2020/04の記事

「恐れ」を知る能力

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令和2年4月14日

 

ベテランドライバーとはどういう人をいうのでしょう。スピードに強い人でしょうか? 割り込みのうまい人でしょうか? 答えはもちろんノーです。

では、どういう人をベテランドライバーというのか、私の考えを申し上げるなら車に対する「恐れ」を知っている人なのです。車というものの機能も便利さも、また楽しさも知ったうえで、同時にそのこわさも知っている人だと思うのです。

たとえば、信号のない狭い道路から大通りへ出る場合など、ベテランほど慎重です。減速して慎重に進み、一時停止をなし、窓を開けて左右を確認します。歩行者はもちろん、自転車やオートバイの通行も見逃みのがしません。事故は一瞬のスキから生じることを知っているからです。トラックであれば荷物の積み方、荷台のシートやロープの結びを何度も確認します。走行中のれはもちろん、風圧による荷物の落下は予想外であることを知っているからです。つまり、ベテランほど運転に対して注意深いのです。それはあらゆる状況において、車に対する「恐れ」を自覚しているからだといえましょう。

このことは車の運転ばかりに限りません。何ごとでも、ベテランといわれる人ほど注意深く、また十分なチェックを怠りません。なぜなら、取りも直さず「恐れ」を知っているからであり、それが実力の証明でもあるからです。

一般に「恐れ」といえば、わけもなく怖くなって、足がすくんでしまうといった場合をいいます。しかし、問題やトラブルを前もって予測していだく「恐れ」があることも知らねばなりません。そして、これこそはその道に通達している能力ともいえるのです。

だから、何か気になることがあり、不安が生じるなら、物ごとは思いとどまるべきなのです。失敗する危険性があるなら、やめておいた方が賢明だということです。もちろん、それでもやらねばならない場合もありましょう。しかし、好ましい結果にはならないことが多いはずです。

うまくいく時は、うまく進むのです。必要な人や物が集まり、情報も多く、段取りがスムーズに運ぶのです。だから、少しでも「恐れ」を感じるなら、それを〝天の声〟と思うことです。「恐れ」を知って慎重になる能力こそは、成功への原動力なのです。

弘法筆を選ぶ

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仕事

令和2年4月12日

 

「弘法筆を選ばず」といいますが、これはとんでもない誤りです。

お大師さまは日本書道史の最高峰でいらっしゃいますが、筆についてもよく研究され、筆をよく選んでおられました。たとえば『性霊集せいれいしゅう』という詩文集があります。これはお大師さまの高弟であった京都・高雄山の真済しんぜいさまという方が編集したもので、正式には『遍照発揮性霊集へんじょうはっきせいれいしゅう』と申します。

その第四巻に「筆を奉献する表」という一文があります。これはご自分が唐で学んだ筆についてのノウハウを筆職人に伝え、それによって作らせた狸毛たたげの筆を陛下へいか嵯峨さが天皇)に献上した時の書信です。すなわち、文中には「筆の大小、長短、強柔、先のそろったものととがったもののどれを用いるかは、文字の筆勢に応じて取捨選択すべきであります」とあり、お大師さまがいかに筆に対する見識をもっておられたかがうかがえます。

事実、この時の筆は真書用・行書用・草書用・写書用をそれぞれ一本ずつ、あわせて四本を献上しています。また毛質の選出法、筆の調整法や保存法についても詳しく触れ、「弘法筆を選ばず」などという伝承がいかに誤りであるかがわかります。

私の考えを申し上げますと、「筆を選ばず」の助動詞〈ず〉が間違って伝承されたのではないでしょうか。「情けは人の為ならず」の〈ず〉と同じです。人の為にはならないという誤った解釈は、悪い筆でも気にしなかったという誤った伝承に似ています。つまり、本来はいろいろな種類の筆を、その用途に応じて自在に使いこなしたという意味での「筆を選ばず」であったはずです。

どのような分野であれ、プロが道具にこだわるのは当然のことです。板前は包丁ほうちょうを、大工はノミを、絵師は顔料がんりょうを、楽士はげんを選ぶのです。そして、書家は筆を選ぶのです。これを怠って上達は望めせんし、自分の技量を発揮することもできません。どうぞ、お間違いなきよう。ついでながら「弘法にも筆の誤り」については、いずれまた。

独りになって考える

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人生

令和2年4月11日

 

先日、「考える時間」の大切さをお話しました。テレビのない時代、人は音のないところで、ひとりになって考える時間を持っていたとお話しました。

現代はテレビばかりではありません。あらゆるところで音楽が響き、ニュースが流れ、騒音そうおんにつつまれ、スマホが着信を知らせます。有益な音はあっても、不必要な音があまりにも多いのです。しかし現代人の多くは、こうした音がなければさびしくていられません。そして、独りでいるということができません。

