寝中の私の枕元に突然に落ちてきたのです。たぶん、不安定な置き方をしていたのでしょう。それは自分の著書『弘法大師御影みえの秘密』でした。どうしたのかと思った私は、落ちた著書を本棚に戻そうとした時、天啓のようなひらめきが湧いたのです。

その著書の扉にはお大師さまの御影みえ(お姿の絵)が載っています。しかもそれは仏教美術学者であり、当代随一の仏画師でもある真鍋俊照まなべしゅんしょう先生が、私のために謹写してくださったもので、もちろん自分で所持していました。私が本尊とするに、これ以上のお大師さまがあるはずはありません(写真)。それに、ご本尊は仏像に限る必要はありません。高野山御影堂みえどうのように、〈御影〉そのものをお厨子ずしに入れればよいではありませんか。私はもはや迷うことなく、この御影をご本尊にすることを決心しました。そして、あさか大師(厄除のお大師さま)はこうして開創されました。

昔も今も、皆様の厄除に対する関心は驚くばかりです。お大師さまですら、ご自分の厄年には四国を巡礼しました。私は毎日お大師さまに向かい、お護摩を修しています。皆様もご自分の厄年を感じましたら、どなたでもぜひお参りにお越しください。毎日11時半から始まります。また5月21日(日)はお大師さまのご縁日であり、〈金運宝珠護摩〉も修されます。金運が高まるお護摩として人気があります。

同行二人どうぎょうににん」といいますが、お大師さまはご自身を信仰する方にいつもつき添ってくださいます。お護摩でも巡礼でも、「お大師さまと共に歩んでいる」という気持ちになるからです。ほんとうですよ。

孔雀明王への祈り

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真言密教

令和5年5月16日

 

私は昨年の秋より毎朝、お大師さまと共に孔雀明王くじゃくみょうおうへの祈りを続けています(写真)。なぜなら、長引く新型コロナの感染終息と、ロシアによるウクライナ侵攻が一日も早く終結することを願ったからです。コロナ感染は減少しつつありますが、まだまだ油断はできません。ウクライナ侵攻に対しては、皆様からの〈一食布施いちじきふせ〉などもユニセフに送金し、現地ニュースにも耳を傾けています。

孔雀明王はご覧のとおり菩薩の姿をしていますが、そのみょう(真言)の徳がきわめて勝れていることから、〈明王〉とお呼びしています。また〈孔雀〉は〝救邪苦くじゃく〟とも表記され、あらゆる人間苦への祈りに霊験いちじるしいと相伝されて来ました。ただ、その行法ぎょうぼうは真言密教の中でも特に秘法とされ、これを修する行者はなかなかいません。

私はこのような非常事態でありますゆえ、特に熱意ある弟子僧にはこの秘法を伝授し、緊急祈願として加わっていただくことを提唱しました。また、孔雀明王の経典である『仏母大孔雀明王経』の刊行に関しても、その表題揮毫を担当しました(写真)。祈りは結集することによって、さらに威力が強大となるからです。

なお、今年は大変に雨量が多く、各地で水害が発生しております。実は孔雀明王は祈雨きう(雨を呼ぶ祈り)にも霊験がありますが、雨を止める祈りにもよく相応します。もちろん、病気・災害・降伏・商売・招財・敬愛など、多くの利益りやくがあることはいうまでもありません。

お心のございます方は私といっしょにお祈りください。毎日11時半よりお護摩を修しています。ただ、出仕のある時は早朝に修しますので、遠方の方はご一報ください。皆様のご参加をお待ちしています。合掌

続・世にも不思議な霊験談

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仏教

令和5年5月14日

 

『日本霊異記』からのお話を、もう一つご紹介いたしましょう。現在はいろいろな出版社から刊行されていますが、講談社学術文庫ならすぐ手に入ります(写真)。今日は第十九の『法華経』を読む人をあざけり、悪いむくいを受けた人の説話です。

奈良時代、山城の国(京都)相楽郡さがらぐんに一人の〈私度僧しどそう〉がいました。この当時、僧侶になるには国の許可が必要で、この人のように勝手に僧侶を名乗っていた人を「私度僧」と呼んだのです。名前はわかりませんが、この人はいつもばかり打っていました。どうやら、あやしい私度僧としか思えません。

