令和2年9月3日
たとえば、誰かがある名言を『聖書』の言葉だと力説したとします。それに対して別の人が、「それは間違っている。シェークスピアの言葉だ」と反論したとします。さあ、皆様はこれを聞いて、何を思うでしょうか。
もし、これが二人だけの対話であったなら、もう簡単です。結果ははっきりしているのですから、よく調べて正しい答えを出せばよいでしょう。しかし、これが大勢の前、たとえば結婚披露宴でのスピーチであったなら、どうでしょうか。せっかくお祝いの席に呼ばれながら、宴席の雰囲気をこわすことになってしまいます。反論された本人も、決していい気持ちにはなれません。反論した方も、相手から好意を持たれることはありません
しかし、人はこうした過ちをおこすことが意外に多いのです。いくら正しい見識を持っていても、時と場所簡ぶ必要があるということです。人間関係のバイブルとされるD・カーネギーの『人を動かす』にも、たしか「議論に勝つ唯一の方法は、議論をしないことである」といった意味の言葉があったように思います。議論に勝ったからといって、相手の自尊心を傷つけるばかりで、あと味が悪いことは否めません。
しかし、議論をすることが必要な場合もあります。前にもお話をしましたが、日本人ほど自己主張の下手な国民はいません。微妙で繊細なすぐれた感性を持ちながら、これが裏目に出ると、もう外国人とはつき合えなくなります。曖昧にすることを美徳とするようでは、逆に嫌われてしまいます。特に政治などは雄弁であることが絶対条件で、雄弁の能力がなければ政治家にはなれません。日本の政治家は、どう思われているのでしょうか。
「雄弁は銀、沈黙は金」という格言は、ただ黙っていればよいという意味ではないのです。黙って耐えることが最良の策という場合もありますが、正すべき時に正すことは間違いではないのです。腹を立てて反論するのではなく、意見として主張すべきだということです。いずれが正しいかは、その場の空気から判断すべきことで、一概には決められません。
それに、もう一つ。いったいこの金と銀とは、どちらが上位なのでしょうか。オリンピックのメダルはもちろんのこと、一般には金を上位としますが、長い歴史の間には銀をもって上位とした時代もありました。〈砂金〉という採取法はあっても、〈砂銀〉という方法がないことでもわかりましょう。採取法が限られている以上、銀山には莫大な資金と労働力が必要となります。それだけに、入手が困難であったのです。
そうすると、この格言の本当の意味は逆転するのでしょうか。また、私は派手な金光りより、渋い銀光りの方が沈黙にはふさわしいようにも思っています。どっちがどっちなのか、わからなくなって来ますが、いずれに片寄ってもいけないとするのが仏教の戒めだとしておきましょう。