山路天酬法話ブログ
ご神水の味をお教えします
令和5年3月14日
お大師さま(弘法大師)は弘仁7年10月14日、嵯峨天皇のご病気を憂い、弟子と共に7日間の息災祈願を修しました。しかし、なおご回復の通知がなかったため、「慎んで加持したご神水を弟子に持たせました。このご神水でお薬を煎じ、ご病気を除き給いますように」と書簡を送っています。
ここでいう〈ご神水〉とは、真言密教の〈加持香水〉を示すことは、疑う余地がありません。真言行者は修法に当たってまず自らを護身し、次に加持香水の作法をなし、散杖(特殊な枝)にて道場を清めるからです。一般にはこれを塗香器(写真左)と洒水器(写真右)という仏具にて修します(中央の枝が散杖)。
ところが、常に修しているはずのこの加持香水が、はたしてどんな味がするかを知っている真言行者はまずいません。私はこのことが奇妙でなりませんでした。そこで、かつては弟子の僧を集め、作法どおりに修して、直接にこれを飲んでいただいた経験があります。真言行者の方は、ぜひ体験してみてください。
まず、紙コップに水道水(浄水にせず)を注ぎ、一口飲んでみます。さあ、どんな味でしょうか。地域によっての違いはありますが、都市部の水道水はカルキ臭があったりして、おいしいとは言えないはずです。特にミネラルウオーターに慣れた人は、冷たさが足りない分、違和感があることでしょう。次に、散杖の代わりに割りばしを一本用意します。そして、作法どおりに水道水を加持をして、舌の上で転がすように静かに味わってみてください。いかがでしょうか。
私の経験では水が柔らかくなるはずです。また、甘味が加わるはずです(もちろん、砂糖のような甘さではありません。感覚的に〝甘い〟という意味です)。柔らかくなるという感覚は、舌の〝当たり〟が柔らかくなるという以外、説明できません。真言の波動が水の原子に伝わると、このような物理現象をおこすのでしょう。
私はこうした経験も、真言の力を知るヒントになると思っています。真言は波動なのです。〈振言〉なのです。そして、お大師さまはまさに、偉大な救世主なのです。
人生の極意とは何なのか
令和5年3月12日
あさか大師では〈一食布施〉をお願いしています。お願いすると同時に、これによって「功徳を積みましょう」とおすすめしています。一食布施とは一食分の食事代ほどを、月に一度寄進していただくものです。ほんの小銭でもよいので、ご協賛をいただいておりますが、もちろん私もいっしょに布施をしています。昨年は〈ウクライナ緊急募金〉として、先日は〈トルコ・シリア地震緊急募金〉としてユニセフに送金をしました(写真)。
ところで、私は弟子僧(真言行者)の方々に、行法(仏さまと感応する方法)の伝授をして修行の手ほどきをしています。そこで、「修行とは何なのか」という根本のお話も加えています。つまり、真言行者は大壇や護摩壇の前に座って何をするのかという説明をしているわけです。
結論から申しますと、「それは仏さまがお喜びになる供養をするのです」とお話をします。たくさんの仏具を前にして、コチョコチョやっていますが、あれは仏さまを供養をしているということになります。では、供養とは何かといいますと、これを〈六度〉といい、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六項目をいいます。しかし私は、「すべては布施にたどり着くのですよ」とお話をしています。なぜなら、戒を守ることも、苦難に耐えることも、精進をすることも、禅定に励むことも、智慧を得ることも、すべては仏さまへの布施であるからです。
人はみな、あれが欲しいこれが欲しいと思って、手に入れることばかりを考えて生きています。しかし、手に入れるためには、先に何かを与えねばなりません。だから、本当に豊かな人はみな与えることを喜び、与えることを楽しんでいるはずです。つまり、人が喜ぶことを与えれば、必要なものが望まずとも入ってくることを知っているのです。
布施の喜びを知ると、我欲から離れます。人が喜ぶことが自分の喜びになるからです。そして、仏さまはそれをお喜びになり、その人を讃え、功徳を与えるのです。修行とは結局、布施にたどり着くという意味がおわかりでしょうか。
