続々・あの世に持ち越せる唯一の財産
令和5年10月31日
現代人は概して、死後の世界への関心が薄いのではないでしょうか。死後の世界への関心は、この世における道徳観そのものであり、それが生き方の規範でもあります。昔の人々はどのように死を迎えるかが、どのように生きるかの規範でありました。生きることとは、刻一刻が死に向かっての旅であります。
もちろん、死後の世界など信じない、死と共にすべては無に帰するのだと考える人が多いことも事実です。ただ、ひとこと申し上げますが、死と共にすべてが無に帰するなら、死そのものを確認することができません。したがって、死後の世界など〝ない〟といい切ることも確認できません。すべてが無であるのなら、当然のことです。それでも意識が働いている時、どうするのでしょうか。
「地獄極楽絵図」のお話をまた続けますが、ちょっと気になるのは絵図の中央に〈心〉の文字が大きく書かれ、それが放射状の線によって十界に直結していることです(写真・熊野観心十界曼荼羅より)。
十界とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道と修羅・人間・天の六道(迷いの世界)に、声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖(悟りの世界)を加えた十段階の世界をいいます。つまり、これらはすべて自分の心が作り出し、自分の人生を選択し、あの世で住む世界も決定するということなのです。
ただし、人の心は一様ではありません。この世にも地獄はありますが、逆に仏もいるのです。十界はすべての人の心に共存しています。仏教ではこれを〈十界互具〉という言葉で表現しています。
皆様はいかがでありましょうか。ご自分の心の十界が見えますでしょうか。恨みをいだけば地獄となり、強欲に走れば餓鬼となり、理性を失えば畜生となります。しかし、仏の教えを学ぼうと思えば声聞となり、慈悲を施せば菩薩となるのです。だから、地獄の罪人も仏になれるかも知れませんし、仏のように慕われる善人も、何かの拍子に地獄に落ちるかも知れません。絶対の悪人もいなければ、絶対の善人もいないのです。
だからこそ、私たちは仏教のご縁に触れ、仏像のお姿やお香のかおりで心相を癒し、礼拝や読経によって身体を正すことが大切です。ただの気持ちだけでは、何の実績にもなりません。そして、親切を心がけ、施すことを喜び、先祖には感謝の供養を重ねることです。このくり返しこそ、お金では買えない人生の宝物でなくて何でありましょうか。そして、あの世に持ち越せる唯一の財産でなくて、何でありましょうか。この財産を手にした時こそ、皆様は人生における最も大きな幸せを得るのです。
続・あの世に持ち越せる唯一の財産
令和5年10月29日
「地獄極楽絵図」によりますと、奪衣婆の次はいよいよ閻魔さまのお裁きを受けねばなりません。絵解きをしますと、閻魔さまの横には〈業の秤〉があり、死者の悪業の重さを計っています。下げられている大岩よりも死者の方が軽いとよいのですが、ほとんどは死者の方に傾き、順番を待っている他の死者も気が気ではありません。
その反対側にあるのが〈浄玻璃の鏡〉です。これは死者の生前のすべてが写し出されますので、うそを言ってもすぐにバレてしまいます。「うそをつくと閻魔さまに舌をぬかれる」といった言い伝えは、ここから来ているのです。この死者は、読経をしている僧侶に刃を向けるという大罪を犯したのでした。つまり、この浄玻璃の鏡には死者の本性、心の様相が真実のままに再現されるのです。そして、あの世でどのような世界に行くかが決定します(写真・熊野観心十界曼荼羅より)。
皆様はいかがでありましょうか。こんな絵図は昔の人の、とんでもない作り話だと思うでしょうか。しかし、こうした絵図によって、長く日本人の生死観がはぐくまれ、それが人生の道徳観となって来たことは間違いありません。また、奪衣婆や閻魔さまの出現に違いはあっても、似たようなお話はたくさんあります。
