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続・天下第一の高僧

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令和5年4月14日

 

浄厳大和尚じょうごんだいわじょうのお話を、さらに続けましょう。

大和尚は十歳の折に高野山にて得度し、以後二十三年間にわたって求道生活を送りました。その間、その才名は天下に聞こえ、これを敬慕しない人はなかったとまで伝えられています。高僧というと、一般には学識的な面ばかりが強調されますが、大和尚の偉才は密教修法による数々の霊験にあると私は思っています。

もちろん真言陀羅尼の編纂へんさんをはじめ、口決くけつ(行法の意味や口伝)に関する著作も多く、その功績もまたはかり知れません。ただ、大和尚の著作刊行にあたっては驚くほど多くの寄進者によって成り立っていたことは注目すべきです。たとえば、『普通真言蔵ふつうしんごんぞう』という名著の刊行においては、1042名の方がこれに協賛していますが、そのほとんどはご信徒の方々なのです。これは大和尚が祈念した護符の霊験が、いかに顕著であったかを示す確証にほかなりません。

江戸牛込の西村喜兵衛という人は、舌が腐って飲食もできない業病ごうびょう(前世からの宿業しゅくごうによる病気)を患い、医者にも見捨てられましたが、大和尚より光明真言の護符を授かりました。そして深く懺悔さんげして念誦ねんじゅしたところ、たちまちに平癒へいゆしました。尾道の今田屋新平衛という人は大和尚から阿字あじ(真言密教の象徴的梵字)の浄書をいただき、おじくにして日夜これを祈念しました。すると元禄15年の大火で、民家800軒あまりと共に新兵衛の家も焼失しましたが、大和尚のお軸だけは少しも損じませんでした。諸人はこれを奇跡としてあがめ、深く礼拝しました。また、日照りにあっては祈雨を念じ、渡海にあっては無事を念じ、いずれも不思議な霊験が記録されています。

大和尚は生涯に十七回の結縁灌頂けちえんかんじょう(ご信徒が仏さまとご縁を結ぶ儀式)を勤めました。その入壇者にゅうだんしゃは何と304055人と記録されています。これほど驚異的な入壇者の数を私は知りません。一日の予定が三日、七日、十日と続き、霊雲寺れいうんじでのその様相は『江戸名所図絵』にも描かれています。

大和尚は元禄15年、六十五歳で入滅にゅうめつしました。その威光は蓮体れんたいという弟子に継がれました。墓所は霊雲寺に近い、台東区池之端の妙極院みょうごくいんにあります(写真)。

その入滅が近づいた時、将軍綱吉つなよしの命によって大奥の医師が診脈にうかがいました。「何か苦しいことがありましたら仰せられませ」とお話したところ、「何もありません。ただ正法しょうぼうの興隆がまだまだ及ばず、それが心苦しいだけです」と語りました。これが大和尚の最後の言葉でした。

天下第一の高僧

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令和5年4月12日

 

江戸時代の初期、浄厳じょうごんという大和尚だいわじょうがいました(写真)。寛永16年、大阪・河内長野市に生れ、高野山で修行し、生家に延命寺えんめいじ建立こんりゅうし、真言密教の再興に尽くし、民衆を強化し、晩年は東京湯島に霊雲寺れいうんじを開山した方です。私はこの時代、この浄厳大和尚をして天下第一の高僧と断言してはばかりません。その幼少期のことをお話しましょう。

大和尚が母の胎内に宿った時より、その母には一切の苦しみがなく、身も軽く、すがすがしい毎日でした。ただ、少しでも生臭いものを口にすると、たちまちに腹痛をおこしたそうです。誕生の時も、世の女性は苦痛と共に不浄の血を伴うのに、まったくその兆候ちょうこうがなく、まるで絹に包まれたように誕生しました。

二歳までは乳を飲みつつ、右手の人差し指で母の胸に、いつの間にか梵字を書いていました。また、三歳になるや、習ったはずもないのに観音経や尊勝陀羅尼そんしょうだらにを唱えていました。どのように考えても、奇妙な子供として注目されたようです。

魚肉や葷辛くんしん(臭いや辛みのある野菜)を食さず、女性には近づこうともしませんでした。ある時、父に向って、「私は必ず僧侶になるだろう。そして、名を〈空海〉と名のるだろう」と宣言しました。驚いた父は、「お大師さまの名を用いることはならん」と言いつけるや、「では〈空経くうきょう〉と名のろう」と言い出しました。常に子供とは思えない英知を発揮し、身辺の人から弘法大師の再来とまで言われたそうです。

