山路天酬法話ブログ

仏像に心引かれる理由

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仏教

令和元年6月25日

 

数年前、ある弁護士さんの事務所を訪ねましたら、仏像の写真がたくさん飾ってありました。

そこで私が、「仏像がお好きなのですか」と聞きましたところ、「生々しい訴訟問題に関わっているので、仏像を観るとホッとするのです」という答えでした。たしかに、他人のやっかいなお話ばかり聞くのですから、仕事の合い間に仏像のやさしい姿に接したいのだろうと思いました。

いったい、私たちが仏像に心引かれる理由は何なのでしょうか。

心引かれるということは、実は同じものがあるからなのです。つまり、私たちの心に〈仏心〉があり、その仏心が仏像に心引かれるのです。同じものがあるからこそ、同じものどうしが互いに共鳴するのです。類が類呼ぶのです。ほかの理由など、あるはずがありません。

もし、私たちの心に仏心のカケラもないとするなら、仏像などに興味すら持つはずがありません。仏心があるからこそ、仏教の教理など知らずとも、仏像の知識すらなくとも、仏像に心引かれ、深く感動するのです。だからこそ国立博物館の「仏教美術展」に、何時間も並んでまで入場するのです。

仏師が仏像を彫るのも同じことです。木材の中から、どうしてホトケの姿が現れるのかというと、それも仏師の心に仏心があるからです。そうでなければ、ノミを打ってホトケの姿など、彫り出し得るはずがありません。

お寺で仏像に接する時は、ぜひこのことを思い出してください。「私の心に仏心があるから、ここに来たのだと」と、ね。

偉大な救い

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人生

令和元年6月24日

 

忘れることは、偉大な救いです。

まず、高齢になると物忘れがひどくなります。しかし、何十年も駆使くしした脳が退化するのはあたりまえで、やむを得ぬことです。それでも、私はあえて断言しましょう。高齢になって物忘れがひどくなるのは、あの世へく準備をしているのです。あの世へ往っても、この世に残した財産がどうの、やり残した仕事がどうの、にくよめさんがどうの(失礼!)では、未練を断ち切れません。だから、いよいよの時が来たら、この世の執着は断ち切ることが大事で、これは偉大な救いなのです。これが、まずひとつ。

次に、高齢にならずとも、私たちは忘れることがなかったら、どうなりますでしょうか。イヤなことの抑圧に、身も心もボロボロになるはずです。イヤなことは時間と共に忘れる、あるいは忘れたようなフリをすることが肝要です。だから、時間こそは、時間が過ぎ去ることは、偉大な救いなのです。まさに、過去とは「あやまちが去る」ことなのです。特にストレス社会の今日、居酒屋やカラオケでさをはらしても、忘れることが出来なくてはこの身が持ちません。少なくとも、忘れたようなフリをしましょう。

私たちは忘れることで、心のメンテをしています。忘れることは、偉大な救いです。そうでしょう。

擬宝珠(ぎぼうし)

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挿花

令和元年6月23日

 

ギボウシをいただいたので、さっそく床の間にしました(写真)。漢字では擬宝珠ぎぼうしゅと書きますが、つまって「びぼうし」あるいは、「ぎぼし」と言います。文字どおり「宝珠に似たもの」といった意味の花です。写真ではわかりにくいかも知れませんが、つぼみの形がお寺や橋の欄干らんかん(先のとがった飾りをつけた手すり)に似ています。つまり、仏教の如意宝珠にょいほうしゅにも似た花ということです。

東アジアに多く分布し、特に日本には二十種ほどあるそうです。谷沿いの岩場や湿原などに生え、白や薄紫の花を咲かせます。この時期に山に入ると、谷川のかたわららでよく見かけることでしょう。ただ、一日花なので、朝に開いて、夕方には閉じてしまいます。

実は、ヨーロッパでも人気があります。それは江戸時代にシーボルトが持ち帰ったため、もともと自生していたかのように普及したからです。ツアーを組んで、わざわざ日本にやって来る人たちがいるほどで、うれしいかぎりです。ナポリ出身の友人女性・ブルーナさんに、「これは仏教の花ですよ」と説明したことがありました。

お大師さま(弘法大師)は如意宝珠を真言密教の象徴とされました。だから、この花をお供えとして挿しています。あさか大師のご宝前にも如意宝珠を安置していますが、それに花が添えられれば、申し分がありません。今日一日がとても豊かになりました。

皆様もこの花を見ましたら、ぜひ今日のブログを思い出してください。そして、仏教の花であることを人にも教えてください。

功徳こそは

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仏教

令和元年6月20日

 

二日連続で健康法のお話をしました。今日はちょっと、別な視点からお話をしましょう。

歩くことも、声を出すことも、健康法としてとてもよいことです。私はウォーキングと共に「水平足踏あしぶみ(両膝りょうひざを水平まで上げる足踏み)」を実践していますし、声出しならカラオケ・コーラス・詩吟・謡曲から、スポーツや武道の掛け声、野球やサッカーの声援など、いくらでもあります。このような中で、私が特に読経を進める理由は別にあるのです。皆様が信じる信じないはともかく、一応はお話しましょう。

