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努力は報われないのか

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令和4年9月16日

 

8月14日のブログ(「ひらめき」がおこる時)で私は、「努力は必ず報われます。報われないのは努力が足らないというほかに何の理由もありません」と書きました。しかし、皆様の中には、「努力をしても報われないのではないのか」とか、「結局は才能と運の差ではないのか」と思っていらっしゃる方もいるはずです。今日はこのことについて、私の考えをお話いたしましょう。

実は私は「努力」という言葉が、特に好きだというわけではありません。奴隷どれいの〈奴〉に〈力〉が加わって、何とも悲痛な感じがします。歯を食いしばってガンバルのではなく、むしろ「楽しい努力」こそ心得るべきだとさえ思っています。「これがうまくいったら、自分に何の褒美ほうびをあげようか」などと考えながら、楽しい努力をしたいと望んでいるからです。

そもそも、努力に対して、人には間違った偏見があると私は考えています。その一つは、努力をしていると思っているのに、実は大した努力をしているわけではない場合です。別の言い方をすれば、努力することと〝苦労〟することを勘違いしている、あるいは努力をしていると思い込んでいるという意味です。

たとえば、多くの人がダイエットを望んでいながら、またダイエットに関する本や方法があふれていながら、太った人がいっこうに減らないのは、この落し穴があるからです。どんなに糖質制限や脂肪制限をしても、甘いドリンクやスイーツを口にしていては本末転倒です。これでは苦労ばかり記憶に残りながら、いっこうに成果はあがりません。

もう一つは、努力の方法が間違っているのに、自分は一生懸命に努力をしていると思い込んでいる場合です。代表的な例として、受験勉強があります。皆様もご存知と思いますが、受験生の中には授業を聞いているだけで高得点が取れるという人もいれば、徹夜でガリ勉をしながら、いっこうに成績が上がらないという人もいます。この違いが何なのか、わかりますでしょうか。

私が思うには、一流大学に合格できる理由は、記憶のコツがわかっているからなのです。日本の受験制度は、ほとんどが記憶力で決まります。学習したことがどんな形式で問題に出るのか、その出題パターンをのみ込む要領がいいのです。つまり、何を覚えたらいいのかの目標を明確にして戦略を立て、それを短時間で実行しているからなのです。もともと受験向きの脳を持っている、ということなのでしょう。

努力をしても、ガムシャラに努力することがすなわち成果ではありません。また、自分を苦しめたり、いじめぬくことがすなわち成果でもありません。このような努力を、ある種の快感として酔い知れてもなりません。努力が報われるためには。〝努力以前〟が問題なのです。この努力以前がわかれば、努力は必ず報われます。そうではありませんか、皆様。

「ひらめき」がおこる時

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令和4年8月14日

 

私はかなりの本を所蔵し、また本を読まない日はありません。しかし、愛書趣味はありませんので、必要があればページを折り、赤線を引き、手垢てあかで汚れることもいといません。また、雑誌や新聞の切り抜きも、必要があれば出所と日付を入れ、スクラップで保管しています。そのスクラップこそは、書店では手に入らない格別な資料になるからです。

たとえば、古い新聞の切り抜きに、横井恵子さんという方の〈ひらめき〉のお話がありました。横井さんはZYXYZ(ジザイズ)という会社をおこし、ネーミングという新分野を開拓したことで知られています。つまり、会社やブランド品の名前をつけるという仕事です。なかなかユニークな分野ですね。

これまでに彼女が手がけた代表作には、「NTTドコモ」「au」「りそな銀行」「あいおい損保」「日興コーディアル証券」などがあり、その手腕のみごとさは、まさに驚くほかはありません。私の切り抜きは、彼女がその新聞の記者の質問に答えている内容でした。

「どういう時に名前がひらめきますか?」という質問に対し、彼女はこう答えています。

「私にはひらめきなんかありません。考えて考えて、しつこく、またしつこく作り上げていくのが私の流儀です」

私はこの記事を読んだ時、まるで全身が打ち震えるような感動を覚えました。「なるほど!」と思ったからです。つまり、私たちはひらめきというと、何かこう降ってくような安易なイメージで受け取りやすいからです。もちろん、そういうことも絶対にないわけではありません。しかし、そうではないのです。