五歳になって父が大きな筆を与えると、知るはずもない阿弥陀如来や観世音菩薩といった諸仏諸菩薩の名、また経文の言葉をすらすらと書くのでした。その筆跡は今でも延命寺に残っています。また、ある人が熊野に参詣した道中を語ると、「その道なら私も知っている。高野山からそこを過ぎると・・・」などと言い出すではありませんか。「どうしてその道を知っているのか」と問うや、「私は師と共に何度も参詣している」と言うのでした。そして、諸国の霊山名跡を詳細に語るので、聞く人はみな身の毛もよだつ恐怖と不思議の念にかられ、何をおいても凡人ではないことを知りました。

しかも、自分が誕生した時のことを見て来たように、「私が生まれた時、お大師さまが隣りに座っておられた。そこがその場所だ」と言って指さし、そこに人を座らせることは決してありませんでした。経文でも漢書でも、ひとたび手にするや、水が流れるように音読しました。漢詩を作るや、その韻のみごとさはすでに詩人の域でした。

もう、余白がありません。皆様は信じられるでしょうか。また、このような方がどうしてこの世に生れるのでしょうか。常人には理解し得ない世界があることを、歴史の運命は少しだけ見せてくれるようです。それ以上を私には語れません。

高僧はここが違います

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令和5年4月7日

 

今でも、「高僧墨蹟展」などといった企画があるのでしょうか。出品した〝高僧〟の方には申し訳ないのですが、私は「困った世の中だな」と思っています。今や〈高僧〉などという呼称は、死語になったも同然だからです。ましてや、自分を高僧だと思っている方がいるとしたら、それは高僧ではないことを自ら証明しているからです。

しかし、世の中には名は知られずとも、高僧というべき方が確かにいらっしゃることも事実です。そののような方は、決して世間に出ることはありません。あくまもでも僧侶としての自覚を忘れず、人知れず仏に使え、人のためには労をしまず、欲はなく、決して怒らず、しかし菩提心が深く、研鑽を怠らず、淡々として人生を過ごしています。私はそのような方を、わずかながら知っています。

そこで考えてみると、日々に読経や真言の念誦ねんじゅに励むと、どうやら共通した容貌ようぼうがあることに気づきました。それは頭上が少しばかり盛り上がっているということです。必ずしも確実であるとは断言できませんが、私はこの自説にかなりの確信があります。これは、仏像では〈肉髻にっけい〉と呼ばれ、ちょうど頭上におわんを伏せたように表現されています。中医学では〈百会ひゃくえ〉、ヨガでは〈サハスラーラチャクラ〉と呼ばれる身体の要所です。

代表的な例が、実は弘法大師(お大師さま)です。あさか大師の御影みえ(お姿)を見てください。頭上がまるで宝珠のように盛り上がっています(写真)。

これは読経や真言の念誦に励むうち、その響きが頭上を刺激したからでしょう。私はいつも、「真言とは振言しんごんですよ」とお話をしています。お唱えする振動が頭上まで上昇すると、まるで仏智を得たように変化するからです。このことは、私が教えを受けたさる高名な和尚も語っていました。

皆様が僧侶と対面したなら、まずは頭上を見てください。少しでも盛り上がっていたなら、その方の言葉や身振りを観察してみてください。名は知られずとも、意外な〝高僧〟かも知れません。名利は求めずとも、世間の片隅で静かに暮らしているはずです。ついでですが、頭上がへこんでいる方は用心です。気をつけましょう(笑)。

ご神水の味をお教えします

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令和5年3月14日

 

お大師さま(弘法大師)は弘仁こうにん7年10月14日、嵯峨天皇さがてんのうのご病気をうれい、弟子と共に7日間の息災祈願そくさいきがんを修しました。しかし、なおご回復の通知がなかったため、「慎んで加持したご神水を弟子に持たせました。このご神水でお薬をせんじ、ご病気を除き給いますように」と書簡を送っています。

ここでいう〈ご神水〉とは、真言密教の〈加持香水かじこうずい〉を示すことは、疑う余地がありません。真言行者は修法に当たってまず自らを護身し、次に加持香水の作法をなし、散杖さんじょう(特殊な枝)にて道場を清めるからです。一般にはこれを塗香器ずこうき(写真左)と洒水器しゃすいき(写真右)という仏具にて修します(中央の枝が散杖)。