特に若い人たちがそうです。独りでは昼食や夕食の店に入れません。誘われないと、仲間外れにされたような不安におそわれます。だから、独りになりたくないのです。誰かと何かでつながっていたいのです。そこで、用もないのにメールをします。一日中メールをのぞき、メールが来ていないかを確認し、来ていなければまた自分からメールをします。メールをしないと独りの時間を持て余し、不安になるからです。

もっと年長の人たちはどうでしょう。もちろん、仕事に追われています。せわしく働き、上司や同僚に気をくばり、夜は接待や仲間とのつきあいに費やし、休日はゴルフや家庭サービスで過さねばなりません。忙しいとなげきながら、まれに時間ができると、「こんなことでいいのか」と逆に不安にかられています。

人生にあくせくと振り回され、迷いの中でもがき、まるで夢にうなされているような生活です。こんなことでは、自分の人生を本当に生かすことなどできるはずがありません。なぜなら、ひとかどの人物を見ればわかるからです。彼ら、あるいは彼女らは、友人や仲間との時間を大切にしながら独りの時間を作り出し、独りになって考え、より深いアイデアや智恵に到達しています。そして、それを自分の才能として生かしているのです。

お大師さまは、「狂人きょうじんきょうせることを知らず」とおっしゃいました。本当の狂人になると、自分が狂っていることがわかりません。迷いの夢を覚まし、本当の自分を見つけ出すことです。そのためにも、独りの時間を作り出し、独りになって考えることです。人生はそれほど長くはないのですから。

健康とは何か

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健康

令和2年4月10日

 

WHO(世界保健機構)はその憲章前文の中で、健康についての定義を「健康とは病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます(日本WHO協会訳)」としています。つまり、人間というものを肉体的(physicalフィジカル)・精神的(mentalメンタル)・社会的(socialソーシャル)にとらえ、それらが総合的に満たされた状態を〝健康〟であるとしています。この定義はすでに決議より70年以上が経過していますが、いまだによく用いられています。

現代の日本人はその年齢を問わず、多少の持病があって通院していても、まずまず健康であると思っている方が多いかも知れません。また先の定義にかんがみるならば、「幸せを感じる」「生きがいがある」「仕事がうまくいっている」「人を思いやることができる」といった精神的・社会的な要素も含めて健康を考える傾向も強いと思います。

ところが1998年、WHOにて健康の定義を肉体的・精神的・社会的に加えて、宗教的(spiritualスピリチゥアル)な要素を加えてはどうかという提案が出されました。しかし賛成多数であったにもかかわらず、審議の緊急性が低いとして、いまだに決議には至っていません。

スピリチゥアルは一般的な日本語としては「霊的れいてき」と訳されていますが、メンタルと同義とする意見もあり、また信仰には熱心でも特定の宗教に傾倒しない日本人には、なかなか定着しません。神と仏が同居し、先祖を大切にする国民には、何をもって宗教的・霊的とするかがむずかしいところです。

しかし、私は「宗教的な健康」「霊的な健康」こそ、人としての最大の尊厳そんげんであると考えています。もちろん、ここでの宗教とは特定の宗派や教団を指すわけではありません。また霊的といっても、霊能や心霊現象を意味するものでもありません。日本人は気安く「私は無神論者です」などと言いますが、欧米の人たちからすれば大変に奇異きいなことであり、また情けなく、しかも恥ずかしいことです。

生きるということは、はっきりした信条とまではいかずとも、その根底には必ず宗教的な理念が必要なのです。また、人は肉体的・精神的に生きると共に、必ず霊的にも共存しています。眼には見えず、耳には聞こえずとも、多くの日本人は仏壇に合掌し、神前に礼拝し、お墓参りも欠かしません。これは霊的に共鳴するからです。私は「宗教的な健康」「霊的な健康」が公的に語られる日が来ることを、せつに望んでいます。

考える時間

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思考

令和2年4月8日

 

緊急事態宣言が発せられるや、私はほとんど人との接触がなくなりました。もちろん電話はかかって来ますし、手紙やメールなどはいつもどおり処理しています。しかし、これほど考える時間に恵まれることなど、めったにあるものではありません。これは思ってもみないチャンスだと考えています。

私と同じように、自宅にこもって仕事をなさっている方も多いことでしょう。パソコンに向かいながら、会社のこと、同僚のこと、取引先のことなど、時おり脳裏をよぎるに違いありません。でも、今こそはかけがいのない〝自分の時間〟があるのです。ぜひ、必要な情報以外はなるべく遮断しゃだんし、考える時間を作ってほしいと思うのです。