一食布施はささやかなものですが、これも〝塵も積もれば〟で、皆様の功徳が積ることを願ってやみません。真言密教の行法は仏さまに直接アプローチしますから、功徳は絶大です。ただ、それは真言行者が六度の供養をどのように理解し、これを実践しているか否かにかかっています。つまり、布施の喜びを知ることが修行の極意なのです。皆様もまた、「人生の極意は布施の喜びにある」とお思いになられませ。
健康法に振り回されていませんか
令和5年3月10日
20年ほど前、新谷弘実著の『病気にならない生き方』(写真右)という本がベストセラーになりました。ところがその後、辨野義己著『病気にならない生き方で、なる病気』(写真左)という本が刊行され、話題を呼びました(笑)。
双方を読んでみると、最も大きな論点の違いは牛乳でした。前著は牛乳は子牛の飲み物であるから、乳製品は絶対にいけないと主張し、後著は牛乳やヨーグルトをとらずして、どうやって健康になれるのかと主張しています。私は当時、牛乳やヨーグルトが合う人もいれば、合わない人がいるのは当然なのに、どうしてこんな大騒ぎをするのかと苦笑したものでした。考えてみれば、ただそれだけのことではありませんか。
ところが、こうした反対意見は枚挙にいとまがありません。いま、私の脳裏に思いつくままを列記してみましょう。
まず、皆様が関心のある糖質制限です。本来は糖尿病患者の食事として提案された糖質制限ですが、これがダイエット法として火をつけました。江部康二著の一連の書籍がかなり売れていたと思います。ところが、これに真っ向から反対した方もいました。幕内秀夫著の『世にも恐ろしい糖質制限食ダイエット』や石原結實著の『「糖質制限」は危険!』などがその代表です。私は糖質制限については糖尿病の方には勧めた経験がありますが、ダイエット法としては疑問がありました。実際に自分で試しても、確かに脂肪は落ちましたが、体力までも落ちたからです。少なくとも日本人がご飯を抜くような食事には、同意できませんでした。
次に朝食をしっかり食べるべきか否かの論争があります。朝食をしっかりとらずして、どうして仕事ができるのかといえば、いや、無理に食べる必要はないともいいます。私の父などは、朝早くから田畑の仕事をしていましたから、朝食をぬく生活などあり得ませんでした。昔の人はそんな生活だったのです。ところが現代人は遅くまで働き、夜遅くに夕食を取りますから、朝から空腹という人は少ないはずです。朝食はその是非を問うのではなく、生活パターンによって異なるのではないでしょうか。それを一律に論じるのは、おかしいと思うのです。
そのほか、玄米菜食が一番といえば、野菜中心をやめなさいといいます。水を毎日2リットルは飲みなさいといえば、それでは水毒をおこすといいます。赤ワインが最高だといえば、いや日本酒や焼酎だといいます。朝のジョギングをしましょうといえば、それでは心臓に負担がかかるといいます。そしてついに、年に一度は健康診断を受けましょうといえば、『人間ドックの9割は間違い』『大往生したけりゃ医療とかかわるな』といった著書まで刊行される始末です。こうなっては、もはや健康法そのものが病気です。
どんな健康法にも、必ず反対意見があるのです。自分の健康法は、自分で見出す以外にありません。そんなことは当たり前なのに、みんなが健康法に振り回されています。大酒を飲んでもタバコを吸っても、長生きをする人はいるのです。仕事の鬼のような人が急死するかと思えば、青白い顔で医者通をしている人が意外に長生きをしていることもあります。
どんな健康法を実行しても、人はいずれ病気になるのです。何十年も生きれば内臓は疲れ、膝の軟骨も消耗します。それが天命です。天命とはただ待つのではなく、自分の健康法を見い出し、限りある自分の体に納得することです。振り回されてはなりません。しかし、天命を待つ前に、まずは人事を尽くしましょう。
人は病気をするから健康なのです
令和5年3月8日
人は病気をするから健康なのです。健康だからこそ、そして健康を維持するためにこそ、病気になるのです。完全な健康など、絶対にあり得ません。