たとえば、スエーデンボルグ(18世紀における最高の霊媒)の『私は霊界を見て来た』(叢文社)によりますと、閻魔さまに代って〈検査の霊〉が現われ、浄玻璃の鏡に代って「ペラペラと本のページがめくられる」と表現されています。自分の一生が一冊の本となって示されるということです。この世とあの世は時間の次元が異なりますので、80年の生涯であっても、一瞬のうちに再現されるのでしょう。
こうしたお話を考えますと、この世もあの世も、要は自分の生き方が自分の人生を決めるということです。仏教徒は常に〈十善戒〉をお唱えしますが、お唱えするだけではすまされない理由がここにあります。悪いことはできません。この世の功徳だけがあの世に持ち越せる唯一の財産です。善事を積んで、先祖供養(ホームページ参照)に努めましょう。
あの世に持ち越せる唯一の財産
令和5年10月27日
私たちの生命は、死によって終わるのではありません。それは新たな人生の門出であります。往生とは「往って生きる」の意味であることからも、ご理解いただけましょう。
だからこそ、私たちはあの世のことを考えながら、この世を生きるべきなのです。そして両親や祖父母の死を見て人生の無常を知り、それを子供さんやお孫さんに見せることが大切です。
昔のお寺では「地獄極楽図」を絵解きして、あの世の法話をしたものでした。あんなものは作り話だと思う方もおりましょうが、最近はこの種の絵本がかなり売れています。それは、臨死体験やあの世についての研究が進むにつれ、やはり昔の人の英知はすばらしいとの再評価をしているからでありましょう。
たとえば、この世で死を迎えて〈三途の河〉を渡ると、奪衣婆がいて着ている衣服を脱がせて木の枝にかける場面があります(写真・熊野観心十界曼荼羅より)。
これはあの世においては、この世での地位も名誉も財産もすべてを捨て去り、人間としての真価が問われるプロセスを象徴的に表現したものです。その真価とは、この世での生き方をトータルした〈功徳〉だけが問われるという意味です。功徳が生命の本体となり、心の様相となり、オーラとなって問われます。あの世に一万円札を持っていくことはできませんし、持っていっても何の役にも立ちません。
あの世に持ち越せる唯一の財産は、この世で積んだ功徳であり、また功徳の欠小を補ってくれる遺族の〈追善〉しかありません。追善のパワーはあの世に往ってからの強力なサポートですから、生前から自らも実行し、また伝えることが肝要です。お葬式の大切さも、先祖供養の大切さもそこにあります。ただし、単なる読経だけではパワーが足りません。真言の秘密行法によってこそ、最勝の追善となることもご承知おきください。
こうしたお話をしながら、私は毎日の先祖供養に励んでいます。皆様もぜひご参加ください。「お問い合わせ」を歓迎いたします。
人生の宝物
令和5年10月24日
先日、あさか大師の僧侶が集まり、本堂の大そうじをいたしました。一年分のお護摩のすす払いと拭きそうじは大仕事でありましたが、みんなの力を結集して〝ミガキ〟をかけることができました(写真)。
家庭であれ、職場であれ、複数の人が生活するうえで最も大切なことは、挨拶をすることとそうじをすることです。挨拶のあるなし、そうじの良否によって、家庭も職場もその雰囲気が決まるといっても過言ではありません。その視点から世間を見ていただければ、充分に理解されるはずです。
私は最近、気持ちが落ち込んだり、壁に突き当たった場合、そうじをするのが一番だと考えるようになりました。そうじをした部屋からは新しい〈気〉が流れ、意外な発想を生み出すからです。人が環境を作るのも事実ですが、環境がまた人を動かすのも事実です。つまり、心に対しては、むしろ体を使って動いた方が、その心を変えることができるという意味でもあります。