ところが、常に修しているはずのこの加持香水が、はたしてどんな味がするかを知っている真言行者はまずいません。私はこのことが奇妙でなりませんでした。そこで、かつては弟子の僧を集め、作法どおりに修して、直接にこれを飲んでいただいた経験があります。真言行者の方は、ぜひ体験してみてください。

まず、紙コップに水道水(浄水にせず)を注ぎ、一口飲んでみます。さあ、どんな味でしょうか。地域によっての違いはありますが、都市部の水道水はカルキ臭があったりして、おいしいとは言えないはずです。特にミネラルウオーターに慣れた人は、冷たさが足りない分、違和感があることでしょう。次に、散杖の代わりに割りばしを一本用意します。そして、作法どおりに水道水を加持をして、舌の上で転がすように静かに味わってみてください。いかがでしょうか。

私の経験では水が柔らかくなるはずです。また、甘味が加わるはずです(もちろん、砂糖のような甘さではありません。感覚的に〝甘い〟という意味です)。柔らかくなるという感覚は、舌の〝当たり〟が柔らかくなるという以外、説明できません。真言の波動が水の原子に伝わると、このような物理現象をおこすのでしょう。

私はこうした経験も、真言の力を知るヒントになると思っています。真言は波動なのです。〈振言しんごん〉なのです。そして、お大師さまはまさに、偉大な救世主なのです。

人生の極意とは何なのか

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令和5年3月12日

 

あさか大師では〈一食布施いちじきふせ〉をお願いしています。お願いすると同時に、これによって「功徳を積みましょう」とおすすめしています。一食布施とは一食分の食事代ほどを、月に一度寄進していただくものです。ほんの小銭でもよいので、ご協賛をいただいておりますが、もちろん私もいっしょに布施をしています。昨年は〈ウクライナ緊急募金〉として、先日は〈トルコ・シリア地震緊急募金〉としてユニセフに送金をしました(写真)。

ところで、私は弟子僧(真言行者)の方々に、行法ぎょうぼう(仏さまと感応する方法)の伝授をして修行の手ほどきをしています。そこで、「修行とは何なのか」という根本のお話も加えています。つまり、真言行者は大壇だいだん護摩壇ごまだんの前に座って何をするのかという説明をしているわけです。

結論から申しますと、「それは仏さまがお喜びになる供養をするのです」とお話をします。たくさんの仏具を前にして、コチョコチョやっていますが、あれは仏さまを供養をしているということになります。では、供養とは何かといいますと、これを〈六度ろくど〉といい、布施ふせ持戒じかい忍辱にんにく精進しょうじん禅定ぜんじょう智慧ちえの六項目をいいます。しかし私は、「すべては布施にたどり着くのですよ」とお話をしています。なぜなら、戒を守ることも、苦難に耐えることも、精進をすることも、禅定に励むことも、智慧を得ることも、すべては仏さまへの布施であるからです。

人はみな、あれが欲しいこれが欲しいと思って、手に入れることばかりを考えて生きています。しかし、手に入れるためには、先に何かを与えねばなりません。だから、本当に豊かな人はみな与えることを喜び、与えることを楽しんでいるはずです。つまり、人が喜ぶことを与えれば、必要なものが望まずとも入ってくることを知っているのです。

布施の喜びを知ると、我欲から離れます。人が喜ぶことが自分の喜びになるからです。そして、仏さまはそれをお喜びになり、その人を讃え、功徳を与えるのです。修行とは結局、布施にたどり着くという意味がおわかりでしょうか。

一食布施はささやかなものですが、これも〝ちりも積もれば〟で、皆様の功徳が積ることを願ってやみません。真言密教の行法は仏さまに直接アプローチしますから、功徳は絶大です。ただ、それは真言行者が六度の供養をどのように理解し、これを実践しているか否かにかかっています。つまり、布施の喜びを知ることが修行の極意なのです。皆様もまた、「人生の極意は布施の喜びにある」とお思いになられませ。

人が本来は仏さまである証明

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令和5年3月7日

 

