日本人の弱点
令和2年5月1日
日本人に弱点があるなら、それは何かと問われた場合、私は「恥ずかしがることでしょう」とお答えしています。
日本人は勤勉であり、清潔であり、思いやりを持った国民です。しかし自分を表現することとなると、残念ながら概して積極的ではありません。それは、恥ずかしがる気持ちが根底にあるからです。そのことは外国人と比べれば、すぐにわかります。ご存知のように、多くの外国人は強烈に自分をアピールし、「イエス」か「ノー」もはっきりさせます。欧米はもちろん、アジア諸国の方々でさえ同じです。お隣りなのに、中国や韓国と方々ともかなりの差があります。
もちろん、恥ずかしがることにも美徳があると私は思います。謙遜で出しゃばらず、失敗を恥とすることによって、平穏な社会を保つことができるはずです。曖昧ではあっても、その繊細な配慮が人間関係を円満に処理しているともいえましょう。これは日本人の文化であり、国民的な伝統として賞賛すべき一面はあります。
しかし、恥ずかしがることがまったく意味をなさず、無能な人間とまで見なされる可能性も多分にあります。現代社会は自分でアピールをしなければ、何も進みません。他人から聞かれるまで黙っているようでは、認めてもらえません。政治でもビジネスでも、交渉力や説得力の強さが求められるのは当然です。日本人はこのことを、しっかりと自覚する必要があります。そして子供の時から、自分の意見をアピールする教育をすべきです。ただ「おもしろかった」「楽しかった」だけではなく、何が、どのように、どうしてかを主張する訓練をすべきです。
いつも思うのですが、テレビで外国の政治家がスピーチをしている姿を、そのまま映画の一場面として想像しても、何ら遜色はありません。俳優さんにも女優さんにも見えてくるはずです。では、日本の政治家はどうなのでしょう。もちろん、上手な方もいます。しかし、いまだに下を向いて原稿の棒読みしている方も多いはずです。そして、どうしても言葉の間に、「あのー」「あのー」と連発します。これは日本語の構造上、何か原因があるのでしょうか。
真言密教の曼荼羅にはたくさんの諸仏が描かれています。そして、それぞれに個性が豊かで表現力に満ちています。如来さまも、菩薩さまも、明王さまも、そして天部の神さまも、いろいろな持ち物で誓願を示し、光かがやき、微笑み、歌い、踊り、音を奏でています。私たちに「このように生きなさい」と教えているからです。
やっかいな世の中
令和2年4月26日
私たちはよく、「お気持ちはわかりますけど」などと言います。しかし、本当に他人の気持ちがわかるものでしょうか。いや、気持ばかりではありません。性格や人柄、才能や能力、健康や病状など、本当にわかっているのかといえば、多いに疑問です。
私はいろいろいとご相談ごとを受けますので、第三者の性格を言い当てたりしますと、「そんなことまでわかるのですか!」と驚きの返事を耳にします。しかし、実際は〝そんなことしか〟わからないのです。でも、そんなことしかであっても、かなりいい方です。普通なら、それすらわからないはずです。
このことは第三者に限りません。親のことさえ、夫や妻のことさえ、子供や孫のことさえ、親しい友人のことさえ、同僚のことさえ、実はわからないことが多いのです。長い間いっしょに暮したり、つき合いをして来たというのに、これは厳然たる事実です。にもかかわらず、私たちは平気で他人をああだこうだと評します。陰口や噂話などは、その代表的な例です。自分の眼で見たわけでも、耳で聞いたわけでもありません。よく理解してもいないうえに、多くは想像なのです。それを、まるで自分が確認したかのように言いふらすのです。
