令和4年9月7日
私の母は体が弱く、あまり母乳が出ませんでした。心配した祖母は濃い目に研ぎ出した米汁を作り、それを母に渡してくれていたようです(農村のことで、まだ粉ミルクはありませんでした)。そのおかげで一年後には村の〈赤ちゃんコンクール〉で優勝し、また小学校の卒業式では男女一名ずつ選ばれる健康優良児として表彰されました。まさに、強運と幸運に恵まれたとしか言いようがありません。
母は入退院を繰り返しながら三十三歳の若さで他界しましたが、それでも私のことを病床に呼んでは話し相手になってくれました。苦しいことがあっても、私が今日まで何とか耐えてこられたのは、その病床の母の顔を思い出すからです。今さらながら、その恩の深さが憶念されてなりません。
私たちは三歳ほどまでは、母に一日に6回前後はオムツを変えていただきました。一年で約2000回、三歳までで6000回です。また、一日8回前後の母乳(ミルク)をいただきました。一年の授乳で約3000回です。そして離乳食を含めて、毎日毎日、三度の食事を作っていただきました。おやつまでを加えると、一年で約1000回、仮に十八歳までとして何と約20000回以上です。
私は外食をすることはほとんどなく、自分で食事を作って生活をしていますが、20000回を毎日続けることなどとてもできません。しかも、忙しい日はもちろんのこと、体の具合が悪かった日もあったことでしょう。今ならスーパーで買えるとしても、米屋さん、八百屋さん、肉屋さん、魚屋さんを廻り、重い荷物を持って歩いたはずです。食材を洗って切り、煮て焼いて、味つけをして、食卓に並べていただきました。それを私たちは当たり前のように、ただ黙って食べていたのです。「おいしい」のひと言がなくても、不平すらもらしませんでした。
そして、私たちがテレビやゲームに夢中になっていても、母には食後の片づけがありました。翌朝の準備もありました。お風呂の準備もありました。洗濯もありました。洋服の繕い、片づけ、そのほか父の世話もあったはずです。いったい、母がいなかったら、私たちはどのようにして暮らし、どのようにして成長したのでしょうか。
私たちは母に対する自分のふるまいを思いおこす時、慙愧の念に堪えるものは何もありません。過ぎ去った恩の大きさに唖然とするばかりです。しかも、その恩に対して何も返したものはありません。返そうと思えるほどの年齢になった時、たいていはその母も、すでにこの世にはいません。私たちが母に対してできることは、あの世の母に対してであることをお伝えして、今日の法話といたします。