令和2年6月16日
江戸時代の後期、伊勢山田の寂照寺に月僊という異端な画僧がいました。名古屋の味噌商の家に生まれ、七歳で浄土宗の僧侶となり、十歳で江戸の増上寺で修行をしました。そのかたわら、雪舟様式の画人・桜井雪館の門下となって絵も学びました。その後は京都の知恩院に住して、円山応挙にも師事しました。そして写実的表現も習得して、独自の画風を確立したのでした。残された絵を見ても、深い玄妙の境地に感銘を受けます。
三十四歳で荒廃した寂照寺を再興するため、その住職となりました。そして、ここからいろいろな逸話が生まれます。まず画料が高いことで、世の批判を浴びました。絵はすばらしいが、何といっても値段の話が先なので、人々は「乞食月僊」などとまで呼ぶ有様でした。「この半切でしたら、二両でしょうな」「このような絹に人物を描くなら、三両です」といった具合で、絵の依頼はすべて値段で決まるのです。それでも絵の評価は高まる一方で、依頼者が絶えません。
時には遊女からの依頼さえありましたが、月僊は悪びれもなく法衣を着て遊郭に出向きました。遊女の白の腰巻に描いて欲しいとの希望には、「そうですな、一両二分でよろしゅうございますか」と言うや、さっさと持ち帰り、みごとな花鳥を描いて来てそれを遊女に差し出しました。遊女はまるで鳥にエサをくれるようなしぐさで画料を放り投げました。月僊はそれをていねいに拾い集め、何度も礼を言って立ち去りました。気品も威厳もない、まさに異端な「乞食月僊」だったのです。
文化六年の正月、月僊は寂照寺で六十七歳の生涯を閉じました。ところが遺品を整理するや、おびただしい契約書や領収書、設計図や人足手間賃の控えが山のように出て来たのです。それらはみな、伊勢参宮道路の修理や橋の普請に関するものばかりで、人々が驚いたのも無理はありません。当時の伊勢では、道路も橋もひんぱんに修理されて参拝者に喜ばれましたが、みな奉行所の仕事と思っていたのです。それらはすべて、月僊の画料によって支払われていたのでした。
また死に臨んでの遺言では、窮民救済金として千五百両を奉行所に託しました。飢饉に備えて永代的な計画まで立てていたのです。これらは後に、「月僊金」としてその利子が活用されました。人々は月僊の死後、その功徳に服したのでしす。もちろん寂照寺の本堂や山門などの復興も果たし、経典の購入も怠りませんでした。
まことに、偉業と讃えるほかはありません。そして、こうした偉業とは人知れぬ陰徳から生まれることも憶念されるのです。その高風は今なお、多くの人々から慕われています。月僊の作品は京都の妙法院、三重県立美術館、岡崎光昌寺、そして寂照寺にも保管されています。