ある日、この私度僧が知人と共に碁を打っていると、托鉢たくはつの僧がやって来て『法華経』を読みつつ、布施をいました。私度僧はこれをあざけり笑い、わざと自分の口をゆがめ、声をなまらせ、まねをして唱えました。知人は「恐ろしいことだ」といいながら、碁を続けました。それからというもの、その私度僧はどうしても碁に勝てません。そればかりか、自分の口がゆがんでしまったのでした。医者を呼んで治療をしても、ついに治ることはありませんでした。『法華経』に「法華経を信ずる人を軽蔑して笑う者があるならば、現世で歯が抜け、唇は曲がり、鼻は平らになり、手足はねじれ、目はすがめになるだろう」とあるのは、このことだったのです。そしてお話は、たとえ悪鬼あくきにとりかれても、経を読む人をそしってはならない。言葉はよくよく慎むべきであると結ばれています。

弘法大師は病気の原因として、四大不調(身体的な病気)・鬼病きびょう(霊的な病気)・業病ごうびょう宿業しゅくごうの病気)の三つをあげています。四大不調は身体の病気なので、医薬の力によって平癒します。しかし、鬼病や業病は医薬だけでは平癒しません。鬼病はいわゆる霊障から、業病は前世からの因縁による病気で、これらは真言の祈りによって、はじめて平癒するのです。この私度僧の場合は、経典をあざけり、これを軽んじた業病ということになりましょう。

それにしても、たとえ私度僧とはいえ、経典を何と思っていたのでしょうか。因果のむくいとはこのことです。『法華経』と托鉢の僧に対し、よほどの懺悔さんげを続けねば口のゆがみは治りません。皆様も、経典や真言を唱える時の訓戒にしていただきたいと思います。決しておもしろ半分に唱えてはなりません。肝に銘じましょう。

世にも不思議な霊験談

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仏教

令和5年5月11日

 

世にも不思議な霊験談を集めた本に『日本霊異記にほんりょういき』があります。古代におけるさまざまな仏教説話を、薬師寺の僧・景戒けいかいが書き残したもので、正式な書名を「日本国現報善悪霊異記にほんこくげんぽうぜんあくりょういき」といいます。第二十八には孔雀明王くじゃくみょうおう呪法じゅほうで有名なえん行者ぎょうじゃ神変大菩薩じんぺんだいぼさつ)のお話も載っています。興味のある方は、ぜひ読んでみてください。私は若い頃から東洋文庫(写真)で愛読してきましたが、今はいろいろな出版社から刊行されています。

たとえば、こんなお話があります。

その昔、高麗こうらい(朝鮮)の学問僧で、元興寺がんごうじ(奈良)に住む道登どうとうという方がいました。ある日、宇治橋(京都)を渡っていた時、一つの髑髏どくろが人や獣に踏まれているのを見つけました。道登はこれを悲しみあわれんで、従者の万呂まろという者に、木の上にねんごろに安置させました。

ところが、その年の暮れの夕方、ある〝人〟がやって来て、「道登大徳の従者の万呂という方に会いたい」といいました。万呂が面会すると、「大徳のお慈悲をいただいて、この頃はだいぶ楽になりました。今夜でなくては恩返しができませんので、どうかついて来てください」と言って、万呂をある家に案内しました。

家の中には食事が用意されていたので、その人は万呂にそれをほどこしました。ところが、夜半になって、「私を殺した兄が来るから逃げましょう」というではありませんか。万呂が訳を聞くと、「昔、私は兄と共に商売に出かけましたが、私だけが銀四十きんかせぎました。すると兄は、これをねたんで私を殺し、銀をうばったのです。以来、私の頭は人や獣に踏まれ続けました。大徳のお慈悲をいただいて救われましたが、あなた様の恩も忘れられず、今夜その御礼をしたかったのです」と語りました。

その時、その人の母と兄が霊を供養するために家の中に入ってきました。二人は万呂を見て驚き、わけを聞きました。万呂がことのいきさつを語ると、その母は驚き、その兄に「私の子はお前に殺されたのか。賊に殺されたのではなかったのか」とののしりました。そして万呂を拝み、丁重に接待をしました。つまり、この日はその人の命日で、あの食事はそのために用意されていたということになるのでしょう。

万呂は帰って、このことを道登大徳に伝えました。そして、お話は死人の霊や白骨でさえこうであるなら、生きている人がどうしてその恩を忘れられようかと結んでいます。現代の日本では親のお葬式をしない人が増えましたが、これを聞いたら何と思うのでしょうか。お骨も大切にとむらわねばなりません。そして、命日には特別の意味があることも忘れてはなりません。

「手塩にかける」とは

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令和5年5月7日

 