病気は本来、健康を守ろうとする尊い働きです。熱が出るのは害菌を減らし、汗によって毒素を排出させようとする働きです。痛みが出るのは血液を集め、病根を壊滅させようとする働きです。吐気も下痢も、同じことです。このような症状が何一つ現れないとするなら、私たちは体の異常を感じ取り、健康を守ることなどできません。私たちは病気をするから健康を守ることができるのです。そして、病気をしながら健康を維持しているのです。
つまり、病気をすることと健康であることは同時にあるのです。『般若心経』はこれを「色即是空」と表記しています。〈色〉は病気なら、〈空〉が健康です。一般にはこれを「色は即ち是れ空なり」と音読し、〈色〉と〈空〉はイコールであると定義します(写真は金岡秀友『図説・般若心経』)。
しかし、私はこれを「色は是の空に即し」と音読してはどうかと主張しています。〈色〉と〈空〉はイコールではありません。病気と健康もイコールではありません。少なくとも人は、病気と健康が等しいなどとは夢にも思っていません。たしかに〝反対のもの〟です。しかし、同時にある、即しているのだといえば、いくらかはわかりますでしょうか。
病気は体の異常を感じ取り、同時に健康を守ろうとする尊い働きです。イコールではなく、同時にある、即しているということです。私たちには煩悩(色)があります。しかし、煩悩があるとわかるのは、本来は菩提(空)があるからです。本来は仏であるからです。煩悩と菩提は反対のものですが、実は同時にある、即しているのだということです。これが「煩悩即菩提」という仏教の教え、万古不変の真理です。
お腹が痛くなったら、胃に「教えてくれて、ありがとう」と言いましょう。動悸を覚えたら、心臓に「こんなに負担をかけて、ごめんなさい」と言いましょう。こうして薬を飲めば、回復が早まります。お大師さまにご祈願をすれば、さらに早まります。私たちは病気をしながら、健康を維持しているのです。病気は健康を守ろうとする尊い働きです。
人が本来は仏さまである証明
令和5年3月7日
人は誰でも、本来は仏さまなのです。なぜなら、誰に教えられたわけでもないのに、仏さまの真言(マントラ)を唱えながら生れて来るからです。その事実を証明しましょう。
日本人は赤ちゃんの産声を「オギャー」と表現しますが、このことに私は以前から疑問がありました。なぜなら、赤ちゃんは口を大きく開けて泣くからです(写真提供はユニ・チャーム)。口を大きく開ければ、〈ア〉の発声はできますが〈オ〉の発声は絶対にはできません。つまり「オギャー」ではなく、実は「アギャー」と泣きながら生まれて来るのではないか、と私は主張しています。ただ、赤ちゃんは大人のようには、ハッキリとした発声ができません。だから、〈ア〉なのか〈オ〉なのか曖昧なのです。でも、よく聞けば、やはり〈ア〉のはずです。ネットで産声を聞いてみてください。私がお話していることが、事実だと納得できるはずです。
では、「ア(阿)」とは何でしょう。実は、これは大日如来の真言なのです。真言密教の根本であり、最も大切な仏さまなのです(写真はその梵字)。赤ちゃんはこれを、誰に教えられたわけでもないのに、唱えながら生れて来るではありませんか。だから、人は生まれながらに仏さまなのです。
また、「アギャー」の〈ギャー〉は何でしょう。皆様がご存知の『般若心経』の真言「ギャーテイ、ギャーテイ」は〈到達した〉と解釈します。だから、「アギャー」は「仏の国から、いま生まれて来たぞ!」と大声で宣言しているのではないか、と私は大胆に推察しています。皆様はこの推察を、何とお思いでしょうか。
人はこうして仏さまとして生まれながら、しだいに煩悩の垢が増え、四苦八苦の人生を歩みます。だから、垢おとしをする必要があります。信仰に精進するのも、修行に励むのも、先祖供養をするのも、すべてはこの意味です。お寺で庭を掃き清める時は、「塵を祓い、垢を除かん!」という気持で箒を持つのは、この意味なのです。
パワースポットにも用心を
令和5年3月5日