私がどうしても馴染なじめないことの中に、てもいないのにテレビをつける習慣があります。何の音もしない家が、そんなにさびしいのでしょうか。まれに法事やおはらいなどで、人の家をお訪ねすることがありますが、たいていはテレビが放映されています。かといって、その放映を熱心に視ているわけでもないのです。私は即座に消していただくようお願いしますが、この習慣がわかりません。私がテレビを敬遠けいえんする理由は、こんな経験からなのでしょう。

戦後の日本において、テレビの普及ふきゅうこそは最大の功罪こうざいです。番組の楽しみがあり、情報の収集も便利になりましたが、家庭の中から会話をうばいました。そして、考える時間を奪いました。食事をしていても、家族の眼と耳はテレビに向かっています。母親が作った料理の手間など、話題にも出しません。ただはしを運びながら、その眼もその耳もテレビに夢中です。

テレビのない時代、人は考える時間を持ちました。そして、何の音もしないところで、独りになって考えました。この緊急事態の時こそ、そのチャンスなのです。人との接触も少なく、また人への気遣いも少ないなら、考える時間を作ってほしいと私は思います。この上なく有意義な時間となることに間違いはありません。

緊急事態

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社会

令和2年4月4日

 

今日・明日と、月始めの総回向ですが、コロナウイルスによってお参りも少なく、マスクをしたまま間隔かんかくけてのお参りでした。こんな経験ははじめてのことで、さびしい思いはいなめません。それでもコロナウイルスが一日も早く終息することを祈りました。そして弘仁こうにん九年(平安時代)の疫病のおり、お大師さまが『般若心経』の功徳によってこれをしずめられた史実にかんがみ、私たちの責務についてもお話をしました。(写真)。

ついでながら、あさか大師お隣りの桜も先日の満開時に降雪となり、また翌日は突風となり、かなり散ってしまいました。それでも最後の〝なごり桜〟をお目当てに、老人ホームの皆様が集まりました。そして、私も車イスの皆様を励ましました。今日の一日にあっては、うれしいご報告です。

社会全体が異常な停止事態となり、特にお客様が集まる職業は危機にひんしています。総理の宣言を待たずとも、もはや緊急事態なのです。日本は戦争もなく、台風や震災以外は平和に過ごして来ましたが、これこそは過酷かこくなまでの試練でありましょう。そして、人類への警告でありましょう。この緊急事態を乗り越えてこそ、何かを学び、何かを得るのです。そして、この世は無常であるという真実を知るのです。試練も警告も大きな訓戒くんかいとなることを念じてやみません。

スキンシップ

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社会

令和2年4月3日

 

初期の角川映画に、小松左京原作の『復活の日』という印象的な作品がありました。ご記憶の方もいらっしゃると思いますが、南極大陸に863人を残し、イタリヤ風邪によって人類が滅亡するというストーリーでした。

映画ではイギリス陸軍が試験中だった細菌兵器がスパイによって持ち出され、そのスパイが乗った小型飛行機がアルプス山中に墜落ついらくしていまいます。そしてくだけ散ったウイルスが猛威をふるい、イタリヤ風邪としてアッという間に全世界に広まってしまいます。はじめは家畜の疫病や新型インフルエンザと思われたのですが、心臓発作による突然死が相次ぎ、おびただしい犠牲者を続出させます。そして暴動やパニックが勃発ぼっぱつしても病原体の正体がわからず、ワクチンも研究できないまま人類は滅亡します。ただ酷寒こっかんの南極大陸にいた観測隊だけは、感染をまぬがれました。そしてこの生き残った人たちで〈南極連邦委員会〉を組織し、その中から新しい人類が復活するという、そんな内容でした。

この映画は人類滅亡の要因を核兵器や震災ではなく、ウイルスという視点でとらえたところが新鮮で、かなり話題になりました。そして細菌兵器という愚行ぐこうとは異なりますが、このたびの新型コロナウイルスとも、通じるものがあります。生命をおびやかすウイルスの恐怖は、映画も現実も同じなのかも知れません。

ところで外国映画、また外国人が登場する映画で痛感することは、いかにスキンシップが多いかということです。挨拶といえばまず抱擁し、ほほにキスをし、何度も握手をします。中国や朝鮮半島の人ですら例外ではありません。

日本人は苦手ですが、スキンシップはとても大事なことだと私は思います。人は触れ合うことでより親密になるからです。しかしウイルスに関しては、これがあだになるようです。アメリカで急速に感染者数が増えた事実を思えば、そのことは十分にご理解いただけましょう。