「手塩にかける」といいますが、その意味をご存知でしょうか。

実はお母さんが手に塩をふりかけて、一生懸命に〈おにぎり〉をにぎることなのです。それが、手塩にかけた子育てなのです。その手塩にかけたおにぎりを食べているかぎり、子供は〈おふくろの味〉を忘れません。そして、おふくろの味を忘れないかぎり、親不孝な子供にはなりません。最近のコンビニのおにぎりは大変に工夫され、おいしく作られていますが、失礼ながら、厳密にはあれは「おにぎり」とは呼べません。ご飯を型に入れて力学的に圧縮しただけですので、いうなれば「おしぎり」(笑)と呼びます。

〈おにぎり〉や〈おむすび〉の意味を考えてみましょう。〝にぎる〟ともいい、〝むすぶ〟ともいいます。単に力学的な力に加えるだけではないのです。それは、手作りのものと比べればよく分かることです。手塩の上にご飯をのせ、力を加えるけれども、力まかせではありません。力を内に込めながら、逆に力をおさえるはずです。そして、何より想いを込めねばなりません。つまりハンドパワーです。これが〝にぎる〟ことであり、〝むすぶ〟ことです。ご飯の粒と粒を結ぶのであって、つぶすすのではありません。だから、かたくしまっているけれども、つぶと粒が立ち上がり、生き生きと結び合っています。

また、工場で大量生産された商品は、均一ではありますが、どこか深みがありません。やはり、人の手にはエネルギーがあるということなのです。味にも、プラスアルファの深みがあります。私もよくコンビニのおにぎりをいただきますが、やはり昔ながらの手作りの味を忘れてはならないと思っています。今朝は、雑穀米のご飯でにぎってみました。(写真)。

特に若いお母さん方には、手塩にかけておふくろの味を残してほしいものです。母と子を結ぶおにぎりこそ、本当の「おむすび」だからです。どうか、手塩にかけて子育てをなさってください。そして、手塩にかける意味を忘れないでください。

仏さまはどこにいるのか

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仏教

令和5年5月4日

 

人は奈良や京都に、仏さまを見たいといって出かけます。そして今や、奈良も京都も日本人はもちろん、世界中の人々であふれています。また国立博物館で「密教美術展」や「〇〇寺名宝展」があると、人は遠くから時間をかけ、交通費を払い、二時間も並んで入場します。そして、混雑した中で目ざす仏さまを拝観し、高価で分厚く、重い図録まで購入します。

これはなぜなのか、皆さん、わかりますか。今月の掲示伝道はこのことを書きました(写真)。

そもそも、仏さまはいったい、どこにいるのかといいますと、実は私たちの心の中にいるのです。つまり、お釈迦さまが悟りを開かれたのは、もともと仏さまが心の中にいたからだという意味です。お釈迦さまが仏というものを新しく考え出したわけではないし、発明したわけでもありません。もともとご自分の心の中にいた仏さまというものに目覚めたわけです。だから、仏さまのことを〈覚者かくしゃ〉ともいうのです。

そうすると、私たちの心の中にも仏さまがいるわけです。「一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」などといいます。すべての人は仏になれる資質が備わっているという意味です。残念ながら、私たちには煩悩という雲が多く、光り輝くその仏性がなかなか見えては来ませんが、仏像に心引かれるのは、実はその仏性があるからなのです。

仏師がノミをふるって仏像を彫り出す様子を、皆さん、想像してみてください。仏師の心に仏さまがいなければ、仏像など彫れるわけがありません。そうでなければ、仏さまというものを新しく考え出したことになってしまいます。エジソンのように発明したことになってしまいます。

仏像ももともとは木材に過ぎません。木材というかたまりです。しかし、仏師の心の中の仏さまが活動するから、あのような立派な仏像になるのです。もちろん、その仏像も仏さまであることに違いはありません。だから、心の中の仏さまが、同じ仏さまである仏像を求めるのです。類は友を呼ぶというではありませんか。

世界中の人が奈良や京都に集まるのも、博物館の催しに集まるのも、その理由は同じです。そして、皆さんの心にも仏さまがいることを忘れてはなりません。腹を立てたり、悪口をいったりはしても、それは月にかかった雲なのです。その雲のかなたに、光り輝く仏さまがいることを忘れてはなりません。「雲晴れて 後の光と思うなよ もとより空にありあけの月」という無窓国師(鎌倉時代の禅僧)の道歌をご紹介して、今日の法話といたします。

5月の強運ランキング

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九星気学

令和5年5月1日

 

風薫る5月、ゴールデンウイークの5月を迎えました。また、5月2日は立春から数えて88日目、つまり夏も近づく〈八十八夜〉となります。この頃に摘まれた新茶は甘くて美味、滋養があり、長寿の薬草でもあります。さらに5月5日は〈端午たんごの節句〉となり、本来は息災を祈る〈節句祭り〉でありました。

