本当の教養
令和2年3月23日
『論語』の中で、私がもっとも好きなお話をいたしましょう。
ある日、子路と顔渕がおそばにいた時、孔子が言いました。「おまえたちはどんな人間になりたいのだ」、と。
まず、子路が語ります。「馬車に乗り、立派な着物や毛皮に身をつつんでいて、それを友人に貸し与えても、少しも気にしないほどの寛容な人間になりたいものです」と。次に顔渕が語ります。「自分の行いを自慢せず、めんどうなことを人に任せないような人間になりたいものです」と。
そこで、「先生はどうなのですか」と、子路が問いました。孔子が答えます。
「そうだなあ。年寄りには安心され、友人には信頼され、子供にはなつかれるような、そんな人間かな」、と。
これは孔子が居間で、くつろいでいる時のこととされています。そばにいる弟子に、何気なく語ったことなのでしょう。堅いことはぬきにして、人間としての生き方を問うたのだと思います。
子路の答えは、少し空想的に片寄った感じがします。また、顔渕の方は道徳的にかたい感じがします。でも孔子の答えこそは、きわめて自然です。
私たちも自分を語る時、孔子のようにありたいものです。よけいな理屈などいりません。学識さえ無用です。孔子は深い学識がありましたが、誰にでもわかり、誰にでも納得できるような、やさしい答えを語りました。これが、本当の教養というものです。
私は教養ということを考える時、このお話を忘れ得ません。まさに、そのとおりです。至高の名言です。
「年寄りには安心され、友人には信頼され、子供にはなつかれるような」、そんな人間になりたいと思うのです。すばらしいでしょう、皆様。いかがですか。
最後まで大切なもの
令和元年11月16日
昨日、人の悩みで最も多いのは、病気とお金と対人関係だとお話しました。
しかし、さらに考えてみますと、病気の悩みは、病気そのものが悩みであると同時に、その病気によって迷惑をかけている家族や職場の人たちのことが気になるものです。またお金の悩みも、お金そのものが悩みであると同時に、それによって迷惑をかけている人たちが必ずいるものです。つまり、病気もお金も、つきつめて考えれば人間どうしの問題、対人関係の問題だといえるのです。人間の問題はやはり、行き着くところ人間なのです。
たとえば、職場の中を考えてみましょう。職場では仕事の成績でも悩むでしょうが、最もやっかいなのは人間どうしの対人関係です。顔も見たくないという上司がいるかも知れませんし、パワハラやセクハラもあるでしょう。また、同僚からのいじめに悩んでいる人も、キリがありません。
趣味のサークルもまた同じです。上達したかどうかで悩むより、サークル内の対人関係で悩むのです。仲間外れにされたり、お茶や食事にさそってもらえず、独りで悩んでいる人が必ずいるものです。
人間どうしのつき合いこそは、人生最大の課題です。自分の考えや意見ばかりを押し通すようでは、うまくいくはずがありません。また、人の立場を思いやる幅広い心と誠意が必要なことはいうまでもありません。最後まで大切なものは、人柄ということです。
人間を救うもの
令和元年10月29日
「人間を救うものは何ですか?」と問われた場合、私は「教養でしょう」と答えることにしています。教養はもちろん学歴ではありません。知識でもありません。言い方を変えれば、〈智恵〉というほどの意味です。困難を乗り越えるためには、考える力、決心する力、信じる力など、たくさんの力が必要です。それらを統合して、もっとも一般的な言葉が教養であり、智慧であると思うのです。
そうすると、「お坊さんなのに仏教であるとか、宗教であるとか言わないのですか?」といった反問がありそうです。もちろん、私がお話する教養とは、仏教的教養や宗教的教養を含めての意味があることも申し上げねばなりません。
人間は決して一人では生きられません。どんな才能を持とうが、強い意志を持とうが、必ず他人の助けがなければ生きられません。つまり、自分の力の限界を知って謙虚にならねばなりません。素直に他人の協力を仰がねばなりません。これも教養の一つです。
