令和2年6月8日
男性どうしが集まると、こんな会話をします。「まったく、女ってヤツはわからないよな」と。また女性どうしが集まると、こんな会話をします。「いったい男の人って、何を考えているのかしらね」と。そして、人類はこんな会話を何十年、何百年、もしかすると何千年も続けてきました。男性にとって女性という存在は、女性にとって男性という存在は永遠の謎なのです。しかし謎であるがゆえに、男女の間には恋愛という「世にも不思議な物語」が生まれるのかも知れません。
当然のことですが、男性は女性になることはできませんから、女性特有の思考や感情を理解することは困難です。それは、女性にとっても同じです。もちろん、男性にも多少の女性的要素が、女性にも男性的要素はあります。そして例外があることも事実ですが、ここでは一般論としてお話をしましょう。
そもそも男性とは、〈願望〉で生きているのです。何をなすか、何をなし遂げたいかなのです。そして、感情よりも思考が先行し、できるだけ多くを獲得したいという狩猟本能を持っています。だから、人生の願望をより多く達成し、より多くの女性をモノにしたいと思って生きています(そういう本能が根底にあるという意味なので、誤解なさいませんよう)。ところが、女性の方は〈期待〉で生きています。何を成すかより、何をしてもらえるかなのです。思考よりも感情が先行し、保守本能を持っています。何かをしてもらって、安心していたいのです。自分が得た安心を、守っていきたいのです。そして、ただ一人の男性から愛されることを願って生きています。自分を選んでくれた一人の男性に、生涯にわたって愛情を注いでほしいと願っています。このことが、まずは男女の根本的な違いです。いっしょに生活をすれば、その思考と感情の差に亀裂が生じるのも当然なのです。
ところが、では世の男性は自分が選んだ一人の女性に愛情がないのかといえば、もちろん、そんなことはありません。一生の伴侶として大切にしたいと願っていることも事実です。また女性の方は、自分を選んでくれた一人の男性以外に何の関心もないのかといえば、これまた、そんなことはないのです。ここが男女の間の矛盾であり、不可解でやっかいなところです。
私が考えた別の見解をご披露しましょう。それは、まず男性という生き物は多分に〈イヌ族〉であるということです。主人(社会)という絶対的な大義がなければ動きません。またその大義のために働くことに喜びを感じます。だから社会的に自立できなくなった時、男性はとたんに自信を失います。つまり、何かの意味を持って仕事をしていないと不安になるのです。だから、休日を返上してでも頑張ります。一方の女性は〈ネコ族〉です。ふとん(家庭)の上で、気持ちよく眠っていたいのです。大義だの仕事だの、どうでもよいことです。呼んでも、気分が乗らねば寄っても来ません。これは思考より感情が先行するからです。そして、自分に愛情を注いでくれる人に撫ででもらったり、抱いてもらったりすることに喜びを感じます。「私と仕事とどっちが大事なの」という、女性の言いぶんはこうして生じるのです。このお話、まだ続けますか。