さて、今月は6日の立夏りっかより丁巳ひのとみ五黄土星ごおうどせいの月となり、定位盤じょういばんと同じになります。したがって暗剣殺あんけんさつ(最も強大な凶方・凶神)はありませんが、北西に月破げっぱ(これも凶方・凶神)が付きます。また丁も巳も新しい活動の意味がありますので、新勢力の浮上が予測されます(写真)。

皆様の運勢はホームページの〈今月の運勢〉をご覧ください。そこで、強運ランキングですが、一位は三碧、二位が四緑、三位が六白です。

三碧は上記の月盤には表記されていませんが、吉神がたくさん付きます。日の出の方位である東にあって、まさに新しいスタート台に立ちました。持ち前の行動力を発揮していただきたいと思います。ただし、勢い余っての暴言や失言で失敗をしないよう心がけましょう。四緑は信用と調和の特質を生かし、充分な成果が期待できます。何よりも和合を第一に進みましょう。六白も実り運気がありますが、月破という凶神が付きますので、何ごとも慎重に進む必要があります。確認を怠らず、念押しを忘れないでください。

ちなみに、一白や二黒は準備月と心得ましょう。この期間の準備が、開運を呼ぶことを忘れてはなりません。物ごとは段取だんどりであり、根回ねまわししだいなのです。つまり、いかに準備をするかで決まるのです。私はいつも、「厄年は〈役年〉ですよ」とお話をしていますが、衰運の時期こそチャンスなのです。占いを生かして、占いを超えましょう。いい時はいいなりによく、悪い時は悪いなりによく、です。これが『般若心経』の教えであり、仏教の悟りです。衰運もまた、なかなかのものですよ、皆さん。

一勝二敗を続けましょう

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人生

令和5年4月26日

 

斎藤茂太さんの『人生80パーセント主義』と共に、私の大きな支えとなった本に、関根潤三さんの『一勝二敗の勝者論』がありました。関根さんもすでに故人となりましたが、かつてはプロ野球選手としても、また野球解説者としても一流の方でした。私は古典も読みますが、若い頃に出会った現代の書籍では、この二冊が忘れられません(写真)。

その『一勝二敗の勝者論』ですが、一勝二敗でどうして勝者になれるのか、皆様はわかりますか?

当然のことですが、一勝二敗では負け越しです。それを続けても、勝者にはなれません。しかし、関根さんがいうのは、その先の〝ねばり〟なのです。つまり、一勝二敗にくじけず、とにかく一勝する努力を続ければ、いつかは二勝一敗に勝ち越すことができる、時には三勝することだってできるかも知れないということなのです。勝率も六割六分七里です。そうなれば、態勢が変わります。そして、ついには勝者の道に到るということなのです。肝心なのは、くじけずに一勝すること、一勝二敗の逆転勝利を目ざすということなのです。

プロ野球は三連戦で組まれています。監督も選手も、たいていは全勝か二勝一敗を目ざします。しかし、勝負は相手があってのことですし、運もつきものです。相手だって同じことを考え、必死で立ち向かって来ます。それをすべて勝ち越そうとしても、無理なお話です。勝ちたい気持ちばかりが先行して一敗でもすれば、もういけません。気持ちが落ち込み、自暴自棄じぼうじきに落ち入るばかりです。こういう戦い方では、長いペナントレースに勝てるわけがありません。勝負というものは結局、最後に勝たねば意味がないのです。

それに、一勝二敗なら気を楽にして、のびのびと平常心でプレーすることができましょう。これも大事です。さすがに野球界で苦労を重ねた関根さんならではの勝者論だと、私は今でもこの本を大切に保管しています。皆様もどうか、一勝二敗の逆転勝利を目ざしてください。プラス思考は大切ですが、マイナス思考もまんざらではありません。私はこれを仏教的な空理くうりをふまえて、「マイナス型プラス思考」と呼んでいます。一勝二敗、ですよ。

人生は70%ほどで

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人生

令和5年4月24日

 

齋藤茂太さいとうしげたさんは精神科医として斎藤病院院長を勤めたほか、ユーモアあふれるエッセイストとしても、たくさんの業績を残しました。その中で、特に私の印象に残ったのは『人生80%主義』(経済界刊)という著書で、今でも時おり取り出しては読み続けています(写真)

齋藤さんがこの本で強調していることは、精神的なトラブルのほとんどは100%を望む完全主義から来ているから、これを80%ほどの水準に下げるべきだということです。いかにも斎藤さんらしい、余裕の人生論ですね。