次に、生きていくためには能力が大切であるけれども、その能力が受け入れられる信頼がなくてはなりません。世の中には仕事はできるけれども人気がないという人がいるものです。こういう人は自尊心が強いので、まわりから信頼されません。いつかは墓穴を掘り、自滅していきます。その、信頼される力を、私は〈徳〉と呼んでいます。徳もまた教養の一つです。
次に、お世話になったら感謝と御礼を、ご迷惑をかけたなら反省とお詫びをする、それもスグ(!)にする習慣が大切です。人間がトラブルをおこす原因は「挨拶がない」からです。つまり、挨拶こそは、人間社会の潤滑油なのです。この当たり前の挨拶を、どこまで身に着けているかも教養の一つです。
こうして考えていくと、発想はいくらでもふくらみ、自然に対する教養、社会に対する教養、健康に対する教養、芸術に対する教養、そして神仏に対する教養へと発展していきます。人間を救うものは教養であり、智恵なのです。
淡交
令和元年10月11日
人間どうしのつき合いは、あっさりしていることが肝要です。荘子は「君子の交わりは、淡きこと水の如し」と語っています。水は淡きがゆえに、自在に流れるからです。濃厚な液体では、こうはいきません。この淡き交わりを〈淡交〉といいますが、美しい日本語だと私は思います。
「親しき中にも礼儀あり」といいますが、親しき中にも距離が必要です。どんなに親しい間でも、常に密着していると、息苦しくなるからです。たとえば、狭い部屋にぎゅうぎゅう人を押し込んで会議をしたらどうなるでしょうか。しだいに、みんなが不機嫌になっていくはずです。親友どうしも、同じ家に住むより、適度に離れていた方がよいはずです。
空間の距離ばかりではなく、時間の距離も必要です。親しい間なら、黙っていても気持ちが通じます。その沈黙の時間こそ大切で、それによっていっそう密接になっていくのです。いつも同じ調子で馴れ馴れしく話しかけられたら、いつかは嫌悪感が湧くはずです。
また、普段はあまり親しくもない者どうしが、急に打ち解けた話をすると、いい気分になるものです。とっつきにくいと思っていた人が、急に親しくしてくれると、こちらも心を許すものです。つまり、人間どうしにはメリハリが重要なのです。適度な距離をおき、適度な時間をおき、イザとなったら親交を深めることです。
音楽にアクセントがあるように、人生にも高低や強弱を保つことです。長い道のりです。息苦しくならぬよう、ご用心を。
小心という大胆
令和元年9月28日
私は小心で、臆病な人間です。幼い頃はカメラを向けられただけでも、はずかしくて逃げ回っていました。まして、大勢の前で自分の意見を述べるなど、考えられないことでした。
ところが、そこが人間の不思議さなのです。そういう自分を素直に認めると、逆に大胆で豪放な人間に一変するからです。今では自分をアピールすることが大好きですし、どんなに大勢の前でも堂々と講演をすることができます。けっして、特別な訓練をしたわけではありません。
つまり、小心と大胆、臆病と豪放とは紙一重なのです。自分の弱さを知ったものほど、逆に強くなるからです。考えてみれば、人は誰でも気の小さい、気の弱い一面があるものです。ただ、そのことを自覚しているかどうかが問題なのです。だから、それを自覚しない人ほど、度胸があって気の強そうな態度を見せるのです。
「弱い犬ほどよく吠える」というでしょう。弱い犬は闘えば負けてしまうので、吠えまくって相手に逃げて欲しいからです。強い犬はいつ闘っても勝てるので、そんなことはしません。犬にたとえて申し訳ないのですが、本当に実力も自信もある人は、むやみに怒鳴るようなことはしません。
自分は気が小さい、気が弱いと悩むことがあるなら、まずは素直にそれを認めることです。すると、かえって居直れるはずです。強い自分は、そこから始まるのです。実力も自信もある人は、小心で臆病な自分を知っています。重箱のスミをつっつくように細かいことにこだわるのです。それでいて、いざとなれば驚くほど大胆な働きをします。人間は誰でも、〝小心という大胆〟の矛盾を背負って生きているものなのです。
ケンカをして仲良しに
令和元年9月21日
ラグビーの〈ワールドカップ2019日本大会〉が開幕しました。私はラグビーはルールすら知りませんが、昨日は開幕の対ロシアの試合を、途中からテレビで観戦しました。
