令和3年7月30日
私はほとんどテレビを見ない生活をしています。しかし、今回のオリンピックはやはり気になり、興味のある競技やハイライト番組などは視聴しています。新型コロナの感染者がますます増大し、オリンピックの開催そのものへの批判もありますが、賛否両論のどちらが正しいと断言することはできません。事情が許される方は外出を控え、この後の対策に望みを託しましょう。テレビで応援するのも、よいものです。
参加選手はこの日のために過酷な練習に耐え、それこそ血の出るような努力をして来たはずです。実力の差が明らかな場合もありましょうが、わずかな〈運〉の差が死闘の勝敗を決することもあります。オリンピックは夢であり、感動であり、英知でありますが、きわめて残酷なものでもあります。歓喜もあれば、号泣もあり、人はどうしてこうも闘うのかという哲学的な懐疑すら禁じ得ません。世界ランク一位とされ、金メダル候補とされる選手が、初戦で「まさかの敗退」をすることもよくあります。人生そのものの象徴です。
だからこそ、勝者が号泣する敗者の前で歓喜をあらわにするのもいかがなものでしょうか。特に柔道のような二人競技はそこにオリンピック選手の、また武道家の真価が問われるように思います。競技が終った後、コーチとどのような涙を見せようが、それはよいのです。せめて敗者をいたわる姿を見せてほしいと私は思いました。勝者と敗者が互いにたたえ合う姿は美しく、視聴者に感動を与えます。
体操で選手一人の競技が終るたびに、自国の選手はもちろん、他国の選手たちとタッチをしたり抱き合う姿も初めて見ました。ソフトボールの優勝決定戦でも、試合が終わって、日米の互いの監督が泣きながら抱き合った姿も、美しく放映されました。世界中の人々が見ていたはずです。これにこそ、オリンピックの開催を喝采すべきすべてがあるのです。コロナ禍のリスクを背負ってでも開催した意義がほかにあるでしょうか。
オリンピックは戦争ではありません。しかし、闘う以上は、勝たなければなりません。そして、美しく闘い、美しく勝たねばなりません。メダルはそこから輝くのです。美しいオリンピックであってほしいと思います。