テレビやネットの情報も、新聞や週刊誌の記事もまた同じです。わかってもいない他人のことです。直接に本人が語ったわけでもないのです。事情も知らないはずです。押し寄せる情報や記事のすべてを信じてはなりません。何が正しいのか、何が間違いなのか、よくよく選択をせねばなりません。
だから、他人の気持ちがわかるなどと、軽々しく口にすべきではないのです。相手のためと思ってしたことでも、理解が不足していたり、ありがた迷惑になることもあるはずです。そのことをわきまえることです。そうすれば自分の善意が伝わらなくとも、憤ることもなくなりましょう。相手を恨んだり、悪く言うこともなくなりましょう。
私たちはもともと、やっかいな世の中に生きていることを知らねばなりません。誤解があり、矛盾があり、理不尽に満ちているのです。そういう世の中に生きているのです。そうでしょう、皆様。
立食パーティー
令和2年4月25日
外国映画をみて感じることの一つは、パーティーのマナーが実に身についているということです。特にビッフェスタイルの立食パーティーでは流れに沿って歩きながら、グラスの取り方にも返し方にも無理がありません。料理を口にすることは少なくても、知人との挨拶や初対面者との会話が上手で、とても豊富です。つまり、こうしたパーティーは食べることが目的ではなく、交流の場であるということをよく心得ているということです。また、こうしたマナーを子供の頃から教えられているのでしょう。
それに比べると、日本人の立食パーティーは、大方が及第点とはいえません。たいていは親しい者どうしで寄り添い、高齢者はイスに座り、交流を広めようともしません。その会話も、普段のおしゃべりと大差があるとも思えません。そして、あり余るほどの料理を、ただガツガツと口にするばかりです。オードブルがあり、中華があり、パスタがあり、寿司があり、デザートがあり、いったい何が目的であったのかも忘れるほどです。食べることにはその方の本性が出ますから、意外な一面が見えることも否めません。
私は以前、こんな経験をしました。宗門の青年会に呼ばれ、講師としてお話をしましたが、夕方には定番の立食パーティーとなったのです。ある若い僧侶と挨拶をして、かなり意気投合しました。名刺交換もして、私の寺に訪ねたいとも言い出しました。私は快く承知したのです。ところが彼は、「ちょっと料理を取って来ます」と言うや、山のように皿に盛って戻って来ました。状況は一変しました。彼は私と会話するより、食べることに夢中になったのです。それも好きなものだけを口にして、余分なものは眼中にもなく残すではありませんか。そして、その眼は運ばれてくる新しい料理に向っていたのです。失礼ではありましたが、私はもう彼と会いたいとは思わなくなっていました。
日本人にはすぐれた才能や繊細な感性がありますが、こうしたマナーは学校でも企業でも教えません。にもかかわらず、外国人との交流は増える一方です。英会話に力を入れるのもけっこうですが、こうした分野にも視点を注いでほしいものです。たかが食事ぐらいで、などと侮ってはなりません。食事をする姿にはその人の生い立ち、親の養育と躾け、教養と品格、極端にいえば、人生のすべてが現れるからです。
ついでに申し上げますが、ひとかどの人物は、パーティーには前もって食事をしてから出席するとのことです。皆様はいかがでしょう。「ひとかどの人物」でしょうか?
