令和2年4月12日
「弘法筆を選ばず」といいますが、これはとんでもない誤りです。
お大師さまは日本書道史の最高峰でいらっしゃいますが、筆についてもよく研究され、筆をよく選んでおられました。たとえば『性霊集』という詩文集があります。これはお大師さまの高弟であった京都・高雄山の真済さまという方が編集したもので、正式には『遍照発揮性霊集』と申します。
その第四巻に「筆を奉献する表」という一文があります。これはご自分が唐で学んだ筆についてのノウハウを筆職人に伝え、それによって作らせた狸毛の筆を陛下(嵯峨天皇)に献上した時の書信です。すなわち、文中には「筆の大小、長短、強柔、先のそろったものと尖ったもののどれを用いるかは、文字の筆勢に応じて取捨選択すべきであります」とあり、お大師さまがいかに筆に対する見識をもっておられたかがうかがえます。
事実、この時の筆は真書用・行書用・草書用・写書用をそれぞれ一本ずつ、あわせて四本を献上しています。また毛質の選出法、筆の調整法や保存法についても詳しく触れ、「弘法筆を選ばず」などという伝承がいかに誤りであるかがわかります。
私の考えを申し上げますと、「筆を選ばず」の助動詞〈ず〉が間違って伝承されたのではないでしょうか。「情けは人の為ならず」の〈ず〉と同じです。人の為にはならないという誤った解釈は、悪い筆でも気にしなかったという誤った伝承に似ています。つまり、本来はいろいろな種類の筆を、その用途に応じて自在に使いこなしたという意味での「筆を選ばず」であったはずです。
どのような分野であれ、プロが道具にこだわるのは当然のことです。板前は包丁を、大工はノミを、絵師は顔料を、楽士は弦を選ぶのです。そして、書家は筆を選ぶのです。これを怠って上達は望めせんし、自分の技量を発揮することもできません。どうぞ、お間違いなきよう。ついでながら「弘法にも筆の誤り」については、いずれまた。