令和2年4月11日
先日、「考える時間」の大切さをお話しました。テレビのない時代、人は音のないところで、独りになって考える時間を持っていたとお話しました。
現代はテレビばかりではありません。あらゆるところで音楽が響き、ニュースが流れ、騒音につつまれ、スマホが着信を知らせます。有益な音はあっても、不必要な音があまりにも多いのです。しかし現代人の多くは、こうした音がなければさびしくていられません。そして、独りでいるということができません。
特に若い人たちがそうです。独りでは昼食や夕食の店に入れません。誘われないと、仲間外れにされたような不安に襲われます。だから、独りになりたくないのです。誰かと何かでつながっていたいのです。そこで、用もないのにメールをします。一日中メールをのぞき、メールが来ていないかを確認し、来ていなければまた自分からメールをします。メールをしないと独りの時間を持て余し、不安になるからです。
もっと年長の人たちはどうでしょう。もちろん、仕事に追われています。せわしく働き、上司や同僚に気をくばり、夜は接待や仲間とのつきあいに費やし、休日はゴルフや家庭サービスで過さねばなりません。忙しいと嘆きながら、まれに時間ができると、「こんなことでいいのか」と逆に不安にかられています。
人生にあくせくと振り回され、迷いの中でもがき、まるで夢にうなされているような生活です。こんなことでは、自分の人生を本当に生かすことなどできるはずがありません。なぜなら、ひとかどの人物を見ればわかるからです。彼ら、あるいは彼女らは、友人や仲間との時間を大切にしながら独りの時間を作り出し、独りになって考え、より深いアイデアや智恵に到達しています。そして、それを自分の才能として生かしているのです。
お大師さまは、「狂人は狂せることを知らず」とおっしゃいました。本当の狂人になると、自分が狂っていることがわかりません。迷いの夢を覚まし、本当の自分を見つけ出すことです。そのためにも、独りの時間を作り出し、独りになって考えることです。人生はそれほど長くはないのですから。