近所づき合いも疎遠な現代ではありますが、たとえば〈町内清掃の日〉などでみんながいっしょに汗を流すと、奇妙な(いや、むしろ当然の)一体感が生まれます。めったに口をきかなかった者どうしが楽しそうに語り合う様子を、私は何度も体験してきました。体を動かして汗を流すことにより、意識下の領域が広がり、互いに友好を求めあうからでしょう。
本堂が美しくなり、霊気がさらに充満して、僧侶の気持が一段と晴れやかになりました。そうじという日常の茶飯事が、実は人生の宝物であるという事実を知らされたのでした。
光明真言百万遍念誦の発願
令和5年10月21日
私はこのたび弟子僧と共に、〈光明真言百万遍念誦の発願〉をいたしました。毎日の光明真言念誦の回数を記録し、月末に集計して百万遍を目ざしたいと考えています(写真は光明真言曼荼羅の一部)。
その趣旨は、あさか大師で先祖供養をする方が増えてまいりましたので、その威力をさらに高めたいがためであります。発願の当初は、私の独力で成し遂げたいとも考えましたが、これはやはり、有縁の僧侶が結集すべきだと思いを改めました。どのくらいの日数がかかるかはわかりませんが、弟子僧の方々が今月より開始しました。まずは一回目の百万遍を達成し、やがてはご信徒にもその輪を拡げていきたいと考えています。
先祖供養の功徳として、〈光明真言法)に勝るものはありません。特にご信徒の方々といっしょに修するという点におきましても、光明真言は大変にお唱えしやすく、みんなで唱和することができます。先祖供養の専門的な行法としては〈理趣経法〉や〈宝篋印経法〉などもありますが、ご信徒の方にはむずかしく、親しみがたいと思います。
また、光明真言の土砂加持による〈お土砂〉をいただくと、いろいろな使い方ができます。葬儀や墓参の折に、地鎮祭やお祓いの折に、如意宝珠の功徳をいただくことができます。光明真言の威力が一粒一粒の〈お土砂〉に込められるからです。
浄厳和尚(江戸時代の高僧)はご信徒に梵字(仏さまの文字)を授ける折、光明真言を毎日お唱えするよう指導していました。一帯が大火につつまれた惨事にあっても、その梵字をいただいた家屋ばかりは類焼を免れたと伝えられています。奇跡もまた、おこるべくしておこるのです。日ごろの念誦がいかに大切であるかの規範でありましょう。
あさか大師の先祖供養も、新しい黎明を迎えました。光明真言の威力がますます高まることを念じております。お問い合わせはホームページからお寄せください。
日本史最大の巨星
令和5年10月19日
このたび、お大師さまのご尊号とご宝号の立札を設置しました(写真)。
あさか大師のご本尊さまは「厄よけ弘法大師」です。初めてお越しになった方には、尊前にご案内してそのように説明しています。そろそろ来年の厄除一覧表を公開しますが、初詣の折にはこの立札が衆目を集めると思います。
それから、お大師さまのご宝号は「南無大師遍照金剛」とお唱えします。〈遍照金剛〉とは真言密教の教主・大日如来を意味しますので、私たちはお大師さまを大日如来そのものとして礼拝しています。つまり、「南無大日如来」とはお唱えせず、「南無大師遍照金剛」とお唱えするという意味です。
このことはとても大切なことで、真言宗僧侶の方でも意外に理解されていません。お大師さまの宝号がすなわち大日如来であるという真実を、私は広く宣揚したいと思っています。お大師さまは今日、世界中から注目されていますが、まさに遍照(あまねく照らす)そのものでありましょう。
お大師さまは日本史における、最大の巨星です。戦国武将や明治維新の英雄より、はるかに大きな文化的業績を残しました。そして、真言密教の曼荼羅の教えはますます共感を呼んでいます。このご宝号が、あらゆる国々の人々からお唱えされる日を念じてやみません。
金運宝珠護摩の霊験
令和5年10月16日
昨日の11時半より金運宝珠護摩が奉修され、たくさんの方々が参詣されました(写真)。
お護摩の炎に如意宝珠を観じて、そのパワーを皆様にお届けしましたが、さっそく多くの霊験が寄せられました。長い間の念願だった契約がとれた方、業務成績が急に向上した方、返金されなかった貸出金がもどった方などのご報告がありました。また、地方の皆さんはメールや郵便で護摩木をお申込みになり、うれしいご報告をお届けくださいました。