あさか大師では昨日と今日、お彼岸前の総回向を修しました。お護摩と同様に、僧侶はもちろん、ご信徒の参詣者も全員が世代を超えて読経しました(写真)
お寺に行っても、格別にパワーを感じない場合があります。それから、昔はすごいパワーがあったのに、今は残念だなと思う場合もあります。そして、入っただけで気分が良くなり、体が軽くなる場合もあります。この違いは何なのでしょうか。
ご祈願であれ、ご回向であれ、成就をするためには三つのパワーが必要とされています。すなわち、ご本尊さまとお導師とご信徒の三つパワーが融合しなければ、ご祈願もご回向も成就しないという意味です。そのためには、普段から三つのパワーを融合させねばなりません。お導師だけが頑張っていても片手落ちです。ご信徒が自力で頑張っても、その祈りには限りがあります。特に真言密教のお導師は、ご本尊さまに感応する行法がありますから、ご信徒はお導師と共に、いっしょに祈ることが大切なのです。また、毎日続けることも大切です。年に一度の大祭や記念行事だけでは、本当のパワーは生まれません。
したがって、この三つのパワーが融合しているお寺に行くと、気分が良くなり、体が軽くなり、不思議なパワーがみなぎって来るのです。あさか大師にもいろいろな方がいらっしゃいます。僧侶の方が葬儀をしたり、火葬場に出向いた場合、体が重くなったり、体調をくずす方もいますが、本堂に一歩入るや、体が軽くなり、体調を取り戻しています。ご信徒の方も同じです。ご信徒の場合、よほど具合が悪い場合は、直接にお加持や整体をすると、たいていは解決します。
それはどうしてかといいますと、毎日ご信徒と共に、この三つのパワーを融合させているからです。まさに単純明快、これ以外には何もありません。よくパワースポットといいますが、常にパワーを融合させる管理者(つまりお導師)がいなくてはかえって危険です。用心せねばなりません。このことは念頭に入れておいてください。
人は臨終で何を思い出すのか
令和5年3月2日
人はターミナルステージ(末期)を迎えた時、子や孫の名をさかんに呼ぶことがあります。これはこの世で過ごした家族への想いがこみ上げて来るからでしょう。また、現実には誰もいないのに、子や孫がそこにいるといった幻覚を伴うことも特徴のひとつです。私も思い当たる例を、何人か知っています。
また、例外なく「水が飲みたい」と訴えます。すでに体は衰弱し、呼吸や発声もむずかしく、水を飲み込むのも困難なはずなのに、もうろうとした意識の中で水を欲するのはなぜなのでしょうか。特に私の祖父がそうであったことを目の当たりにして以来、私は長い間このことが気になっていました。
私論をお話するなら、これは母親の胎内で羊水に浸っていた記憶が甦っているからではないでしょうか(写真提供・竹内正人医師)。血液の主成分は水です。その血液の流れる肉体が終ろうとする時、この世に誕生する前の、胎内での〝ふわふわした思い出〟が浮上するのだと推察されるのです。それだけに、水と生命が密接に関わっていることは言うまでもありません。水こそは生命が欲する最初の、そして最後の物質なのです。
また、さらにお話をするなら、いわゆる〈末期の水〉もまた、この羊水への回帰を意味するのではないかと私は思っています。意識が肉体を離れるその時、末期の水は最高の贈り物です。そして、人の想いを伝える最高の媒体も水です。真言密教では修法の始めに、水を用いた〈洒浄〉という作法で道場を清めます。仏壇にも必ず水を供えます。お墓参りにも、まずは水桶が必要です。人は水がなければ、この世もあの世も生きられません。
単に、乾いた唇を湿らすだけではないのです。あの世に旅立つ大切な儀式です。末期の水を差し上げるだけでも、旅立つ人はその人に感謝を捧げるはずです。決して、おろそかにはなさいませぬよう。
霊感は誰にでもあります
令和5年2月28日
私はいわゆる霊能者ではありません。また、自分は霊能者だと称する人を、あまり信用する気にはなれません。しかし、霊的な体験はいくらでもあります。また、〈ひらめき〉や〈霊感〉という言葉なら、少しは馴染める気がします。そして、「霊感は誰にでもあります」というのが私の持論です。
