「運が悪かった」からか

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社会

令和3年5月20日

 

先日、こんなお話をうかがいました。その方は車の運転をするのですが、長年にわたって無事故・無違反で、いわゆる〈ゴールド免許〉が自慢だったそうです。ところが最近、たまたま一時停止の道路標識を見落とし、パトカーの警察官に検挙されてしまったそうです。私はその方が冷静で慎重な性格であることを知っていましたので、とても残念なことだと思いました。めったにないことが、この時に起ったわけです。

私はお話の中で、その時の警察官の言葉に興味をいだきました。「あなたは運が悪かったからまったと思いますか」と、その警察官が聞いてきたそうです。その方は一般的な考え方として、まずは「そうでしょうね」と答えたところ、警察官は「だから捕まったんですよ」と忠告してきたと言うのです。

警察官のマニュアルとしてこのようなシナリオがあるのかどうかは知りませんが、私はこの警察官はいいことを言うなと、感心したのでした。なぜなら、車を運転していれば、道路標識よりスピードを超えることなど常にありましょう。やむなく、駐車違反をしてしまうこともありましょう。この方のように、一時停止を見落としてしまうこともありましょう。そんな時に検挙されれば、人はたいてい「運が悪かった」と思ってしまうかも知れません。

しかし、どうでしょう。はたしてこれは、運という次元で済まされるものなのでしょうか。法治国家で暮らす以上、交通ルールを守るのは、また守らなければならないのは当然です。運が悪かったのではなく、守らなかったことが理由であることは誰が考えてもわかることです。ところが人は、警察官への腹立たしさもふくめて、これを運という次元に転換したがるのです。そして、その転換によって少しでも自分をなぐさめているのです。

逆にどうでしょう。交通事故を起こしたのにかすり傷ひとつ負わなかったとするなら、これは運の次元です。まさに、「運がよかった」のです。もちろんそこには、シートベルトをしっかりと締める、スピードも出し過ぎず、わき見運転もしなかったといった、人為的な心がけが加わっていなければなりません。つまり、運は人が引き寄せる、あるいは努力が引き寄せることも事実なのです。

交通違反と運の関係を取り違えてはなりません。しかし、運のよさを心がけ、運を引き寄せる努力は大切です。また運だけに頼るのは、愚かなことです。運に気づかず、運に無関心であることも愚かなことです。おわかりでしょうか。運と心がけ、偶然と必然の微妙な関係がここにあります。

山路天酬密教私塾

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