正しい作法と心がけで修すれば、祈願は必ず届きます。ただ、その現れ方はさまざまです。現れていても気づかない場合もあります。金運を願ったからといって、一万円札が舞い降りてくるはずがありません。さりげない会話の中に、テレビや書籍の中に、電車や路上の看板の中に、金運は潜んでいます。そのことを、よくアンテナをはって感知することです。
きびしい世相ではありますが、如意宝珠の功徳で皆様の金運が高まりますことを願っております。
金運銭を差し上げます
令和5年10月13日
10月15日(日)の11時半より、恒例の〈金運宝珠護摩〉が挙行され、ご参詣の方にはカード寸法の〈金運銭〉を差し上げます(写真)。
ご参詣の方々からは、金運増大のお話がたくさん寄せられ、私もそれをご披露しています。お金に対する正しい見識と、自分に対する評価として、金運を高めていただきたいと思います。そして、人生の幸せと布施に対する新しい価値観を見い出だしていただくことを願ってやみません。
護摩木を申し込む方は、お早めにお越しください。お護摩の炎の中に如意宝珠を観想しますので、その加持力が堂内に遍満します。そのパワーを持ち帰りましょう。
10月の強運ランキング
令和5年10月10日
先祖供養の連載で「強運ランキング」が遅れました。お詫び申し上げます。
10月8日から11月7日までが、正確な10月となります。壬戌・九紫火星が中宮の月で、北(五黄殺)・南(暗剣殺)・東南(月破)が凶方です(写真)。〈壬〉は「任ずる」の意味で、新しい芽生えを、〈戌〉は「茂る」の意味で、剪定や伐採を迫られます。そして九紫火星は「英知」の意味で、新しい視野に立った英断が求められます。不正は暴かれねばなりません。
強運ランキングは一位が一白水星、二位が七赤金星。、三位が八白土星です。
一白の方は成果が実りやすく、活動の場に恵まれます。また、特に目上や上司への気配りがカギとなりますので、充分に心がけましょう。七赤の方は新しいスタート台に立ちました。持ち前の明るさを発揮して順調な発進を遂げましょう。八白の人は問題解決のチャンスです。目先の欲にとらわれ、信頼を失ってはなりません。誠意をしっかりと示しましょう。
上記以外の方は、ホームページの「今月の運勢」でご確認ください。いつもお話をしますが、「よい時はよいなりによく、悪い時は悪いなりによく」が『般若心経』の教えです。幸せはいつでも、どこにでも、誰にでも、平等にあるのです。占いを役立てても、占いに振り回されてはなりません。
続続・光明真言の威力
令和5年10月8日
光明真言のもう一つの威力は〈土砂加持〉にあります。美しい〈お土砂〉を光明真言で加持すると、その一粒一粒が如意宝珠となって、この世の人もあの世の人も共に救われるからです。
私は毎日の先祖供養の折に光明真言を百八遍お唱えして、いつもお土砂を加持しています。そして、毎年3月21日の正御影供(お大師さまご入定の日の法要)にお配りしています(写真)。
経典には、「これを散ぜば地獄の中、餓鬼の中、もしくは修羅の中にあっても、この神通威力をもって罪を除き、極楽浄土の蓮華に化生する」とあります。仏さまの慈悲の功徳が、これほどに示された言葉はありません。私はただただ「ありがたい」という気持ちで、いつもお唱えしています。
そして、葬儀があった場合は棺の中に、墓参の折には周辺に、そのほか交通事故のあった場所、不浄の場所に光明真言をお唱えしながら散じるようお話をしています。不思議な霊験はいくらでもあります。これを手にする人は如意宝珠を得たも同然なのですから、どんな金銀財宝も及ぶところではありません。
たとえ私に功徳が足らなくとも、仏さまの本願はかぎりなく深いのです。その威力は疑いようもないのです。皆さん、どうかこのことを信じて、私と共に先祖供養に励みましょう。