人は誰でも、本来は仏さまなのです。なぜなら、誰に教えられたわけでもないのに、仏さまの真言(マントラ)を唱えながら生れて来るからです。その事実を証明しましょう。

日本人は赤ちゃんの産声うぶごえを「オギャー」と表現しますが、このことに私は以前から疑問がありました。なぜなら、赤ちゃんは口を大きく開けて泣くからです(写真提供はユニ・チャーム)。口を大きく開ければ、〈ア〉の発声はできますが〈オ〉の発声は絶対にはできません。つまり「オギャー」ではなく、実は「アギャー」と泣きながら生まれて来るのではないか、と私は主張しています。ただ、赤ちゃんは大人のようには、ハッキリとした発声ができません。だから、〈ア〉なのか〈オ〉なのか曖昧なのです。でも、よく聞けば、やはり〈ア〉のはずです。ネットで産声を聞いてみてください。私がお話していることが、事実だと納得できるはずです。

 

では、「ア(阿)」とは何でしょう。実は、これは大日如来の真言なのです。真言密教の根本であり、最も大切な仏さまなのです(写真はその梵字)。赤ちゃんはこれを、誰に教えられたわけでもないのに、唱えながら生れて来るではありませんか。だから、人は生まれながらに仏さまなのです。

また、「アギャー」の〈ギャー〉は何でしょう。皆様がご存知の『般若心経』の真言「ギャーテイ、ギャーテイ」は〈到達した〉と解釈します。だから、「アギャー」は「仏の国から、いま生まれて来たぞ!」と大声で宣言しているのではないか、と私は大胆に推察しています。皆様はこの推察を、何とお思いでしょうか。

人はこうして仏さまとして生まれながら、しだいに煩悩のあかが増え、四苦八苦の人生を歩みます。だから、垢おとしをする必要があります。信仰に精進するのも、修行に励むのも、先祖供養をするのも、すべてはこの意味です。お寺で庭をき清める時は、「ちりはらい、あかのぞかん!」という気持でほうきを持つのは、この意味なのです。

パワースポットにも用心を

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令和5年3月5日

 

あさか大師では昨日と今日、お彼岸前の総回向を修しました。お護摩と同様に、僧侶はもちろん、ご信徒の参詣者も全員が世代を超えて読経しました(写真)

お寺に行っても、格別にパワーを感じない場合があります。それから、昔はすごいパワーがあったのに、今は残念だなと思う場合もあります。そして、入っただけで気分が良くなり、体が軽くなる場合もあります。この違いは何なのでしょうか。

ご祈願であれ、ご回向であれ、成就をするためには三つのパワーが必要とされています。すなわち、ご本尊さまとお導師とご信徒の三つパワーが融合しなければ、ご祈願もご回向も成就しないという意味です。そのためには、普段から三つのパワーを融合させねばなりません。お導師だけが頑張っていても片手落ちです。ご信徒が自力で頑張っても、その祈りには限りがあります。特に真言密教のお導師は、ご本尊さまに感応する行法がありますから、ご信徒はお導師と共に、いっしょに祈ることが大切なのです。また、毎日続けることも大切です。年に一度の大祭や記念行事だけでは、本当のパワーは生まれません。

したがって、この三つのパワーが融合しているお寺に行くと、気分が良くなり、体が軽くなり、不思議なパワーがみなぎって来るのです。あさか大師にもいろいろな方がいらっしゃいます。僧侶の方が葬儀をしたり、火葬場に出向いた場合、体が重くなったり、体調をくずす方もいますが、本堂に一歩入るや、体が軽くなり、体調を取り戻しています。ご信徒の方も同じです。ご信徒の場合、よほど具合が悪い場合は、直接にお加持や整体をすると、たいていは解決します。

それはどうしてかといいますと、毎日ご信徒と共に、この三つのパワーを融合させているからです。まさに単純明快、これ以外には何もありません。よくパワースポットといいますが、常にパワーを融合させる管理者(つまりお導師)がいなくてはかえって危険です。用心せねばなりません。このことは念頭に入れておいてください。

霊感は誰にでもあります

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令和5年2月28日

 

私はいわゆる霊能者ではありません。また、自分は霊能者だと称する人を、あまり信用する気にはなれません。しかし、霊的な体験はいくらでもあります。また、〈ひらめき〉や〈霊感〉という言葉なら、少しは馴染なじめる気がします。そして、「霊感は誰にでもあります」というのが私の持論です。