それは何かと申しますと、読経をすることは〝功徳くどく〟になるということなのです。そして功徳こそは、この世の人間が、あの世に持ちこせる唯一の財産であるということです。

私たちは実は、眼にも見えず、耳にも聞こえないいろいろな次元に関わりながら生きています。いつかお話をしましたが、家の中で口論をしたり、ガスや IH の周りを不浄にすると、失物をしたり盗難にったりします。またお稲荷いなりさまのやしろや家のお墓を荒れ放題ににすると、さまざまな災難に見舞みまわれます(驚かしてスミマセン!)。

読経をすることは、仏さまにも神さまにも大きな功徳が積めるのです。そして、その功徳はあの世に持ち越せる唯一の財産となるのです。おひつぎに一万札をどれほど入れても、あの世には持ち越せません。ただ、この世でどんな生き方をしたか、何をしたか、つまりどんな功徳を積んだかだけが残り、これをあの世に持ち越すのです。そうでなければ、私たちは生まれた時から、裕福も貧困もありません。堅固も病弱もありません。優等も劣等ありません。これ、信じていただけますか?

窮屈なお話になってしまいました。でも読経をすると、功徳になることは確かなのです。仏さまの教えですよ。どうか、皆さま・・・。

声出し健康法

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健康

令和元年6月19日

 

昨日、健康法のお話をしました。実は私たち僧侶には、特別な運動などしなくても、とっておきの健康法があるのです。

それは何かといいますと、読経によって声を出すこと、つまり〈声出し健康法〉なのです。読経というと皆様は暗いイメージをいだくかも知れませんが、そんなことはありません。特にあさか大師のお護摩では、参詣者も太鼓に合わせて、お腹の中から大きな声を張り上げてお経や真言を唱えます。だから、自然に深い腹式呼吸となり、身心ともに壮快になること、間違いありません。

女性は腹式呼吸が苦手とされますが、あさか大師のお護摩に参拝して読経をすれば、必ずできるようになります。つまり、ほかの参詣者といっしょに読経をすれば、おのずから〈声出し健康法〉が身に着くのです。太鼓のリズムに合わせて読経をすればストレスが解消し、免疫力が増大し、血流が改善されます。髪や爪の伸びも早くなります。

それは、読経の後、汗が出るほど体温が上がっていることでも証明されましょう。現代人は冷たいお茶を飲み、体を冷やす料理を好み、夏はクーラーで体を冷やします。「冷えは万病のもと」といわれますが、標準体温を大きく下回る方があまりにも多過ぎます。だから、体温を上げることは、健康法のかなめともいえましょう。

そのためにも読経に親しみ、〈声出し健康法〉を実践したいものです。声こそは健康のバロメーターです。声の大きい人は元気ですし、仕事もできる人です。間違いありませんよ。

ウォーキング

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健康

令和元年6月18日

 

近くの黒目川添いにすてきな遊歩道があり、私のウォーキングコースの一つになりました(写真)。

私も以前はジムに通い、筋トレやランニングをしていました。ところが、ある雨の日に階段から転倒してひざを打ったため、以後は断念しました。今はウォーキングと水平足踏あしふみだけを自分の健康法として実践しています。しかし、考えることの多い私には、この方が合っているようにも思います。

十八世紀のフランスにルソーという思想家がいて、若い時にはずいぶん愛読しました。彼はとても散歩が好きで、その著『告白』の中でこんなことを書いています。

「歩くことは私の思想を活気づけ、生き生きさせる何ものかをもっている。じっとしていると、私はほとんど何も考えられない。私の精神を動かすためには、私の肉体が動いていなければならないのだ」

つまり、歩くことは動く瞑想なのです。お大師さまも青年の頃には大和や紀州、あるいは四国の山中をひたすら歩かれました。また後年には京都と高野山をどれほど往復されたことでしょう。それが今日、四国遍路として継承されました。お遍路さんたちは歩きながらお大師さまの宝号を唱え、ひたすら意識を統一し、願いごとに集中しているのです。

健康法としても、無理な運動より歩くことが一番です。考えごとがあったら、とりあえず歩きましょう。悩みごとがあったら、とりあえず歩きましょう。脳年齢が若返り、痴呆ちほうもふせぎます。肥満や腰痛も緩和します。さて、今日もそろそろ出かけますか。

トイレの神さま

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信仰

令和元年6月17日

 

トイレそうじをすると、「シモの病気にならない」とか「安産ができる」などといわれています。

これは当然のことで、要はトイレが排泄はいせつやお産に関わる〝シモ〟の場所であるからです。そして人間の生活に必要な場所である以上、必ず神さまがいらっしゃるからです。不浄とされるトイレそうじをすることは、それだけ功徳を積むことになるのです。だからトイレの神さまに好かれ、シモの病気をけ、安産ができるのです。

また、昔の和式トイレはしゃがんで用を足し、雑巾ぞうきんがけをしましたから、おのずから足腰がきたえられます。現代は妊婦の方がプールの中を歩いたりしますが、これをトイレそうじでしていたわけです。やはり、昔の人は自然の理にけていたのでしょう。