それはどういう意味なのかといいますと、私たちの身辺にあるもの、身辺におこっていることは、すべてこれ仏さまのお知らせ、仏さまの説法だとするのがお大師さまの教えだからです。だから、これに気づかねばなりません。気づくためには身辺にアンテナを張り、何を意味するのかを考え、反省をすることです。そして、その答えに行きついたなら、誰でもみな霊感を得るのです。
たとえば、一生懸命に祈っているのに何の変化もないという場合、よくよく考える必要があります。相手が傷つくような祈りをしていないか、不相応な祈りをしていないか、時期尚早の祈りをしていないか、成就することが本当によいことなのかを考えることです。このような時、仏さまはあえてヒントだけをくださることがあります。自分の健康を害したり、対人関係でつまづいたり、もう一歩のところで行き詰まったりしてヒントをくださいます。それは、祈る自分や祈る内容のどこかに問題があるからです。だから、祈る人は謙虚に反省をすることが大切です。そして、謙虚に反省して、どんなお知らせなのかに気づいた時、人はひらめき、霊感を得るのです。
私はこのあさか大師を建立するにあたっては、いろいろな土地を探し歩きました。はじめは本県入間郡三芳町に手頃な土地があり、そこにしようと決めていたのです。私はどうしてもその土地を購入したいと思い、深夜に何度も出向いては、「この土地を私にお譲りください」と祈願をしていました。ところが、地主さんとの交渉は結局、合意しませんでした。私は一時、自分の祈りに自信を失いかけたほどでした。どうしてなのか迷いました。そして、そのことをお大師さまに問いました。すると、しだいに理由がわかって来たのです。これは叶ってはいけないことなのだ、あの土地に問題があるのだとわかったからです。事実、そのとおりでした。まさに霊感です。
すると、どうでしょう。あさか大師のこの土地が突然に浮上し、地主さんとも二つ返事で決まってしまいました。私に本当に必要な土地が現われるまで待ちなさいというお大師さまの意図が、霊感を通じてわかりました。祈りは必ず通じます。しかし、その結果はまちまちです。何の変化もないと思えることもあります。それをどう受け取るか、どんなお知らせなのか、霊感をもって探ることです。
キリスト教では、それぞれの祈りをするにあたって、どのように祈るのか、その具体的な文章を記載した教本があります(写真は光明社刊)。
私はご祈祷を本領とする真言密教にも、このような教本が必要ではないかと思っています。病気を祈るにも、天命をまっとうしたいのか、平癒の後は何をして報いたいのか、最良の医師や病院を探しているのか、そのへんが曖昧です。そのためにも、こうした祈りの教本が必要です。「皆様がそれぞれの祈りの中で、ひらめきと霊感に恵まれますように。ソワカ」
五黄の日は何がおこるのか
令和5年2月26日
まず、「五黄(土星)の日は要注意ですよ」と申し上げておきましょう。
私は毎朝、机上の『四盤暦』(青年気学研究会)を開いてその日の日盤を調べ、「今日は何の問題が舞い込むのか、何が話題になるのか」といったことを推理しています(写真)。四盤歴とはその日の年盤・月盤・日盤・時盤がページごとに記載されたプロ用の暦です。特に日盤を見れば、その日の九星の象意によって、だいたいの予測がつきます。
一白の日は病気や借金の問題が舞い込みます。また水に関する話題、男女間の話題、部下や従業員の話題が多い日です。
二黒の日は土地や労働(仕事)の問題が舞い込みます。また介護の話題、就職の話題、古い話題が多い日です。
三碧の日は新規ごとや子息(青年)の問題が舞い込みます。また音や声の話題、驚く話題、うわさの話題が多い日です。
四緑の日は商談や結婚の問題が舞い込みます。また遠方の話題、拡張の話題、仲介の話題が多い日です。
五黄の日はやっかいな問題やとらえがたい問題が舞い込みます。またお墓や霊的な話題、毒性悪性の話題が多い日です。
六白の日は政治や法律の問題が舞い込みます。また上司の話題、競争の話題、貴金属の話題が多い日です。
七赤の日はお金や恋愛の問題が舞い込みます。またグルメの話題、行楽の話題、買い物の話題が多い日です。
