山路天酬法話ブログ
インスタントラーメン
令和元年5月25日
ごく、まれにですが、インスタントラーメンを食べることがあります。
ちょっと気づいたのですが、一時のような高級品がなくなったように思います。『中華三昧』はスーパーにはありますが、コンビニにはありません。かつて『揚夫人(マダムヤン)』という高級品が流行し、美しい台湾女優さんの「マダムヤンは私のラーメンです」というテレビCMが一世を風靡しました。商品よりも、画面に映る妖艶なこの夫人を、日本中の男たちが口を開けて見ていたものです(笑)。昭和50年代でしたが、ネットの動画で見ることができますので、なつかしい方はぜひご覧ください。
同じころ、『華味餐庁(カミサンチン)』が発売されました。こちらの女優さんの「お客さまに出せるラーメンです」を覚えていますでしょうか。また、生タイプのものも発売され、インスタントラーメンはまさに苛烈な競争となりました。
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窮すれば変ず
令和元年5月24日
私たちは毎日、さまざまな言葉に接しながら生きています。単なる雑談や冗談もあれば、真剣に耳を傾ける自戒や教訓に満ちた言葉もあります。時には、涙を流すほどの感動の言葉もありましょう。
そんな中で、一生を費やしても忘れられないほどの言葉となると、その数は決して多いとは思えません。よほどの教養人でも五指には満たず、一般には三指にも至らず、もしかしたら一つすら浮かばないという方も多いはずです。
こんなことを考える時、私があえてその一つを選ぶとすれば、『易経』の中の「窮すれば変ず、変ずれば則ち通ず」でありましょう。これは窮すれば、つまり追いつめられて本当に困窮した時、私たちは新たな活路を求めて別の方法を考える。つまり変化を求める。その変化から、まったく新しい道が開かれる、と、そういう意味なのです。
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いいかげんに生きる
令和元年5月23日
人は「いいかげん」に生きることが大切です。
いや、決してふざけているのではありません。いいかげんとは〝よい加減〟です。〝ほどよい加減〟なのです。実は、これこそが仏教の根本命題である〈中道〉の教えそのものなのです。どっちつかずという意味の中道ではありません。ほどよい加減は、一つしかないのです。
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うわさ話
令和元年5月22日
また、『徒然草』の名言をご紹介しましょう。
第73段に「世に語り伝うること、まことはあいなきにや、多くはみな虚言なり」とあります。世の中に語り伝わることは、なかなか真実はないものだ。多くはみなウソの話ばかりである、といった意味になります。そして、そのウソの話の筆頭こそは〈うわさ話〉といえましょう。
お寺の中でも、よくあることです。私がちょっと元気のない顔でもしていると、誰かが「顔色が悪かったよ」と話すと、次の人は「病気じゃないの」となるのです。次の人は「かなり重症らしい」、次の人は「入院したらしい」、次はとうとう「もう、あぶないらしい」となって(笑)、私はいつの間にか殺されることになるのです(笑)。いや、これはもちろん冗談です。
冗談ですが、しかし、私たちは人にモノを伝える時、たいていは少しずつ誇張して話していることがわかりますでしょうか。「多くはみな虚言なり」とは、このことです。自分の眼と耳で確認したこと以外は、よくよく気をつけねばなりません。
これが笑い話で済めば、まだいいのです。しかし、うわさ話が大きな誤解や、偏見、時としてとんでもない悲劇を生むことすらあることを知りましょう。言葉の刃物を「舌刀」とまで言うのです。こわい話ですよ。うわさ話は凶器にもなるのですよ。自重、自重。
70パーセント主義
令和元年5月21日
うつ病になる方は、みな、まじめなのです。むしろ、まじめ過ぎるのです。
何事も完璧になそうとします。つまり、100パーセントを望む完全主義者なのです。他人の失敗まで自分の責任であるかのように考え、一人で悩むのです。それだけ、性格が潔癖なのでしょう。しかし、この世で100パーセント完璧な生き方などできるはずがありません。
故人となった斎藤茂太さんは、歌人・斎藤茂吉の長男であり、また精神科医として斎藤病院の院長を勤めたほか、ユーモアに富んだ著作家としても活躍しました。その著作の中に『人生80パーセント主義』があり、私は何度もくり返し読みました。要は、うつ病に陥いる人はあまりにも100パーセントの結果を望み過ぎるから、これを80パーセントほどに考えれば、精神的なストレスは相当に緩和するということ書かれてありました。
