法の鉤と法の縄
令和2年5月9日
私たちは自分の意志によって生きているように思いますが、自分の意志とは異なる別の力によって生きているように思うこともあります。また、努力はもちろん大切ですが、努力だけで何ごともなし得るわけではありません。〈運〉もあれば〈運命〉もあるのです。また、そこには〈縁〉という不思議な力がはたらくことも事実です。
お大師さまは三十一歳のおり、留学僧として肥前田浦(現在の長崎県平戸市田の浦)より出航した四隻の遣唐使船の内、第一船にて唐に向いました。また、第二船には天台宗祖師の最澄さま(伝教大師)が乗船していました。当時は羅針盤などなく、無事に到着することすらわからない、まさに命がけの渡航でした。渡航中は暴風雨に遭遇し、三十四日間の漂流の後、現在の福建省赤岸鎮に漂着しました。出航した四隻の内、唐にたどり着いたのはお大師さまの第一船と、最澄さまの第二船だけで、ほかの二隻はついに消息を絶ちました。これを単なる偶然とするには、いささか思慮が浅いように私は思います。運命はまさに、歴史の偉人として二人の留学僧を選んだのです。
また、赤岸鎮から唐の都・長安(現在の西安)までの道のりも難行を極めました。ほぼ、日本列島を縦断するほどの距離です。そして、お大師さまは無事に長安に到着し、やがて生涯の師となる青龍寺の恵果和尚に出会いました。恵果和尚は三千人ものお弟子の中でただ一人、お大師さまを正嫡(正当な後継者)として選び、真言密教のすべてを授けました。そして、お大師さまとの出会いを待っていたかのごとく、やがて息を引き取りました。
唐は詩文も書道も盛んな文化国ですが、恵果和尚の碑文は正嫡であるお大師さまが揮毫したのでした。その文章は『性霊集』(詩文集)に残されています。
「故郷を顧みれば東の海のはるか東、たどり着いた道を思えば難が中の難で、命すら危ういものであった。航路は大波が満々と続き、陸路は雲も山も数え切れぬほどであった。そして、この広い大唐で師に出会い、密教の法を継ぐことができたことは私の力でなしたことではない。また、日本に無事に帰れることも私の意志の及ぶところではない。師は私を法の鉤をもって引き寄せ、私を帰すのも法の縄をもって日本に引いてくださるのである。この不思議な縁を、何と感謝すべきであろうか」
私は運と運命について、また縁という不思議な力について考える時、いつもこの「法の鉤と法の縄」という言葉を思い出すのです。この運とこの運命が日本の歴史を変えたのです。そしてこの縁が日本の仏教を変えたのです。
多少・他生・多生
令和元年8月30日
皆様は「袖すり合うも多少の縁」と、思ってはいませんか?
もちろん、「袖すり合うも他生の縁」が正しい表記です。〈他生〉とはこの世ではない他の生、つまり〈前世〉や〈来世〉という意味です。わずかに袖がすり合う瞬時のことでも、前世から来世への深い縁があると言うのです。ずいぶん大げさなお話ですが、言わんとしていることはわかります。
〈多少〉を通訳する時、日本語と外国語では意味が微妙に異なりますので、気をつけねばなりません。国を代表する大臣どうしの会談では、特に注意を要する用語です。日本語では〈少〉のニュアンスが強く、「少しは」ほどの意味でしょう。
だから「多少の縁」の方が、感覚的には日常的でわかりやすいように思います。わずかに袖がすり合うだけでも、少しは縁があるということです。しかし、本来はあくまで「他生の縁」で、まるでおとぎ話のような次元へと変貌します。そして、「他生の縁」はまた「多生の縁」とも考えられます。何度も何度も生まれ変ったその結果が「多生の縁」です。
このように思いをめぐらせば、人がこの世に生れ、育ち、生きていくということは、限りなく深い意味を持つことがわかりますでしょうか。うかうかと袖もすり合えません。たとえ満員電車のもみ合いですら、70億とも80億ともされる地球人口を考えれば、その日、その時、その場所での出会いはよほどの縁なのです。
「袖すり合うも他生の縁」のさらに重要なことは、だからこそ、この世で最も縁の深い親子や兄弟の縁は、半端ではないということです。夫婦や友人の縁を変えることはできても、この縁ばかりは変えることができません。運命を超えた、いわば〈宿命〉の領域なのです。最近は墓石にさえ「絆」と彫る方が増えましたが、もっともなお話です。親子や兄弟は同じ絆で結ばれていることを、改めて考えてみることです。