令和3年1月21日
江戸時代の中期、阿波の国(徳島)の瑞川院に懐圓という和尚さまがおりました。私はこの世に「ほんとうの高僧」と呼べる方がいるのなら、それはまさしく懐圓さまのようなお方であると確信しています。それほどにすばらしいお方です。深遠なお大師さまの教えを誰にでもわかりやすく、近在の方々に淡々と説き、いささかの名利も求めぬ超俗のお方でした。私がもし、どのような僧侶を理想とするかと問われるなら、真っ先に挙げたい方とすら思っています。
瑞川院は現在、幾星霜を経て土地のみが残っていますが、その教えは近在の有志によって『真言安心小鏡』と題して版行されました。〈小鏡〉とは常に懐中して折々に学び、人生の手本にしましょうというほどの意味です。私は長谷宝秀先生の『真言宗安心全書』と共にその存在を知りましたが、近年は真言宗大覚寺派徳島青年教師会の尽力によって現代語訳が出版され、その恩恵に浴することができました。その一端をご披露いたしましょう。
「往生は、ただただ真言はありがたいと思うことで決まるものです。ありがたいと思うだけで決まるというのは、真言に不思議な功力があることを信じて疑わず、ありがたく思う真実の心さえあれば、君主は天下国家を治めながらに、臣下は君主に仕えながらに、また士農工商は、それぞれの職を勤めながらにたやすく往生を遂げられるということです。それは蠅が虎の尾に止まって千里を行くようなものです。これには一切如来の真実本願神変加持の不思議があるからです」
「光明真言は、阿字の光明を説いて、一切の功徳を欠けることなく具えた諸仏の真言です。毎朝顔を洗うと、すぐにその場で光明真言を三遍唱え、そのありがたいことを忘れずに行往座臥にも心をかけて、思い出しましょう。そうすれば自ずから信心が発起し相続することになるのは、梅干しを思うと唾の出るようなものです。また閑暇がある人は、百遍二百遍ないし千遍の日課をも勤めて、四恩法界に回向しましょう」
もはや、何も申し上げることはございません。ただただ、このような高僧がおられたことを皆様にお伝えし、いずれはその墓参を果たしたいと願うばかりです。