八白の日は変革や貯金の問題が舞い込みます。また山の話題、修養の話題、相続の問題が多い日です。
九紫の日は警察や役所の問題が舞い込みます。また芸術の話題、学問の話題、火災の話題が多い日です。
ところで、一昨日は五黄の日でした。朝から覚悟はしていましたが、私にとっては、大変な厄日となりました。舞い込んでくることが厄介なことばかりです。同じ土星でも、二黒の〈大地〉、八白の〈山〉に対して、五黄は〈原野〉を表します。畑になるのか、家が建つのか、お墓になるのか、とらえようがありません。つまり、この自然界の太極であり、何もかも取り払った原点(白紙)なのです。だから、どんなものでも舞い込んできます。ドロドロとして、出口の見えない問題が多いのも特徴です。
五黄は九星中最強の座にあり、それだけに孤独で不安定でもあります。五黄の人は波乱が多く、何となくとらえがたい性格であるのもうなずけましょう。したがって人一倍の能力と徳が必要となります。逆にそれを備え得れば、万人の長となるのです。皆様、「五黄が来りて口笛を吹く日」にご用心を。
失物をする理由を知っていますか
令和5年2月24日
前回、私は「この世で所有するものは何もない」と言い、天与の預かりものだと言い、どれだけ預かれるかは徳のいかんだとお話をしました。今回はちょっと、その続きのお話です。
皆様は大切なものを失くして、困った経験がありませんか。落とし物や忘れ物をして交番や駅長室を訪ねた経験はありませんか。また、盗難にあって途方に暮れた経験はありませんか。こうして、自分の所有から離れたものを、総じて〈失物〉と呼びます。
失物をする原因は、注意が散漫であるとか、そそっかしいとかの性格が大きいかも知れません。また、偶然という範疇で考えられるかも知れません。しかし、この理由が「荒神さまからお叱りを受けたからです」といったら、皆様は驚くでしょうか。しかし、これは間違いのない事実です。不敬によって、徳を失ったからです。
荒神さまは正確には〈三宝荒神〉といい、昔は〈竈の神さま〉として信仰されました。つまり、火を使って生活をする以上、そこには必ず荒神さまがおり、家の中を守ってくださるとされて来ました。現代の生活では、ガス台やIHがこれに該当します。したがって、荒神さまのお札があろうがなかろうが、信じようが信じまいが、火を必要とする家には必ずいらっしゃることになります(写真)。
昔は神棚や仏壇の前はもちろん、竈の前で腹を立てたり、悪口を言ってはいけないとしつけられました。荒神さまへの不敬になるからです。そして、真言密教においては、それが失物の原因だという伝承があるのです。まさかと思うでしょうが、私は失物を見つけ出す方法として、どれほどこれを実証して来たかは数知れません。もちろん、私自身も何度も実証しました。これを「失物発見法」として弟子僧はもちろん、ご信徒の方にもお伝えして来ました。今でも、多くの方々に感謝をされています。
方法は簡単です。ガス台かIHのスイッチを入れ、お線香を一本立てます。そして、「過ちを犯しましたなら、どうぞお許しください」と念じ、般若心経と荒神さまの真言(オン ケンバヤケンバヤ ソワカ)を唱えればよいのです。家の中で紛失したものはスグに出ます。外の場合は少し時間はかかりますが、そのまま見つかる場合、財布のお金だけが抜き取られて見つかる場合、形跡が見つかる場合など、何らかの結果は必ず現れます。
皆様もガス台やIHのスイッチのそばではもちろん、家の中で腹を立てたり、悪口を言ってはならないと自戒しましょう。そして、もし失物をしたならば、心から荒神さまにお詫びをしましょう。現代生活に「何が竈の神さまか」などとあなどってはなりません。どんな時代であっても、神も仏も荒神さまも、間違いなくいらっしゃるからです。
なお、あさか大師では荒神さまのご加護がある火伏札(火難よけ札・千円)を元旦からお授けして、台所に貼っていただいています。(写真)。
目にするたびに荒神さまを意識しますし、不敬を慎む習慣が身につきます。この火伏札にも不思議な霊験は数知れません。ご希望の方はホームページ「お問合わせ」からお申し込みください。不思議ですよ、本当に。