トイレのすみに置いた小さな香炉

トイレの神さまを「烏蒭沙摩明王うすさまみょうおう」といい、通称「烏蒭沙摩さま」といいます。不浄除ふじょうよけの御札には、必ず烏蒭沙摩さまの御影みえい(お姿)が描かれたり、真言(マントラ)が書かれています。除臭剤や芳香剤もけっこうですが、本来はおこうを供えるべきなのです(写真)。私は毎朝、お大師さまの本堂、回向殿、水子堂の後、トイレにもお香を供えてから修法しゅほう(おつとめ)に入ります。奈良や京都では、今でもトイレにお香を供えている旅館が多いのはさすがですね。一度、試してみてください。いいことがありますよ。

金運宝珠護摩

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護摩

令和元年6月16日

 

毎月第三日曜日は、午前11時半より金運宝珠きんうんほうしゅ護摩を修しています(写真)。毎日のお大師さまご本尊の場合も如意宝珠にょいほうしゅのお護摩でありますが、今日は特に金運を念じて修しました。現代は特に、金運なくして生きていくことはできません。だから、大勢の方々が集まるのです。

そして、人はつまるところ衣食いしょくが足りてこそ、礼節を知るのです。生活もままならずして、仏教の話など聞く道理がありません。皆様は仏教というと、心の教えとばかり思われましょう。しかし、衣食を求める者には衣食を、悟りを求める者には悟りを与えるのがお大師さまの密教であります。

お大師さまは社会の平和のためには鎮護国家ちんごこっかのご祈祷を、陛下の健康のためには玉体安穏ぎょくたいあんのんのご祈祷を、寺の発展のためには寺門興隆じもんこうりゅうのご祈祷を、庶民の衣食のためには諸人豊楽しょにんほうらくのご祈祷を修されました。そして、弟子の修行成就のためには、俗界を絶った高野山を開かれたのであります。人が求め、人が生きる以上、いずれも必要なことばかりです。

皆様が何の関心も持たないようなむずしいお話をしたところで、お寺に足を向けるはずがありません。このことを肝に銘じ、日々の心がけにしています。生活に直結してご相談に乗れるよう、今後も努力を重ねます。どうぞ、いつでもお越しください。

砥石のおかげ

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社会

令和元年6月15日

 

台所の隅に電動の包丁ぎ機をおいて、マメに包丁を研いでいます。包丁の切れ味が悪いと、料理の意欲も薄れるからです。板前さんなら、なおさらのこと。毎日、砥石といしで包丁を研いで手入れをしているはずですし、昔は床屋さんもそうでした。農家の方なら毎日、鎌を研ぎました。

だから、刃物が切れるのは砥石のおかげだということを忘れるべきではありません。砥石はもちろん、まったくの下役したやくえんの下の役で、表に出ることはありません。日本刀の美しさや包丁の切れ味が称賛されても、砥石が讃えられることはありません。しかし、日本刀も包丁も砥石がなければどうすることもできません。砥石は誰にも注目されず、その産地すら知られていません。これはいったい、どうしたことでしょうか。

実は京都の亀岡に〈たくみビレッジ天然砥石館〉があり、丹波青砥たんばあおと等の名品が展示されています。京都は木造建築や和食文化が永く継承され、それらの道具を研ぐために、すぐれた砥石が集められたのです。観光名所もけっこうですが、こういうところが京都ならではなのです。

私たちの社会は、多くの裏方によって支えられています。自分が裏方になったり、逆に裏方に助けられて仕事をしています。いずれも必要なものです。刃物を扱う方々は、無事に仕事ができるのは、すべてこれ砥石のおかげだということを肝に銘じましょう。

散歩の楽しみ

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人生

令和元年6月14日

 

時間が取れれば、なるべく散歩をしています。

先日、紫陽花あじさいのことを書きましたが、散歩中によいところを見つけました。桜の下に紫陽花を植えており、共に花を楽しめます(写真)。

紫陽花は半日影が好ましいので、ちょうどよいと思いました。あさか大師の隣も桜並木なので、これを見本に紫陽花を植えてみたいと考えています。いま、樹下の水路を歩道にする工事ををしていますので、完了したら取りかかりましょう。参詣の方々が楽しめるはずです。

各地に〈あじさい寺〉がありますが、私が最も感動したのは、京都大原の三千院でした。ちょうど今頃の梅雨の日、往生極楽院との景観には涙が出るほどの思い出となりました。格別に紫陽花を強調しているわけではありませんでしたが、何とふさわしい花だろうと心がときめきました。文字どおり、極楽の片鱗をかいま見た気分でした。

身近なところで、このような喜びに出会えることは人生の妙味です。私は法務のために旅行も出来ませんが、身辺にこのような所を見つけ出していきたいものです。皆様の近辺にもきっとありますよ。ぜひ、探してしてみてください。生きていく時間は、アッという間です。今のままでは後悔しますよ。きっとそうですよ。

山路天酬密教私塾

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