緊急事態
令和2年4月4日
今日・明日と、月始めの総回向ですが、コロナウイルスによってお参りも少なく、マスクをしたまま間隔を空けてのお参りでした。こんな経験ははじめてのことで、さびしい思いは否めません。それでもコロナウイルスが一日も早く終息することを祈りました。そして弘仁九年(平安時代)の疫病のおり、お大師さまが『般若心経』の功徳によってこれを鎮められた史実に鑑み、私たちの責務についてもお話をしました。(写真)。
ついでながら、あさか大師お隣りの桜も先日の満開時に降雪となり、また翌日は突風となり、かなり散ってしまいました。それでも最後の〝なごり桜〟をお目当てに、老人ホームの皆様が集まりました。そして、私も車イスの皆様を励ましました。今日の一日にあっては、うれしいご報告です。
社会全体が異常な停止事態となり、特にお客様が集まる職業は危機に瀕しています。総理の宣言を待たずとも、もはや緊急事態なのです。日本は戦争もなく、台風や震災以外は平和に過ごして来ましたが、これこそは過酷なまでの試練でありましょう。そして、人類への警告でありましょう。この緊急事態を乗り越えてこそ、何かを学び、何かを得るのです。そして、この世は無常であるという真実を知るのです。試練も警告も大きな訓戒となることを念じてやみません。
スキンシップ
令和2年4月3日
初期の角川映画に、小松左京原作の『復活の日』という印象的な作品がありました。ご記憶の方もいらっしゃると思いますが、南極大陸に863人を残し、イタリヤ風邪によって人類が滅亡するというストーリーでした。
映画ではイギリス陸軍が試験中だった細菌兵器がスパイによって持ち出され、そのスパイが乗った小型飛行機がアルプス山中に墜落していまいます。そして砕け散ったウイルスが猛威をふるい、イタリヤ風邪としてアッという間に全世界に広まってしまいます。はじめは家畜の疫病や新型インフルエンザと思われたのですが、心臓発作による突然死が相次ぎ、おびただしい犠牲者を続出させます。そして暴動やパニックが勃発しても病原体の正体がわからず、ワクチンも研究できないまま人類は滅亡します。ただ酷寒の南極大陸にいた観測隊だけは、感染を免れました。そしてこの生き残った人たちで〈南極連邦委員会〉を組織し、その中から新しい人類が復活するという、そんな内容でした。
この映画は人類滅亡の要因を核兵器や震災ではなく、ウイルスという視点でとらえたところが新鮮で、かなり話題になりました。そして細菌兵器という愚行とは異なりますが、このたびの新型コロナウイルスとも、通じるものがあります。生命を脅かすウイルスの恐怖は、映画も現実も同じなのかも知れません。
ところで外国映画、また外国人が登場する映画で痛感することは、いかにスキンシップが多いかということです。挨拶といえばまず抱擁し、ほほにキスをし、何度も握手をします。中国や朝鮮半島の人ですら例外ではありません。
日本人は苦手ですが、スキンシップはとても大事なことだと私は思います。人は触れ合うことでより親密になるからです。しかしウイルスに関しては、これが仇になるようです。アメリカで急速に感染者数が増えた事実を思えば、そのことは十分にご理解いただけましょう。
しばらくの間は、体が触れ合う行為には注意が必要です。たとえご夫婦や恋人同士であっても、十分にご注意を。よけいなお世話と思うでしょうが、それほどの緊急事態だということです。乗り越えねばなりません。
無常としてのコロナウイルス
令和2年4月2日
この度のコロナウイルスのことを考える時、私は仏教の〈無常〉という教えを痛感せずにはいられません。
無常とは世の中は常ではないということ、常に移り変わるということ、いつ何がおこるかわからないということです。だから無常というと、一般には〝むなしい〟という響きがともないます。しかし、そうとばかりはいえません。変わるということは、生まれ変わるということ、生まれ変わるチャンスでもあるということなのです。
コロナウイルスは人類への警告です。増上慢と夜郎自大に走った人類への警告です。このような緊急事態は人類が始まって以来、一度として経験したことがありません。国や地域ごとにコレラやペストが流行っても、地球規模でのこのような感染に及んだ歴史はありません。それだけに、人類は未曽有の危機に直面しているのです。そしてこの危機に直面してこそ、謙虚に反省し、地球規模で生まれ変わる〝無常のチャンス〟を与えられているともいえるのです。
ただ、コロナウイルスはあまりにきびしく、相当な苦悩と犠牲と損害が強いられることは否めません。感染はますます広まりましょう。若いから、健康だから、体力があるからといった思い上がりも通じません。「自分だけは大丈夫だろう」といった、楽観も許されません。かくいう私とて、どうなるともかぎりません。
ただ一つだけいえることは、この無常という現実を受け入れ、苦しみに耐え、希望に向って努力を続けることが大切であるということでしょう。人は誰でも、苦しみに耐えたいなどと思うことはありません。平穏に過ごしたい。無事に暮らしたいと常に思っています。それでも、この世は思うようにはいかないものです。そして皮肉なことに、苦しみに耐えることが人を育てる根底でもあるのです。人生の楽しみは人を幸せにしますが、苦しみもまた人を幸せにするからです。
