続・二十七宿と二十八宿のどちらが正しいか
令和6年12月23日
あさか大師では二十七宿を用いていますが、この場合は〈牛宿〉がありません(写真)。その理由はインドの識者が月の運行を観察し、一ケ月を27、3日と判断したからでした。その日々の配置を二十七宿としたのです。
吉祥の宿はいくつかありますが、特に仏教では〈鬼宿〉が尊ばれました。お釈迦様の誕生日であったという一説もあります。ご祈祷や祝事にはよく用いられました。
また、真言密教の行法始め(開白)にも重んじられています。この場合の〈鬼〉はもちろん、悪鬼ではありません。神通力のある鬼神とでも覚えてください。
二十七宿と二十八宿、どちらが正しいか
令和6年12月21日
真言密教では日の吉凶を決める場合、二十七宿、または二十八宿を用います。したがって、一般に用いられる大安・仏滅を重んじることはありません。ところが、暦によって二十七宿と二十八宿の違いがあります。どちらを用いるのか、皆様も迷うことがあるのではないでしょうか。
この答えはお大師さまがどちらを請来し、どちらを用いられたかで決定されるべきでありましょう。そこで私が調べましたところ、最古の資料は高野山霊宝館が所蔵する『宿曜経』でありました。また、同志社大学が所蔵する『宿曜経』(写真)も、やや時代は下がりますが、お大師さま請来の写本を伝えるものでありました
これらの古書によりますと、いずれも二十七宿でありまして、お大師さまが用いられていた「古法」と呼ばれる真説であります。したがって、あさか大師では二十七宿の暦を皆様に配布しています。皆様からご相談をいただいた場合も、この二十七宿で判断しています。また、新春護摩のご祈願をなさった方には、二十七宿の暦をお渡ししています。
書店で売られる暦は二十八宿が多いようですが、この点をご注意いただき、日の吉凶をご判断いただきたいと思います。
仏様は何がお好きなのか
令和6年10月31日
では仏様はいったい、何がお好きなのでしょうか。仏様は神様とは違い、一切の執着がありません。したがって、何が欲しい、何をお供えしてほしいという次元ではないのです。
しかし、あえてお話をするなら、私たちが善いことをして、悪いことをしない生き方をすることをお喜びになるのだと言えましょう。つまり、功徳がお好きなのだと私は思っています。
その功徳を積む修行を六度といい、布施・持戒・忍辱(忍耐)・精進・禅定・智慧の六つの徳目で表します。そして、真言密教では布施には閼伽(水)を、持戒には塗香(身に塗るお香)を、忍辱には華鬘(花)を、精進には焼香を、禅定には飯食(ご飯)を、智慧には灯明をお供えして六度の修行をお誓いするのです(写真)。
その意味は、水はすべてに恵みを与えるので布施を、塗香を身に塗ると気持ちが引き締まるので持戒を、花は酷寒に耐えて咲くので忍辱を、焼香は最後までともるので精進を、ご飯をいただくと心身が落ち着くので禅定を、灯明が暗闇を照らすので智慧を、それぞれに表しています。
緑色のお供えはシキビです。日本には香木がありませんが、シキビの葉がお香のかおりを放つので、仏花としてこれを用います。これが「仏様は何がお好きなのか」のお答えです。
神様は何がお好きなのか
令和6年10月29日
お不動様や観音様のご宝前、また先祖の仏壇やお墓に、よくお酒が供えられています。しかし、これは神前にお酒を供える伝統が習合したのであって、本来の様式ではありません。特にお不動様はいかにもお酒が強そう(笑)なので、このような風習になったのでしょう。
しかし、神様にはお酒をお供えします。あさか大師では鎮宅霊符尊と八大龍王様にはお酒を含めて、八種類のお供えをしています。これを「八種供物」といい、お酒・聖水・お茶・餅(田菓子)・カヤの実(木菓子)・歓喜団(あんと漢方薬の菓子)・五穀(米)・塩をお供えしています(写真)。
これらはみな神様がお好きなものばかりですが、どんなお酒を供えるか、お茶はどのように供えるか、白米か五穀米かなどに口伝があります。若い時に伝授を受け、神具をそろえていた頃がなつかしく思い出されます。
鶴太郎さんの不動明王
令和6年10月16日
今年5月に私が鎮壇法を修した大行院(茨城県古河市)の新寺建立が進み、本日はその進行を視察しました。本堂には片岡鶴太郎さんの天井画が施され、みごとな不動明王が印象的でした(写真上)。
また鶴太郎さんも自ら来院され、作品の設置に満足したようでした(写真下)。
大行院は不動明王を本尊としてお護摩を修します。護摩壇は天上の高さや換気扇の設置が大切なので、そのために視察したのです。来春には竣工しますので、お近くの方はぜひご参拝ください。
仁和寺での講義
令和6年9月29日
昨日、京都の総本山仁和寺御室会館にて、真言宗僧侶の方々の前で講義をしました。長いコロナ禍が続く中、奈良や京都での出仕が中止となりましたが、久しぶりに熱弁をふるいました(写真)。
