令和元年12月3日
今日も得度式(仏門に入る儀式)があり、お二人の新発意(得度の志願者)が仏門に入りました(写真)。
もちろん私が戒師(お導師)を勤めましたが、お二人とも真剣に、そして何度も礼拝を重ねました。お大師さまをはじめ、国王(天皇)・両親・鎮守と続き、最後に親族や友人ともお別れの礼拝をしました。なぜ家族や友人とお別れするのかといいますと、今後はたとえ家族として同居をしても、また友人として会っても、今までとは違うことを自覚するためです。つまり、世俗にあっても、世俗に染まらぬことを誓うためなのです。式典の後は、どこか覚悟が決まった表情になりました。
ところで、お会いしたこともない天皇陛下になぜ礼拝をするのかといいますと、私たち日本国民のすべてが皇恩を受けているからからです。以前にもお話しましたが、日本は世界最古の国家なのです。2600年以上も一度として滅びることなく、天皇家が絶えることなく、これほど平和が続いた国家など、この地球上にはほかにありません。このすばらしい国に生まれた私たちは、その皇恩に報いねばなりません。私たち一人ひとりが日本のために、その日本は世界のためにあるからです。
次に両親については、当然のことだからです。たとえ両親とどのような関係にあろうとも、今日の〝いのち〟があるのは、何があろうとも両親のおかげだからです。苦労をかけた両親に向かって礼拝をする時、その両親も新発意も感極まるものがあります。
鎮守とは生まれ故郷の神社のことです。私は「生まれ故郷を思い出しながら礼拝してください」とお話しています。長い人生の中で、自分の生まれ故郷がどのようなものであったかには、大きな意味があります。日ごろは思い出すこともありませんが、いわば自分自身を作り出した「原風景」なのです。その神さまとの縁によって、私たちが生まれてきたことを忘れてはなりません。また、真言密教はこのように、仏さまも神さまも大事にしているということでもあります。
得度式の意味を考えると、改めてお大師さまの偉大さがわかります。私たちはそれほどに、多くの恩によって生きてきたのです。いや、生かされてきたのです。生きることとは、生かされることだったのです。不思議な縁によって戒師を勤めましたが、さわやかな気持ちでお二人の前途を祝しました。