彼女がお話をしているように、考えて考えて、その努力が尽きた時、その先にひらめきがやって来るのです。私たちが日常に用いている前述の代表作でさえ、どれほどの努力の末に生れ得たかは、想像を絶します。努力なしに生れるものなど、何もありません。その努力が尽きて空を見上げた時、一息を入れた時、お風呂に入った時、まさに〝天の声〟がやって来るのです。発明王エジソンが言う、「99パーセントの汗と1パーセントの霊感」とはこれなのです。

私も努力を重ねてはいますが、思うようにいかない時は、この横井さんの言葉を思い出すよう心がけています。不思議なご加護は、待っているだけではやって来ません。ご加護も当然のご褒美ほうびとして、努力の先にやって来ます。だから、努力は必ず報われます。報われないのは、努力が足らないというほかに何の理由もありません。皆様、いかが。

マイナス思考の大切さ

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令和3年6月18日

 

かなり以前の大河ドラマに、『元禄繚乱げんろくりょうらん』という番組がありました。作家・舟橋聖一の『新・忠臣蔵』が原作で、いわゆる赤穂浪士あこうろうしち入りを描いた一作です。主演の大石内蔵助おおいしくらのすけを五代目・中村勘九郎さんが、浅野あさの内匠頭たくみのかみの正室・瑤泉院ようぜんいんを宮沢りえさんが演じ、何かと話題になりました。

私はテレビを見ることはほとんどありませんでしたが、たまたま視聴した一場面だけは忘れることができません。それは、いよいよ討ち入りが間近に迫ったある日、内蔵助は四十七人の浪士を招集し、綿密な作戦会議を開いたところでした。作戦会議は夜半にまで及び、いよいよ最後に内蔵助が言いました。以下はおおよその記憶です。

「最後にご一同、これまでのことは吉良きら殿の首を討ち果たし得た場合ばかりを論じて来たが、仮にこれを討ち果たし得なかった場合についても決めておきたい」

すると、一同が反論しました。

「何ということを!」「さようなことはない!」「縁起の悪いことを申すものではありませんぞ!」

これに対して内蔵助は、次のように説き聞かせました。

「強がりを言うな。打ち果たし得ぬこともあろうし、打ち果たしたと思いきや、それが影武者かげむしゃであったらどうする。その備えをすることがどうして縁起が悪いのじゃ」

私はたまたま視聴したこの一場面が忘れられず、いわゆる最悪の事態に対する備えとして、生涯の模範となりました。なぜなら、私は自己啓発の書籍をたくさん読み、そうしたセミナーにも参加し、プラス思考に傾倒していたからでした。

たしかにプラス思考は大切です。成功することを強く望み、成功したイメージをいだくことは、成功の鉄則です。しかし、それでも人生には失敗がつきものです。最悪の事態への備えがなければ、イザという時の機転がききません。成功ばかりを望む人は、そこが危ないことを知らねばなりません。

いつ頃の番組であったのか、それすら覚えていませんが、あの一場面にはよほどに縁があったのでしょう。人生にはこういうこともあるのです。気まぐれな思いつきが、大きな成果を得ることもあるのです。マイナス思考の大切さとして、忘れることができません。

執筆中

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令和3年3月13日

 

私は今、ある次第書を執筆中で、大変に苦慮しています。出版社には三月中に原稿を渡す約束ですので、あまり時間もありません。加えて三月はお弟子さんへの伝授も多く、多忙の日が続いています。そのため、なかなかブログまで手が回りません。楽しみにしてくださっている皆様には、申し訳なく思っています。悪しからずご了承ください。

そもそも文章を書くという作業は、なかなかに困難です。私を評して「泉のように湧くのですね」とか、「スラスラ書けるのですね」などとおっしゃる方がいますが、そんなことは絶対にあり得ません。もちろん、意外に進むこともありますが、何も書けず、まったく進まないこともあります。そこで本堂の中ををグルグルと回ってみたり、気晴らしにビデオを見たり、時にはお酒を飲んだりして来ました。これは〝作家〟と呼ばれる方々でも同じだと思います。

十九世紀に活躍したアメリカの作家ヘンリー・ミラーは、「今、あなたが思っていることがあるでしょう。その思っていることから書き出しなさい」と言いました。私は「なるほど」とは思いましたが、だからといって、そうヤスヤスとは行きません。「思っていることは何だろう」と、また思ってしまうのが人の常だからです。皆様はどう〝思い〟ますか。

