山路天酬法話ブログ
いいかげんに生きる
令和元年5月23日
人は「いいかげん」に生きることが大切です。
いや、決してふざけているのではありません。いいかげんとは〝よい加減〟です。〝ほどよい加減〟なのです。実は、これこそが仏教の根本命題である〈中道〉の教えそのものなのです。どっちつかずという意味の中道ではありません。ほどよい加減は、一つしかないのです。
–> 続きを読む
うわさ話
令和元年5月22日
また、『徒然草』の名言をご紹介しましょう。
第73段に「世に語り伝うること、まことはあいなきにや、多くはみな虚言なり」とあります。世の中に語り伝わることは、なかなか真実はないものだ。多くはみなウソの話ばかりである、といった意味になります。そして、そのウソの話の筆頭こそは〈うわさ話〉といえましょう。
お寺の中でも、よくあることです。私がちょっと元気のない顔でもしていると、誰かが「顔色が悪かったよ」と話すと、次の人は「病気じゃないの」となるのです。次の人は「かなり重症らしい」、次の人は「入院したらしい」、次はとうとう「もう、あぶないらしい」となって(笑)、私はいつの間にか殺されることになるのです(笑)。いや、これはもちろん冗談です。
冗談ですが、しかし、私たちは人にモノを伝える時、たいていは少しずつ誇張して話していることがわかりますでしょうか。「多くはみな虚言なり」とは、このことです。自分の眼と耳で確認したこと以外は、よくよく気をつけねばなりません。
これが笑い話で済めば、まだいいのです。しかし、うわさ話が大きな誤解や、偏見、時としてとんでもない悲劇を生むことすらあることを知りましょう。言葉の刃物を「舌刀」とまで言うのです。こわい話ですよ。うわさ話は凶器にもなるのですよ。自重、自重。
70パーセント主義
令和元年5月21日
うつ病になる方は、みな、まじめなのです。むしろ、まじめ過ぎるのです。
何事も完璧になそうとします。つまり、100パーセントを望む完全主義者なのです。他人の失敗まで自分の責任であるかのように考え、一人で悩むのです。それだけ、性格が潔癖なのでしょう。しかし、この世で100パーセント完璧な生き方などできるはずがありません。
故人となった斎藤茂太さんは、歌人・斎藤茂吉の長男であり、また精神科医として斎藤病院の院長を勤めたほか、ユーモアに富んだ著作家としても活躍しました。その著作の中に『人生80パーセント主義』があり、私は何度もくり返し読みました。要は、うつ病に陥いる人はあまりにも100パーセントの結果を望み過ぎるから、これを80パーセントほどに考えれば、精神的なストレスは相当に緩和するということ書かれてありました。
しかし、私はさらに数字を下げて70パーセントほどでよいのではないかと考えています。自分が望んだことの70パーセントも叶えば、充分ではないでしょうか。そう考えるようになって、私もずいぶん楽になったものです。
これは妥協ではありません。目標に向かっては全力で当たりましょう。持てる力は出し切りましょう。でも、完璧な達成に至らずとも、引きずってはなりません。いつまでも悩まず、次のチャンスを待ちましょう。
ハンドルのように〝遊び〟がなければ、心の舵取りはできません。まじめで責任感がつよく、潔癖な方に、この話はきっと役立ちますよ。私もそうでしたから。
融通
令和元年5月20日
昨日、ちょっとお金のお話をしました。今日はその続きです。
大阪の街を歩いていますと、よくお寺の山門の脇に「〇〇町の融通さん」という石碑が立っています。さすがは商人の街です。「融通さん」とは、要は如意宝珠というお宝を生む珠を持っている仏さま、例えば虚空蔵さま・観音さま・お地蔵さまが安置されているお寺という意味なのだそうです。「融通さん」という表現に、それだけの関心があるのでしょう。
ところで、融通とはどういう意味でしょう。『広辞苑』によれば、「解けあって滞りなく通ずること」とあります。互いに共通の利益があって共栄すれば、お金が流通するという意味でありましょう。
お金に対して人が最も誤るのは、人が損をすれば、逆に自分が儲かるという発想です。でも、これでは融通になりません。人に利益をもたらすと共に、自分にも利益がなければ融通ではありません。人あっての利益です。人が喜んでこそ、自分も喜べるのです。
お金のことを語るのは、いろいろ〝はばかり〟もありますが、勇気を出してお話しました。僧侶の私ががお金の話をしたのです。皆様も融通の一語を忘れないでください。必ず、ですよ。
金運宝珠護摩
令和元年5月19日
毎月第三日曜日は午前11時半より、金運宝珠護摩を修しています(写真)。

私がこのお護摩を修すべきだと思った理由は、現代は人の幸福と金運を切り離しては考えられないからです。わかりやすく申し上げるなら、「お金がなくても幸せになれる」とは言いがたい時代であるという意味です。お金は自分の分身であり、能力を示す証明であり、大切な友なのです。
–> 続きを読む
縁の不思議さ
令和元年5月18日
昨日は人生の出会いと縁起についてお話をしました。今日はその続きです。
およそ、〈縁〉ほど不思議なものはありません。縁があったかなかったか、人生はそれで決まると言っても過言ではありません。何をするにも何をなすにも縁なのです。誰と出会うのも縁なのです。
たとえば、あなた様がご結婚をなさっているのであれば、どうしてご主人(奥様)と結ばれたのでしょうか。友人から紹介されたからですか? パーティーで出会ったからですか? 同じ趣味を持っていたからですか?