この世の中で、100%完璧な生き方など、出来るはずがないのです。ところが、うつ病などの症状を抱える人はみな、まじめで責任感が強く、何ごとも完璧にやろうとする傾向があることは間違いありません。几帳面きちょうめんでだらしのないことを嫌う点でも共通しています。ややもすると、他人の失敗まで自分の責任であるかのように思ってしまう人もいます。それだけに、その性格が潔癖なのでしょう。

だから、自分が望むことの80%ほどでよしとするなら、心理的なストレスはかなり緩和するはずです。完璧を目ざす努力は大切であるけれども、ハンドルのように少し〝遊び〟がなければ、心のかじ取りはできません。これはもちろん、最初から妥協するということではありません。目標に向かっては全力で当たりましょう。持てる力は出し切りましょう。ただ、失敗をしても、いが残っても、引きずってはなりません。いつまでも悩まずに、次のチャンスを待ちましょう。きっぱりと発想を変える、ここが大切です。

実は、私もかつては完全主義の傾向がありました。何をするにも思うようにいかないと悩み苦しみ、大きなストレスを抱えていたものでした。そんな中でこの本に出会い、まさに目からウロコでした。そして、私はさらに80%ならぬ、70%ほどが自分にはちょうどよいと思うようになりました。70%もうまくいったなら、上出来です。いや、むしろそのくらい気を楽にしてのぞんだほうが、かえってうまくいくのではないでしょうか。私の〈人生70%主義〉はこうして生まれたのです。

皆様の中にも完全主義の方がいらっしゃるはずです。車のハンドルのように、どうか余裕の遊びを持ってください。肩の力もぬきましょう。今まで以上にうまくいくはずです。そして斎藤さんの80%がいいか、私の70%がいいか、それは楽しみながら決めてください。人生に闘いはつきものですが、闘ってばかりもいられません。そうでしょう。

お葬式はなぜ大切なのか

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人生

令和5年4月23日

 

私は20代で僧侶となりましたが、親ほども年上の方々の前で、偉そうに法話をしたものでした。もちろん、いい法話もあったかも知れませんが、中にはとんでもないあやまちも犯しました。その一つが、「葬式坊主にはなりませんよ」という放言でした。つまり、自分は生きている方々のために真言密教を学ぶけれども、亡くなった人のお葬式はゴメンだといいたかったのでしょう。

しかし、やがてこれが大変な間違いだったと気づきました。僧侶はこの世にもあの世にも関わらねばなりません。いや、この世とあの世は一つだという観念で勤めねばなりません。そこで私はお葬式について研究し、特に現代におけるお葬式の問題をふまえて『真言宗・独行葬儀次第どくぎょうそうぎしだい』を、またそれに伴う『真言宗・回忌法要次第』を刊行しました(写真)。ありがたいことに、いずれも宗内ではよく普及しているようです。

兼好法師けんこうほうしは『徒然草つれづれぐさ』の中で、「若きにもよらず、強きにもよらず、思いがけぬは死期しごなり」と書いています。どんなに若かろうが、どんなに丈夫であろうが、死は突然にやって来るものだといっています。どんな人でも、いずれは必ず死を迎えます。その確率は100パーセントです。にもかかわらず、人は死についてどれだけの自覚をもっているでしょうか。どれだけの自覚をもって人生を考えているでしょうか。残念ながら若い人ほど、また壮健な人ほど、この自覚がありません。

あの若さで、と思う人が突然の死を迎えます。仕事の鬼のように働いていた人が、突然の死を迎えます。病気の場合もあれば、事故による場合もあります。自殺も他殺もあります。つまり、この世は無常なのです。何がおきても不思議ではありません。その無常という土台の上で、人は生きているのです。これが仏教の、もっとも基本的な原点です。

だから、死につい考えなければ、自分らしく生きることも、豊かになることも、幸せになることもできません。そのためにも、肉親の死に接してこれを見送り、自分の人生について考えることです。そして、何が価値ある生き方なのか、何が最後に後悔をしない生き方なのかを考えることです。

さらに、人はこのようにして死を迎えるのだという事実を、子供さんやお孫さんに見せることも大切です。たとえ考える力はなくても、肉親の死を目で見て、悲しみの声を耳で聞いて、死について学ぶことはできるのです。ついでながら、財産も名誉も一手にした人ほど、死に対する自分の無力を感じると聞きました。自分が望んだものをすべて手に入れながら、死を前にしてのショックははかり知れないのでしょう。人生とは何かを考えるヒントになるお話です。

皆様、お葬式ほど死について考えるチャンスはありません。どんなに簡素でも、肉親のお葬式だけはなさってください。たとえ望んだ人生ではなかったとしても、最後に「ありがとう」と言えるよう、お葬式を大切にしてください。

山路天酬密教私塾

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