では、時間も惜しいので、まずは失礼いたします。

どうにかなる

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令和3年1月23日

 

人生は思うようにはならないことも事実ですが、どうにかなるものだということも事実です。つまり、プラス思考もマイナス思考も、共に必要なのです。プラス思考に傾き過ぎると、最悪の事態に対応できません。だから、「どうにかなる」ほどの気楽な構えも必要です。生きていくためには、いずれをも腹に含んでおくことです。

先日、私が中学一年生頃の記憶がよみがえりました。あれは今頃だったのか、あるいは節分を過ぎた頃だったのか、柔道仲間の悪友三人が集まり、寒中水泳に挑戦しようとことになりました。もちろん〝修行〟などというレベルではなく、単なる度胸試どきょうだめしほどのものでした。私の郷里(栃木)には海がありませんので、さっそく一時間ほど自転車を走らせ、目ざす鬼怒川きぬがわの岸辺に向いました。晴れてはいましたが、風の冷たい日であったように思います。

さて、いざ威勢よく気合を入れ、川に入ったものの、またたく間に体はガタガタとふるえ、くちびるは紫色に変じ、「おい、これはたまらんぞ!」ということになりました。とにかく焚火たきびででも体を温めねばどうにもなりません。しかし、そこは悪ガキどものことで、マッチもライターも持っていません。

私は必死になって考え、身辺を見渡しました。すると、誰かが夜釣よづりでもしたのか、わずかな燃えあとの炭を見つけました。しかし、火種がありません。さらに震える体をちぢこませて歩くと、ガラスびんのかけらを見つけました。私はとっさに、そのガラス瓶のかけらをレンズにして、その炭に太陽光を一点に集めました。何と、みごとに火種になったではありませんか。流木りゅうぼくたきぎをくべるや焚火となり、ついに事なきを得ました。

人生はどうにかなるという思考は、案外、この時の体験からなのでしょうか。とっさの判断は、意外に人生を動かすものです。お役に立ちますか、皆様。

考えることの大切さ

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令和2年9月8日

 

私の知人では少なくとも三名、自宅にテレビを置かない方がいます。私自身もテレビはほとんど見ません。ニュースや天気予報をチェックしたり、よほど気になる番組を見ることはありますが、あとはまれにスイッチを入れる程度なのです。ただ、気に入ったDVD(映画・テレビドラマ)は何回でも、くり返し見ています。

どうしてテレビを見ないかと言いますと、考える時間をうばわれるからです。もちろん、テレビを見ながらでも考える、また考えさせられる番組はあります。しかし、ほとんど思い出すことがありません。どんな本を読んできたかは記憶に残りますが、どんなテレビを見てきたかは、子供の頃の人気番組のほかは記憶に残りません。つまり、テレビ番組はおもしろく笑い、時間を忘れて過ごす手立てにはなりますが、本当に有益であるかどうかはわからないということです。多くは目的がないから、さびしいからテレビをつけているに過ぎません。家族の団らんすら、テレビに支配されています。

人間は独りになって考える時間が必要なことは以前にも書きました。そのための多くの時間が、テレビによって奪われているはずです。それは、電話についても同じことが言えましょう。振り込め詐欺さぎなどは論外としても、セールス電話などはまったく一方的な都合で時間を奪われます。スマホやパソコンになると、さらにメールが加わります。もちろん、現代人の生活はインターネットを含めて、スマホやパソコンなくしてはあり得ません。私自身もその恩恵おんけいに浴しています。また、スマホやパソコンの能力が、ビジネスの能力であることも確かです。

しかし、受け取ったメールは本当に必要な情報でしょうか。他人の悪口や愚痴を読んでいるだけでも、私たちの神経は激しく乱れ、いつの間にか感化されていきます。返信をすれば、さらにその返信が気になり、本来は備えているはずの待つことや耐えることの能力を失っていきます。問題はほとんどの現代人が、それに気づかないでいることなのです。

また、若い方々は書くという習慣が極端に減りました。ボールペンすら正しく持てません。スマホがメモ帳であり、予定表であり、記録(写真)であるからです。もちろん、こうしたスマホの機能は大いに活用すべきです。ただ、人間は指先で書くことにより脳とのフィードバックがはたらき、思考が深まり、整理されていくのです。私も仕事中や入浴中に浮かんだ〝ひらめき〟は書き残し、さらに〝発酵〟させて熟慮するようにしています。このブログはもちろん、伝道掲示、寺だより、そして著書にいたるすべては、こうした習慣から生まれました。