無常の教えは、生まれ変わるチャンスであることを私は信じています。人類は何を学び、何に向って進むのでしょうか。荒海の中にあって、今は陸もなく船も見えません。それでも、たどり着く小さな島があることを、私は信じています。失うこともあれば、得ることもあるのです。だから、無常なのです。
新・資本論
令和2年3月18日
数日前、コンビニに寄りましたら『堀江貴文の新・資本論』(宝島社新書)という著書が目につき、購入しました。「知らないと一生搾取されるお金の正体」というサブタイトルにも、興味をそそられたからです。またお金について、堀江氏がどのように考えているのかを知りたかったからです。
印象に残ったのは、お金とは信用だということ、紙幣がすなわちお金と思うのは幻想だという点でした。たとえば、失礼ながら皆様の財布に一万円札があるでしょうか。ありましたらその一万円札を取り出し、じっと見つめてみてください。さて、それは本当に〝一万円〟でしょうか。また、どうしてそれを手にしているのでしょうか。
堀江氏はすなわち、それは「一万円という信用の数値化」だと言っています。つまり、社会が皆様の働き(信用)に対して、それを評価した数字だという意味です。人はお金を求めて追いかけますが、実はお金はその足あとで、結果として残されたものなのです。社会に対して何を与えたか(堀江氏はこれを投資と表現しています)、どんな人脈を得たか(同じくコミュニケーションと表現しています)、それらの総合評価が一万円なのです。投資といっても株式のことではありません。人の役に立つことをしたか、人に親切を施したか、また自分が勉強するための出資をしたか、などです。私も皆様も、一人では生きていけません。必ず多くの方のお世話になるのです。それがコミニュケーションです。これらの総合評価が、すなわちお金だと主張しています。
人はお金があれば何とかなる、自分を助けてくれるのはお金しかないと思っています。そして、それを追いかけます。しかし、お金は結果なのだということがわかっていません。つまり、社会にどれだけの投資やコミュニケーションを持ち、どれだけの信用があるかがお金の正体だというのが堀江氏の考えなのです。
この考え方からすると、自分という正体も見えてきます。人は何となく「自分は自分じゃないか」と思っていますが、生きてきた過去の投資・コミュニケーション、そして信用のすべてが自分であるともいえましょう。過去とは生まれる以前からの自分も含めてです。仏教では「無始以来の」自分と表現します。その総合評価が自分の能力であり、自分の徳であり、自分の財産なのです。一万円札を求めるより、一万円の足あとを残すことが肝要なのなのです。堀江氏の主張は、きわめて仏教的なものだと私は思いました。
何によって栄え、何によって衰えるか
令和2年3月17日
私が長年お世話になり、親しくご厚誼をいただいたアルミ管工業会社の社長さんが他界しました。その社長さんは一代でその会社を立ち上げ、驚くほど広い工場を持つまでに発展させました。
大変に気さくな人柄でしたが、一方では学ぶことにも熱心でした。読書量も多く、経営セミナーへの参加も怠りませんでした。また、私の法話集なども真剣に読んでいただき、毎年の新春大護摩には、必ず会社名でお申込みをいただいて来ました。
私は何度も会社を訪ね、経営指針や人生観など、お話を伺ったものです。注目したことはその社長さんが私と外出する時、そして外出から戻った時は、事務所内の社員20人近くが全員で起立し、見送りと出迎えをしたことです。また工場内を案内していただいた折には、作業中でも社員が社長さんに一礼し、社長さんもねぎらいの言葉をかけていたものでした。社内の雰囲気が大変に明るく、社員の皆様が楽しんで仕事をしているようにさえ感じました。
いったい家も会社も何によって栄え、何によって衰えるのでしょうか。お大師さまは「豊かになることも衰えることも、人によるのである。人がいかに道に叶っているかによるのである」とおっしゃいました。道に叶っているとは仁に叶い、礼に叶い、志に叶っているということ、つまり道徳に叶っているということです。挨拶や清掃ががしっかりとできているということ、思いやりや意欲があるということでしょう。
「競争社会に何が道徳だ」と言う方がいますが、では、その方は十分に栄えているでしょうか。人に嫌われれば、結局はうまくいきません。一時的には栄えても、いずれは必ず衰え、いずれは滅びるのです。私は最近、ジョージタウン大学准教授、クリスティーン・ポラス女史の『「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である』(東洋経済新報社)を大変に興味深く読みました。彼女は「礼節の科学」によるビジネス講演をアメリカ各地で開催し、大変な人気です。つまり礼節のある人がなぜ栄えるのかを、さまざまな角度から力説しています。競争社会も、結局は人なのです。礼節なのです。
だますな、だまされるな!
