令和元年10月8日
30年ほど前の今頃、私は深夜、たった一人で日光男体山に入峰(信仰上の登山)しました。標高2486メートルの男体山は、日光連山の主峰です。子供の時から西にこの山を望んで育ちましたが、入峰したのは初めてのことでした。
男体山は奈良時代、勝道上人によって開山されましたが、上人は人跡未踏の登頂に16年を要しました。当時は二荒山と呼ばれていましたが、二荒(フタラ)とは補陀洛(フダラク)のことで、つまり観音浄土を意味します。そして、この二荒(ニコウ)を日光(ニッコウ)と改めたのは弘法大師であると、松尾芭蕉が『おくの細道』に記載しています。「青葉若葉の日の光」はここから詠まれた名句です。
ところが、私が入峰したその日の深夜に、日の光などはもちろんありません。しかも、あいにくの雨の日でした。たしか、登山口を出発したのは午後10時頃だったと思います。ポンチョで身を覆い、額にヘッドライトを着けて出発しました。ところが、4時間程度の登頂予定が、大幅に遅れました。なぜなら中腹ほどの所で、雨のためにヘッドライトの電源が切れてしまったからです。かといって引き返すわけにもいかず、月もない暗闇の中を、手探りで登ったからでした。登るほど寒さに震え、風も強まって来ました。
こんな時、訪れる孤独と恐怖は体験しないとわかりません。行き交う人もおりません。私は深い戦慄を覚えながら少しずつ登りました。九合目ほどだったと思います。雨風にさらされつつも、夜空に頂上が丸くぼんやりと見えてきました。その丸い円形から、月面を連想したのでしょう。私はその時、無人の月に独り取り残されたような、そんな幻想におののきました。そして、さらなる孤独と恐怖に襲われました。私は無意識のままに『観音経』を唱えていたのでした。
夜が明けて、私は無事に下山しましたが、まるで夢のような一夜を回想しました。きっと、観音さまに覚悟のほどを試されたのでしょう。観音浄土の山は、きびしい修練の山でもありました。