皆様はいかがでしょう。気まぐれに行動し、後で考えますか。それとも、よく考えて、それから行動しますか。しかし、そんなことを聞いている間にも、便利さとスピードが考える時間を奪っていきます。

乱読のすすめ

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令和2年4月15日

 

以前、「どくの効用」についてお話をしました。そこで、もうひとつ、乱読らんどくはどうでしょうか。

私は本が好きですし、読書をしないという日はありません。だからといって、読書を絶対的に妄信もうしんしているわけではありません。読書はあくまで、生きていくための、また考えるための一つの手段なのです。いわば、人生の栄養素のようなものです。もちろん、その栄養素を生かすためには、謙虚に自分を見つめ、社会を見つめ、思考を重ねる必要があります。一生の栄養素が一日では摂取できないように、読書もまた長い継続から効用が顕現けんげんされるのです。

人生とは煩雑はんざつなものです。やっかいな人とつき合い、むずかしい仕事に立ち向かい、めんどうな用事を処理せねばなりません。だから、人生が煩雑なら読書もまた煩雑であるべきで、つまり乱読が必要だというのが私の持論(というほどでもありませんが)です。つまり『論語』も読めば、週刊誌やマンガも読みましょうということになります。

私の書棚の片隅に、殿堂入り本のコーナーがあります。要するに何度読んでもきない本、もしくはそれに類する本のことで、多くは古典の文庫本です。だからといって、古典の至上主義を崇拝すうはいするつもりは毛頭ありません。古典はたしかにすばらしいものですが、それに固執こしゅうすると、融通のきかない石頭いしあたまになってしまいます。音楽ならクラシック以外には価値を認めず、絵画なら中世の宗教画以外には興味を示さない人のようなものです。そういう人はどこかおもしろみに欠け、思い上がった権化ごんげのように見えるものです。読書はあくまで自己流であるべきで、楽しくなければ意味がありません。そのためには乱読が一番だと、私は考えています。

ただ、読書が楽しくなるためには、ある程度の基礎訓練や基礎知識が必要です。そのためには教科書的な普遍本ふへんぼんから入るのもよいでしょう。それによって受験生時代には理解できなかった古典のすばらしさがわかれば、大きな収穫です。そして時には頭を休め、軽い本も乱読すれば、自分の興味はおのずからしぼられて来るはずです。

ついでながら、乱読とはいっても、私は宗祖(お大師さま)の著作は職務としても読まねばなりません。その職務もまた、乱読への楽しみとなることをお伝えしておきましょう。

考える時間

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令和2年4月8日

 

緊急事態宣言が発せられるや、私はほとんど人との接触がなくなりました。もちろん電話はかかって来ますし、手紙やメールなどはいつもどおり処理しています。しかし、これほど考える時間に恵まれることなど、めったにあるものではありません。これは思ってもみないチャンスだと考えています。

私と同じように、自宅にこもって仕事をなさっている方も多いことでしょう。パソコンに向かいながら、会社のこと、同僚のこと、取引先のことなど、時おり脳裏をよぎるに違いありません。でも、今こそはかけがいのない〝自分の時間〟があるのです。ぜひ、必要な情報以外はなるべく遮断しゃだんし、考える時間を作ってほしいと思うのです。

私がどうしても馴染なじめないことの中に、てもいないのにテレビをつける習慣があります。何の音もしない家が、そんなにさびしいのでしょうか。まれに法事やおはらいなどで、人の家をお訪ねすることがありますが、たいていはテレビが放映されています。かといって、その放映を熱心に視ているわけでもないのです。私は即座に消していただくようお願いしますが、この習慣がわかりません。私がテレビを敬遠けいえんする理由は、こんな経験からなのでしょう。

戦後の日本において、テレビの普及ふきゅうこそは最大の功罪こうざいです。番組の楽しみがあり、情報の収集も便利になりましたが、家庭の中から会話をうばいました。そして、考える時間を奪いました。食事をしていても、家族の眼と耳はテレビに向かっています。母親が作った料理の手間など、話題にも出しません。ただはしを運びながら、その眼もその耳もテレビに夢中です。