令和2年3月4日
私の知っているあるお寺で、こんな詐欺被害がありました。
そのお寺はかなり看板を出していましたから、それぞれの地主や業者への支払いも多額でした。住職はもちろん、どの看板に対しても支払額や期日を把握していましたが、事件はその住職があいにく不在の時におこりました。看板業者らしい男がやって来て、「〇〇に立ててある看板の集金にまいりました」と言うのです。奥様は何の疑いもなく、高額な支払いを済ませ、領収書も受け取りました。しかし、それはまったくの詐欺業者で、領収書の社名も住所も電話番号も架空のものでした。
帰って来た住職が臍をかんだのは申すまでもありません。日頃から管理体制を整え、奥様によく説明しておくべきだったのです。しかし、さすがにこの住職はよくできた方で、責任は自分にあると反省し、この経験を深く戒めました。
現代社会は正直で誠実に生きるだけでは、通りません。これだけ〝振り込め詐欺〟が横行していながら、いっこうに減少しないのはどうしてなのでしょう。NHKの「ストップ詐欺被害『わたしはだまされない』」でも、いろいろな警告を発信しています。「キャッシュカードを渡さない」「合言葉を決める」「名義貸しに注意」などなど。それでも、人は〝だまされる〟のです。
私たちは人をだましてはいけないと思っていますし、人をだますことは悪いことだと思っています。しかし、人にだまされることが悪いことだとは思っていません。むしろ、だました人が一方的に悪いと思っています。ここに問題があるのです。私たちはだまされることも、だますことと同じように悪いことなのだという自覚が必要です。正直で誠実に生きると同時に、自分をだまそうとしている人が必ずいることを知らねばなりません。
生きていくためには、善に強くあると共に、悪にも強くあるべきなのです。観音さまのようにやさしく、お不動さまのようにきびしく、ということです。「だますな、だまされるな!」ですよ。
絶対ルール
令和2年1月18日
私たちは日常の中で、何気なく物を「出し入れ」しています。また、「出入口」を利用して出入りをしています。
特に意識することはありませんが、実はこうした言葉には〝絶対ルール〟が隠されています。それは「出し入れ」も「出入口」も、先に出して(出て)、その後に入れる(入る)という手順を踏んでいるということです。つまり、必ず出したり出たりすることが先行し、後に入れたり入ったりしなければならないという意味です。満員電車も降りる乗客が先に出なければ、新たな乗客が入ることはできません。
これはこの自然界の、また社会の絶対ルールであって、このルールを間違えると何一つうまくいきません。政治も経済も、科学も芸術も、スポーツも健康法も、人生のすべてにいえることです。
たとえば、いい街の条件とは何でしょうか。財政が豊かで、立派な施設が整っていることでしょうか。もちろんそれも条件の一つでしょうが、私ならゴミや下水の処理が行き届き、治安や災害対策が進んでいる街であると考えます。不用なものや欠点を取り除けば、いいものは自ずから集まるからです。
現代はサプリメントや健康食品、また化粧品もあふれるばかりです。しかし、どんなにいいものを取り入れても、体の毒素や老廃物を排泄しなければ、効果は得られません。まずは悪いものを取り除き、次にいいものを取り入れるという絶対ルールを間違えているからです。排泄の〈便〉とは、体からの〝お便り〟なのです。
不用なものを取り除かずに、いいものを取り入れることはできません。欠点を取り除かずに、長所は生かせません。これが絶対ルールなのです。