あれはまさに、ボールを使った格闘技です。もっと下世話に言えば、一種の〝ケンカ〟です。試合中は互いに激突して、取っ組み合いの寸前でした。でも私は、ラグビーがなぜ「紳士のスポーツ」と呼ばれるのか、その理由がわかりました。
人間は互いに本音をさらけ出し、力の限界をさらけ出さねば本当の仲良しにはなれません。ラグビーはそれをスタジアムで証明するスポーツなのです。そして、選手どうしも観客どうしも熱狂して戦い、怒り、叫び、そして仲良くビールを飲んでいます。これは、人間が紳士になれる根底をついているからです。
はるかな記憶ですが、私がもの心のついた頃、農村の子供たちはよく徒党を組んでケンカをしました。川の両岸や土手に集まっては一列に並んで向かい合いました。そして、双方の大将が前に出て名のりをあげ、取っ組み合いをしました。まるでヤクザ映画の子供版です。私などは後ろの方で、指をくわえてそれを見ていたものです。
ところがケンカが終ると、互いが健闘をたたえ合い、得がたい仲良しになるものでした。たかが子供どうしのことですが、今思い出せば、あれこそはラグビーが紳士のスポーツであることと通ずるものがあるように思います。
このような例はスポーツはもちろんのこと、政治家どうし、経営者どうし、科学者どうしでも同じです。人間が本音をさらけ出し、力の限界をさらけ出してケンカをした時、不思議な友情が生まれます。この事実は、私たちが何らかのケンカに巻き込まれた時、必ず役立つはずです。
「足るを知る」とは
令和元年8月27日
お坊さんの法話に「足るを知る」という、定番のタイトルがあります。そして、その法話の内容は、「欲をかかずに、与えられた生活で満足すること」というものです。つまり〈小欲知足〉や〈清貧の生活〉こそ、身分相応の理想的な生き方であるということを力説しています。
しかし、この考えには私なりの異論がありますので、そのお話をしましょう。
そもそも「足るを知る」とは、老子の言葉です。老子は「足るを知る者は富み、勉めて行う者は志あり」と語っています。「自分には何があるかを知る人は、本当の豊かさに恵まれ、努力を続けることができる人は、それだけでも大きな生きがいである」といった意味でしょうか。そうすると、与えられたもので満足することとは、かなり違ったお話になります。自分には何があるかを知るとは、自分に与えられたものを最大限に生かすという意味ではないでしょうか。自分に与えられたものとは、内面的な長所でも、身辺の人や物でもよいのです。
つまり、自分の足もとにこそ無限のヒントがあり、無限の味方があり、無限の宝があるということなのです。本当に行き詰まった時、何を失ったかより、何が残っているかを考えることです。あと一ヶ月しかないということは、あと一ヶ月はあるということです。心に浮かんだことを、やってみることです。急に思い出した人に、電話をしてみることです。思い出の場所を、また訪ねてみることです。意外な時に、意外な場所で、意外なことがおこるのです。
追いつめられた時こそ、この老子の言葉を思い出してください。乗り越えられない苦難を、背負うはずがないのです。この世に生まれた以上、人は生きるに値する富があるのです。
妙なお話
令和元年7月27日
女性の戒名には、〈妙〉の字がつくことが多いのです。戒名というのは、葬儀において仏門に入るための新たな名前です。つまり、仏式で葬儀をするということは、仏弟子になるということで、そのために戒名をつけるのです。
では、なぜ女性の戒名に〈妙〉の字が多いのか、考えてみれば妙なお話です(笑)。もちろん、オンナヘンがついているのも、その理由の一つでしょう。しかし、そればかりではないように思います。皆様は、どのようにお考えになるでしょうか。
私が思うには、女性はささいな変化にも敏感であるためではないかと推察しています。つまり、女性はわずかな違いでも、鋭く見極めることができるからです。
たとえば、ある部屋の中に男性と女性が一人ずつ入って、その部屋の中をよく観察した後に、いったん外に出ていただくとしましょう。そして、たとえば机の上の置時計を10センチほど移動したとします。そして、再びお二人に部屋の中に入っていただき、どこを移動したかとたずねてみたとします。男性はたぶん何も移動していないか、わからないと答えるはずです。しかし女性は、そのわずかな移動を敏感に感じ取り、みごとに言い当てることでしょう。