それはどういう意味なのかといいますと、私たちの身辺にあるもの、身辺におこっていることは、すべてこれ仏さまのお知らせ、仏さまの説法だとするのがお大師さまの教えだからです。だから、これに気づかねばなりません。気づくためには身辺にアンテナを張り、何を意味するのかを考え、反省をすることです。そして、その答えに行きついたなら、誰でもみな霊感を得るのです。

たとえば、一生懸命に祈っているのに何の変化もないという場合、よくよく考える必要があります。相手が傷つくような祈りをしていないか、不相応な祈りをしていないか、時期尚早しょうそうの祈りをしていないか、成就することが本当によいことなのかを考えることです。このような時、仏さまはあえてヒントだけをくださることがあります。自分の健康を害したり、対人関係でつまづいたり、もう一歩のところで行き詰まったりしてヒントをくださいます。それは、祈る自分や祈る内容のどこかに問題があるからです。だから、祈る人は謙虚に反省をすることが大切です。そして、謙虚に反省して、どんなお知らせなのかに気づいた時、人はひらめき、霊感を得るのです。

私はこのあさか大師を建立するにあたっては、いろいろな土地を探し歩きました。はじめは本県入間郡三芳町に手頃な土地があり、そこにしようと決めていたのです。私はどうしてもその土地を購入したいと思い、深夜に何度も出向いては、「この土地を私にお譲りください」と祈願をしていました。ところが、地主さんとの交渉は結局、合意しませんでした。私は一時、自分の祈りに自信を失いかけたほどでした。どうしてなのか迷いました。そして、そのことをお大師さまに問いました。すると、しだいに理由がわかって来たのです。これは叶ってはいけないことなのだ、あの土地に問題があるのだとわかったからです。事実、そのとおりでした。まさに霊感です。

すると、どうでしょう。あさか大師のこの土地が突然に浮上し、地主さんとも二つ返事で決まってしまいました。私に本当に必要な土地が現われるまで待ちなさいというお大師さまの意図が、霊感を通じてわかりました。祈りは必ず通じます。しかし、その結果はまちまちです。何の変化もないと思えることもあります。それをどう受け取るか、どんなお知らせなのか、霊感をもって探ることです。

キリスト教では、それぞれの祈りをするにあたって、どのように祈るのか、その具体的な文章を記載した教本があります(写真は光明社刊)。

私はご祈祷を本領とする真言密教にも、このような教本が必要ではないかと思っています。病気を祈るにも、天命をまっとうしたいのか、平癒の後は何をして報いたいのか、最良の医師や病院を探しているのか、そのへんが曖昧あいまいです。そのためにも、こうした祈りの教本が必要です。「皆様がそれぞれの祈りの中で、ひらめきと霊感に恵まれますように。ソワカ」

失物をする理由を知っていますか

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令和5年2月24日

 

前回、私は「この世で所有するものは何もない」と言い、天与のあずかりものだと言い、どれだけ預かれるかは徳のいかんだとお話をしました。今回はちょっと、その続きのお話です。

皆様は大切なものをくして、困った経験がありませんか。落とし物や忘れ物をして交番や駅長室を訪ねた経験はありませんか。また、盗難にあって途方とほうに暮れた経験はありませんか。こうして、自分の所有から離れたものを、総じて〈失物うせもの〉と呼びます。

失物をする原因は、注意が散漫であるとか、そそっかしいとかの性格が大きいかも知れません。また、偶然という範疇はんちゅうで考えられるかも知れません。しかし、この理由が「荒神こうじんさまからおしかりを受けたからです」といったら、皆様は驚くでしょうか。しかし、これは間違いのない事実です。不敬によって、徳を失ったからです。

荒神さまは正確には〈三宝荒神さんぼうこうじん〉といい、昔は〈かまどの神さま〉として信仰されました。つまり、火を使って生活をする以上、そこには必ず荒神さまがおり、家の中を守ってくださるとされて来ました。現代の生活では、ガス台やIHがこれに該当します。したがって、荒神さまのお札があろうがなかろうが、信じようが信じまいが、火を必要とする家には必ずいらっしゃることになります(写真)。

昔は神棚や仏壇の前はもちろん、竈の前で腹を立てたり、悪口を言ってはいけないとしつけられました。荒神さまへの不敬になるからです。そして、真言密教においては、それが失物の原因だという伝承があるのです。まさかと思うでしょうが、私は失物を見つけ出す方法として、どれほどこれを実証して来たかは数知れません。もちろん、私自身も何度も実証しました。これを「失物発見法」として弟子僧はもちろん、ご信徒の方にもお伝えして来ました。今でも、多くの方々に感謝をされています。