しかし、私はさらに数字を下げて70パーセントほどでよいのではないかと考えています。自分が望んだことの70パーセントも叶えば、充分ではないでしょうか。そう考えるようになって、私もずいぶん楽になったものです。
これは妥協ではありません。目標に向かっては全力で当たりましょう。持てる力は出し切りましょう。でも、完璧な達成に至らずとも、引きずってはなりません。いつまでも悩まず、次のチャンスを待ちましょう。
ハンドルのように〝遊び〟がなければ、心の舵取りはできません。まじめで責任感がつよく、潔癖な方に、この話はきっと役立ちますよ。私もそうでしたから。
融通
令和元年5月20日
昨日、ちょっとお金のお話をしました。今日はその続きです。
大阪の街を歩いていますと、よくお寺の山門の脇に「〇〇町の融通さん」という石碑が立っています。さすがは商人の街です。「融通さん」とは、要は如意宝珠というお宝を生む珠を持っている仏さま、例えば虚空蔵さま・観音さま・お地蔵さまが安置されているお寺という意味なのだそうです。「融通さん」という表現に、それだけの関心があるのでしょう。
ところで、融通とはどういう意味でしょう。『広辞苑』によれば、「解けあって滞りなく通ずること」とあります。互いに共通の利益があって共栄すれば、お金が流通するという意味でありましょう。
お金に対して人が最も誤るのは、人が損をすれば、逆に自分が儲かるという発想です。でも、これでは融通になりません。人に利益をもたらすと共に、自分にも利益がなければ融通ではありません。人あっての利益です。人が喜んでこそ、自分も喜べるのです。
お金のことを語るのは、いろいろ〝はばかり〟もありますが、勇気を出してお話しました。僧侶の私ががお金の話をしたのです。皆様も融通の一語を忘れないでください。必ず、ですよ。
金運宝珠護摩
令和元年5月19日
毎月第三日曜日は午前11時半より、金運宝珠護摩を修しています(写真)。

私がこのお護摩を修すべきだと思った理由は、現代は人の幸福と金運を切り離しては考えられないからです。わかりやすく申し上げるなら、「お金がなくても幸せになれる」とは言いがたい時代であるという意味です。お金は自分の分身であり、能力を示す証明であり、大切な友なのです。
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縁の不思議さ
令和元年5月18日
昨日は人生の出会いと縁起についてお話をしました。今日はその続きです。
およそ、〈縁〉ほど不思議なものはありません。縁があったかなかったか、人生はそれで決まると言っても過言ではありません。何をするにも何をなすにも縁なのです。誰と出会うのも縁なのです。
たとえば、あなた様がご結婚をなさっているのであれば、どうしてご主人(奥様)と結ばれたのでしょうか。友人から紹介されたからですか? パーティーで出会ったからですか? 同じ趣味を持っていたからですか?
これらは、いかにも理由らしくは聞こえますが、根本の理由ではありません。では、その根本の理由は何かと考えるなら、「縁があったから」という以外にはあり得ません。縁がなければ出会うこともなく、その顔を見ることも、名前を聞くこともなかったはずです。まったくのアカの他人です。
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誰に出会うか
令和元年5月17日
私たちは、何をするか、何をなしたかで人生が決まります。
しかし、同じほどに大切なことは、誰に出会うかということでありましょう。つまり、何をするにも何をなすにも、いい出会いがなければ始まらないということなのです。いい友に出会い、いい師に出会い、いい仲間に出会うことで、私たちは物ごとがうまく運ぶのです。だから、私たちはいい出会いを求めて、人生の気くばりをしなければなりません。
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プラス・アルファの努力
令和元年5月16日
私はどのような職業も、いわゆる〈サービス業〉であると思っています。
サラリーマンであれ、職人でも農家でも、また運転手でも船乗りでも、仕事上の商品や技術に加えた別の何かをを与えなければならないからです。その何かとは、信用であり、真心であり、親切であり、総じて私はこれをサービスと称し、すべての職業はサービス業であると考えているのでございます。
現代人は豊富なモノの中で暮らし、スーパーでもコンビニでもお店でも、そこで働く店員の応対が悪ければ、二度と足を運びません。だから、商品や技術に加えた何かを与えねば、きびしい競争に勝ちぬくことはできませんし、発展も望めません。
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