男性はいつも仕事が忙しいので、こんなことに関心を持つ余裕すらありません。しかし、女性は日頃から、食品のわずかな鮮度を見分け、洋服のわずかな色彩を見分ける習慣を持っています。それは理論的な思考ではなく、ほとんど直観といってもよいほどの才能でしょう。この才能は男性がいかに努力をしても、追いつくものではありません。
同じ人間なのに、まことに妙なお話です。いつであったか、こんなことをお通夜の席でお話したものでした。
熱しやすく、冷めやすい人
令和元年7月22日
この道に入って四十年もたちますので、さまざまな人々と出会いました。
よく思うことですが、熱しやすい人は、たしかに冷めやすい傾向があるようです。たとえば私の寺を気に入っていただけるのはよいのですが、ほとんど毎日のようにいらっしゃる方がおりました。
そのうちに、だんだんと親しくなりますから、土産物などを持参するようになります。さらに、私の身の回りのものまで買い求めるようになり、プライベートな生活にまで入り込もうとします。そうなると独占欲が現れますから、まわりの方々とうまくいくはずがありません。結局はしだいに身の置きどころを失い、急速に遠ざかってしまいます。
このような方は、人と人との空気が読めないのでしょう。熱しやすい分だけ、自分の視野しか見えません。勢いに乗って突っ走るだけに、すぐに燃料が切れるか、エンストをおこすのです。これに対して、時々はいらっしゃるものの、気に入っているのか、どうなのかが読みにくい方もおります。しかし、こんな方こそ地味なおつき合いが続き、私にとっても大事なご信徒になるものなのです。人は見た目も大事ですが、見た目でけではわからないのもまた事実なのです。
このことは世の中を見てもわかります。あまりに急速な成長は、必ずどこかで無理が生じるのです。一挙に売り上げが伸びた商品は、残念ながら一挙に消えるのです。だから、昔から知られた胃腸薬などは急速に売れ上げが伸びることはありませんが、消えることもありません。大したものだな、と思います。
私たちもいきなり飛びつこうとした時は、少し頭を冷やして考えた方がよさそうです。一夜明けて忘れているようなら、それはもともと、どうでもよかったものかも知れません。本当にやりたいこと、本当に買いたいものは熟慮を重ねても、なお残るはずです。このお話、役に立ちますか、皆様。
友、遠方より
令和元年7月15日
そば打ちを修行しだ宇都宮の友人が、夫人と共に訪ねて来てくれました。
彼は中学校時代の同級生ですが、実は何十年も疎遠のままでした。それが、ふとした縁で親しくなり、今ではご覧のとおりです(写真)。今日のは栃木県・高根沢町産と益子町産のブレンドそば粉だそうで、精魂を込めた打ち立てをそのまま運んで来てくれました。さすがに会得した技術はすばらしく、びっくりするおいしさでした。
そばはビタミンB、アミノ酸(タンパク質)、食物繊維を多量に含み、精白米やうどんに比べてもバランスの良い穀物です。そして、何よりも特記すべきは、ポリフェノールの一種であるルチンが豊富であることです。ルチンは毛細血管を強くして血圧を下げ、血液をサラサラにする働きが認められています。また、コリンの働きによって脂肪肝や動脈硬化を防ぎ、糖質も少ないので太りにくく、アンチエイジング食品としても申し分がありません。
いつもお話していることですが、人間とは〝人の間〟です。その人の間に空気があり、その空気によって人間関係が決まります。そして、その空気を最も親密にするのは、いっしょに食事をすることなのです。皆様が、ご自分の身辺で何かと気をつかうなと思う人がいるならば、それは共にお茶を飲んだり食事をしたことのない人です。私はこの発想にかなりの自信があり、多くの人々を納得させてきました。
だから、親しくなりたいと思ったら、よけいな講釈など無用です。まずはいっしょにお茶を飲み、食事を共にしてみてください。効果はてきめんです。つまり、「同じ釜のメシ」は今も昔も同じだということです。ぜひ、試してみてください。私のイチオシです。
ちなみに、この友人はセキグチヒロシといい、どこかで聞いたような名です。