しばらくの間は、体が触れ合う行為には注意が必要です。たとえご夫婦や恋人同士であっても、十分にご注意を。よけいなお世話と思うでしょうが、それほどの緊急事態だということです。乗り越えねばなりません。

無常としてのコロナウイルス

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社会

令和2年4月2日

 

この度のコロナウイルスのことを考える時、私は仏教の〈無常〉という教えを痛感せずにはいられません。

無常とは世の中は常ではないということ、常に移り変わるということ、いつ何がおこるかわからないということです。だから無常というと、一般には〝むなしい〟という響きがともないます。しかし、そうとばかりはいえません。変わるということは、生まれ変わるということ、生まれ変わるチャンスでもあるということなのです。

コロナウイルスは人類への警告です。増上慢ぞうじょうまん夜郎自大やろうじだいに走った人類への警告です。このような緊急事態は人類が始まって以来、一度として経験したことがありません。国や地域ごとにコレラやペストが流行はやっても、地球規模でのこのような感染に及んだ歴史はありません。それだけに、人類は未曽有みぞうの危機に直面しているのです。そしてこの危機に直面してこそ、謙虚に反省し、地球規模で生まれ変わる〝無常のチャンス〟を与えられているともいえるのです。

ただ、コロナウイルスはあまりにきびしく、相当な苦悩と犠牲と損害が強いられることは否めません。感染はますます広まりましょう。若いから、健康だから、体力があるからといった思い上がりも通じません。「自分だけは大丈夫だろう」といった、楽観も許されません。かくいう私とて、どうなるともかぎりません。

ただ一つだけいえることは、この無常という現実を受け入れ、苦しみに耐え、希望に向って努力を続けることが大切であるということでしょう。人は誰でも、苦しみに耐えたいなどと思うことはありません。平穏に過ごしたい。無事に暮らしたいと常に思っています。それでも、この世は思うようにはいかないものです。そして皮肉なことに、苦しみに耐えることが人を育てる根底でもあるのです。人生の楽しみは人を幸せにしますが、苦しみもまた人を幸せにするからです。

無常の教えは、生まれ変わるチャンスであることを私は信じています。人類は何を学び、何に向って進むのでしょうか。荒海あらうみの中にあって、今は陸もなく船も見えません。それでも、たどり着く小さな島があることを、私は信じています。失うこともあれば、得ることもあるのです。だから、無常なのです。

北風と太陽

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人間

令和2年4月1日

 

「人間の問題は人間に尽きる」と、私は考えています。

この世を生きていく以上、苦しみや悩みは尽きません。しかし、何が一番やっかいであるかといえば、それは人間どおしの問題、つまり対人関係だといえるのです。なぜなら、たとえ病気の問題であれ、お金の問題であれ、その背後にあるのは結局は人間の問題だといえるからです。だから、この対人関係をうまく身につけられるなら、生きていくことがかなり楽になることは間違いありません。

人はみな、自分が認められることを望んでいます。自分の気持が少しでも理解されることを望んでいます。これが生きていくうえで、人が求める最大の願いです。だから、そのふところの中にどれだけ飛び込んでいけるかに、その秘訣ひけつがあるといえるのです。

たとえば、皆様がよくご存知の『イソップ物語』に「北風と太陽」という、有名なお話があります。旅人は寒いから外套がいとうを着用し、少しでも暖かくして旅をしたいと願っていたはずです。それを北風のように寒風を吹きまくり、強引に脱がせようとしてもうまくいくはずがありません。かえってえりを押さえて離しませんでした。太陽は暖かくして旅をしたいという、その願いに飛び込んだのです。そして、みごとに目的を果たすことができました。

これこそは人間の問題、つまり対人関係のバイブルなのです。つまり、相手が何を望んでいるかを理解してあげること、そして、その望みが叶うよう協力してあげること、ただそれだけなのです。そのためには一歩ゆずること、退しりぞくことも進むことへの智恵と知ることです。たいていの場合、相手はこれに応じてくれましょう。

もちろん、このような心がけで接しても、めんどうな相手は必ずいます。その場合、私は「こんな時もあるだろう」ぐらいに考えるようにしています。それでよいのです。これで相手をうらみ、悪口を並べたところで、何らえきすることはありません。むしろ負担を重ね、ストレスが積るばかりです。

考えてみれば、人間はみなさびしさをじ込め、やすらぎを求めて生きています。愛されたいと思い、やさしくされたいと思っています。その思いを少しでも叶えてあげられるならば、私たちの人生はかなり違ったものになるはずです。北風よりも太陽のように、です。

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