これらは、いかにも理由らしくは聞こえますが、根本の理由ではありません。では、その根本の理由は何かと考えるなら、「縁があったから」という以外にはあり得ません。縁がなければ出会うこともなく、その顔を見ることも、名前を聞くこともなかったはずです。まったくのアカの他人です。
–> 続きを読む
誰に出会うか
令和元年5月17日
私たちは、何をするか、何をなしたかで人生が決まります。
しかし、同じほどに大切なことは、誰に出会うかということでありましょう。つまり、何をするにも何をなすにも、いい出会いがなければ始まらないということなのです。いい友に出会い、いい師に出会い、いい仲間に出会うことで、私たちは物ごとがうまく運ぶのです。だから、私たちはいい出会いを求めて、人生の気くばりをしなければなりません。
–> 続きを読む
プラス・アルファの努力
令和元年5月16日
私はどのような職業も、いわゆる〈サービス業〉であると思っています。
サラリーマンであれ、職人でも農家でも、また運転手でも船乗りでも、仕事上の商品や技術に加えた別の何かをを与えなければならないからです。その何かとは、信用であり、真心であり、親切であり、総じて私はこれをサービスと称し、すべての職業はサービス業であると考えているのでございます。
現代人は豊富なモノの中で暮らし、スーパーでもコンビニでもお店でも、そこで働く店員の応対が悪ければ、二度と足を運びません。だから、商品や技術に加えた何かを与えねば、きびしい競争に勝ちぬくことはできませんし、発展も望めません。
–> 続きを読む
バカは死んでも
令和元年5月15日
お釈迦さまは人間のあらゆる苦しみの原因は、〈無明〉であるとされました。
〈明〉とは智慧のことです。ですから、無明とは智慧がないこと、つまり、おろかであるという意味になります。そうすると、「バカは死ななきゃ」と言いますけれども、輪廻転生をも含めて考えれば、「バカは死んでも救われない」こそ仏教の教えだと申し上げたら、叱られますでしょうか。
ふざけているのではありません。まじめなお話です。考えてみてください。これまでに自分が失敗し、苦しみ悩んだんだことの原因は何でありましたでしょうか。あんなヤツに出会ったからですか? サギにあったからですか? 仲間割れをしたからですか?
–> 続きを読む
地獄と極楽
令和元年5月14日
皆様は極楽とやらに行きたいでしょうか? 極楽浄土とやらで、幸せに暮らしたい、思いを寄せる人と今度こそは添い遂げたいと、そのように思いますでしょうか?
では、その極楽とはどんなところなのでしょうか。また極楽浄土はどこにあるのか、そんなことを考えたことはありませんか。
一般に連想される極楽とは、きれいなお花畑に囲まれ、黄金や宝石で作られた宮殿があり、甘露のような小川が流れ、住む人も善人ばかりで、毎日ご馳走を食べながら歌ったり踊ったりしているような、そんなイメージではないかと思います。
皆様、いかがでしょうか? 本当にこんなところで暮らしたいと思いますか?
–> 続きを読む