テレビのない時代、人は考える時間を持ちました。そして、何の音もしないところで、独りになって考えました。この緊急事態の時こそ、そのチャンスなのです。人との接触も少なく、また人への気遣いも少ないなら、考える時間を作ってほしいと私は思います。この上なく有意義な時間となることに間違いはありません。

勝つと思うな、負けまいと思え

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令和2年3月26日

 

昭和39年のこと、美空ひばりさんが唄った『やわら』という曲が大ヒットしました。発売からわずか半年で、シングル180万枚以上という記録的な売り上げだったそうです。ひばりさんはこの年の「第15回NHK紅白歌合戦」、そして翌年の「第16回NHK紅白歌合戦」では二度ともこの曲でトリをつとめ、しかも「第7回日本レコード大賞」にも輝きました。昭和39年はいわゆる「第18回東京オリンピック」が開催され、柔道が初めて正式種目に選ばれたという背景もありましたが、日本中に〝柔ブーム〟を巻き起こしたことも事実でした。

「勝つと思うな、思えば負けよ」という歌詞の冒頭を覚えていらっしゃる方も多いことでしょう。しかし、この冒頭が吉田兼好よしだけんこうの『徒然草つれづれぐさ』(鎌倉時代の随筆)に由来することをご存知の方は少ないはずです。その第百十段に、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり」という名言があります。これは双六すごろくの名人に勝つ手立てを聞いたところ、「勝とうと思って打ってはいけない。負けまいと思って打つべきである」と答えたという逸話いつわを語ったものです。。

勝負ごとというものは、常に勝ち続けられるものではありません。また、勝ち過ぎた人は、必ずある時になると大負けしたり、負け続けるものです。途中まで優勢であっても、逆転負けということもあります。それに勝つことばかり意識する人は、負けると途端とたんに気力がおとろえてしまうものです。だから、負けまいという意識を持ち続けることが大切だと、この双六の名人は語っています。

かつて、西武ライオンズの森袛晶もりまさあき監督は九年間の就任中、八度のリーグ優勝と六度の日本一に導きました。監督は日本シリーズについて、「全勝するのではなく、三敗しても優勝はできると思って戦った」と語っています。つまり、負けない野球で最後に勝つことを意識していたのです。

勝つことにこだわることも大切ですが、最後に勝つことはさらに大切です。人生には負けることもあるのです。その時の気持の切り替えが大切なのであって、ここに極意があるのです。皆様、「勝つと思うな。負けまいと思え」と呪文のように唱えてみてください。逆転勝利への呪文ですよ。

積ん読の効用

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令和2年2月22日

 

読書にもいろいろなパターンがあります。〈黙読〉や〈音読〉はもちろん、何度もくり返し読む〈複読〉、よく味わって読む〈味読みどく〉、心から感銘して読む〈心読しんどく〉などがあります。

昔の寺子屋では、子供たちがとにかく声を出して音読(素読そどく)をくり返しました。声に出すことで、脳を刺激し、記憶しやすいからです。大人になって辞書もパソコンもなく文章を書き得たのは、記憶した語彙ごいが豊富であったからです。声に出して読むということは、記憶力を大きく高めることに間違いはありません。

こうして考えると、僧侶が長い経典を毎日くり返し読誦どくじゅし、いつの間にか暗誦あんじゅしてしまうのも当然のことです。しかも深い腹式呼吸によって大きな声を出しつつ、仏に融合ゆうごうする感情移入が加わりますから、健康のためにも最適です。「声出し健康法」を代表するものでしょう。もちろん謡曲ようきょく詩吟しぎん、声楽や朗読もこれに類するものです。

さて、まじめなお話をした後で恐縮なのですが、私はいわゆる〈どく〉にもすばらしい効用があると思っています。買ってきた本を読みもしないで積んで置くばかりの様子を指して、皮肉に〈積ん読〉と呼びますが、実はなかなかのものです。

〈積ん読〉はほとんど本を横に積み上げ、タイトルも読みにくい状態のはずです。しかし、書棚しょだなながめながら「これは何の本であったか」と思って首を傾けた瞬間、そこで不思議なインスピレーションがくことを見のがしてはなりません。そこから忘れていた記憶や情報を思い出し、新しいアイデアが生まれるからです。

だから皆様、〈積ん読〉を決して恥じることはありません。私がこうして長く『法話ブログ』を続けられるのも、意外に〈積ん読〉の効用なのかも知れません。いや、きっとそうですよ。

山路天酬密教私塾

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