方法は簡単です。ガス台かIHのスイッチを入れ、お線香を一本立てます。そして、「あやまちを犯しましたなら、どうぞお許しください」と念じ、般若心経と荒神さまの真言(オン ケンバヤケンバヤ ソワカ)を唱えればよいのです。家の中で紛失したものはスグに出ます。外の場合は少し時間はかかりますが、そのまま見つかる場合、財布のお金だけが抜き取られて見つかる場合、形跡が見つかる場合など、何らかの結果は必ず現れます。

皆様もガス台やIHのスイッチのそばではもちろん、家の中で腹を立てたり、悪口を言ってはならないと自戒しましょう。そして、もし失物をしたならば、心から荒神さまにおびをしましょう。現代生活に「何が竈の神さまか」などとあなどってはなりません。どんな時代であっても、神も仏も荒神さまも、間違いなくいらっしゃるからです。

なお、あさか大師では荒神さまのご加護がある火伏札ひぶせふだ(火難よけ札・千円)を元旦からお授けして、台所にっていただいています。(写真)。

目にするたびに荒神さまを意識しますし、不敬を慎む習慣が身につきます。この火伏札にも不思議な霊験は数知れません。ご希望の方はホームページ「お問合わせ」からお申し込みください。不思議ですよ、本当に。

この世で所有するものは何もありません

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令和5年2月22日

 

私達はこの世で所有するものは何もありません。この体も、お金も財産も、土地も家も、名誉も地位も、すべては天与のあずかりもの、いうなれば借りものです。このお話を、皆様は何と思うでしょうか。

私たちはこの体を、親から授かりました。現代人は驚くほど長命です。健康法にも熱心です。しかし、どんな人もいずれは病み、死を迎えます。つまり、お返しせねばなりません。そして、魂は本来のくらいに戻ります。戒名の後に、〈位〉とあるのがこの意味です。肉体はありませんが、別の体をまた授かります。

お金も財産も同じです。人は働き、世の中に何かを与え、それが認められた分の報酬を得ます。しかし、不正を働けばやがて失い、相続者に徳がなければ消えていきます。真言密教ではこれを、〈虚空蔵こくうぞう〉という宇宙の蔵、宇宙銀行にお返したためと教えています。

長いローンを組んで手に入れた土地も家も同じです。二代・三代と過ぎれば、まったく別の人が住みます。名誉も地位も、永遠のものではありません。二代目はどうにか維持しますが、三代目がどうなるかはわかりません。これらはすべて、徳のいかんで決まるからです。徳が尽きれば、虚空蔵にお返しせねばなりません。初代は世の中に尽くし、徳を積みますが、二代目・三代目も同じように積めるかどうかです。二代目・三代目でさらに発展する家は、かならず、それだけの徳を積んでいます。

ところで、お寺が永く続くのは、どうしてでしょうか。それは僧侶たる者はこのことを理解し、徳を積んでいるからです。すべては預かりもの、借りものであることを理解し、挨拶を忘れず、恩にむくいるからです。つまり、人が亡くなれば仏さまを念じて、本来の位に送っています。建物を建てるなら、土地の地鎮祭(仏式)をして、借り受けの挨拶をしています。おわかりでしょうか。

私はこの19日と21日の二度、真言密教の〈地鎮鎮壇法じちんちんだんほう〉という行法の伝授をしました。これは、この世の預かりものである土地の神さまに対し、一般の家なら地鎮祭を、お堂を建てるなら鎮壇法ちんだんほう(写真はその荘厳しょうごん)を修するためです。

最近は家を建てるにも、地鎮祭をする方が少なくなりました。それは、土地も家も借りものであることがわかっていないからです。お借りする以上は、挨拶をするのが当りまえです。挨拶をしなければ人間どおしでもトラブルをおこします。土地の神さまに感謝をしなければ、それだけでも徳が消えます。住んでから体調不良や厄難災難が起きるのは、このせいだと理解しましょう。

土地や家の値段に比べれば、その費用など微々たるものです。このブログを読んだ皆様が家を建てる時は、必ず地鎮祭を依頼していただきますようお願いいたします。なお、地鎮祭をせずに建てた家(建売住宅)の問題に対しては、〈鎮宅法ちんたくほう〉があることもお伝えしておきましょう。

山路天酬密教私塾

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