密教の僧侶は仏様や諸天様を拝む場合、その次第書が必要になります。次第書には厳格な規則がありますが、自分用のものを作る必要があります。そこで「私次第編成の仕方」と題してお話をしたわけです。
地元の僧侶はもちろんでありますが、遠方からお集りの方々もたくさんおられ、熱心に聴講していただきました。これが縁で、ご自坊でのお勤めに、さらなる拍車がかかることを願ってやみません。ご参集の皆様、ありがとうございました。
八種類の供物
令和6年9月4日
仏さま(如来・菩薩・明王)へのお供えには密教修法での荘厳(壇上のおかざり)を除いて、特別な決まりはありません。たとえば「お不動さまはいかにもお酒が好きそうだ」といってお供えをしますが、決してお不動さまがお酒を望んでいるわけではないのです。
仏さまは悟りの境地に達していますので、「あれがほしい、これがほしい」と執着をいだくことはありません。もちろん、祟りをなすこともありません。よく「観音さまが怒ってるよ」などという方がいますが、それは観音さまを名のった方が都合がよいからなのです。大慈大悲の観音さまが祟ることは絶対にありません。このことは心得ておきましょう。
しかし、神さま(天・権現・明神など)はそうはいきません。特に聖天さまや荒神さま、星祭りの神さまなどには、厳密な決まりがあります。また、それに違反したり、御礼参りを怠ると祟りをなすこともあります。神さまにはまだ、執着があるからです。ただ、神通力で仏教を守護し、仏さまによくお仕えくださるので、そこがありがたいのです。
あさか大師には神さまとして鎮宅霊符尊と八大龍王さまがお祀りされていますので、いつも八種類のお供えをしています。すなわち、お酒・水・お茶・洗米(五穀)・塩・もち・菓子・木の実です(写真)。
「触らぬ神に祟りなし」といいますが、よくいい得ています。簡単な気持ちで神さまに願がけをしたり、失礼をしてはなりません。それができないなら、はじめから触らぬ(!)ことです。
続・荒神様はやはりスゴイ!
令和6年8月30日
荒神様は火傷にも、スゴイようです。
昨日、某女より連絡があり、料理中に指に火傷を負ったとのことでした。水で冷やし、薬をぬりましたが、ズキズキと痛みが止まりません。つらかったと思いますが、実は料理中にひとりごとで愚痴を言っていたのでした。さっそく「荒神様、失礼いたしました。私の不心得から火傷を負いました。この痛みを少しでもやわらげてください」とお詫びを入れ、ご真言「オンケンバヤケンバヤソワカ」をお唱えました。その台所にはもちろん、あさか大師の荒神様のお札が貼ってありました(写真)。
するとどうでしょう。あれほどの痛みがたちまちに止んでいきました。普通ではあり得ません。水ぶくれも引いたというのです。そして、あまりのうれしさに、私に電話をくださったのでした。
やはり、荒神様はスゴイ(!)です。信じる信じないの問題ではありません。私たちは仏様にも神様にも囲まれたマンダラの中で生きているのです。そして、お大師様もまた、凄いお方です。
荒神様はやはりスゴイ!
令和6年8月28日
25日(日)の午後、北海道の未知の方より、「財布をなくしました。お助けください」とメールが入りました。その財布には現金20万円のほか、運転免許証、マイナンバーカード、クレジットカード、キャッシュカードといった、生活必需品が入っていたそうです。
失物は本人の不注意もありますが、家内での立腹・悪口・口論といった荒神様への不敬が原因です。荒神様は〝不浄〟を極端に嫌うからです。だから、荒神様に心からお詫びをして祈れば、その失物がもどって来ることが多いのです。
私はさっそく、その方法をメールでお伝えしました。まずガス台に火をつけ、できればお線香を立てます。そして、「荒神様、失礼をお詫びいたします。大切な財布をなくしました。どうかお助けください」と念じ、ご真言「オンケンバヤケンバヤソワカ」をお唱えするのです(写真)。
翌日の朝、その方は私がお伝えしたとおりに実行しました。すると間もなく、行きつけの飲食店から、「トイレに財布がありましたよ」と電話が入り、一件落着しました。トイレに入り、ポケットから出して忘れて来たようです。
荒神様はやはりスゴイ(!)です。信じる信じないにかかわらず、必ずいらっしゃいます。そして、あらゆる仏様や神様を融合する真言密教を伝えられたお大師様もまた、凄いお方です。
功徳を求めない功徳
令和6年8月15日
二十代の頃、師僧より「真言宗の僧侶は施餓鬼をしなさい」と厳命されました。もちろん、若い私にはその意味するところを深く理解したわけではありません。しかし、師僧の言葉を真摯に受けとめ、できるだけ施餓鬼を修するようになりました。
今は夕食のご飯に汁物を加えて準備し、深夜に境内で施餓鬼の真言をお唱えしています(写真)。
施餓鬼がなぜ功徳があるのかといいますと、ただ施すことに徹するからでありましょう。餓鬼界の亡者に「病気が治りますように」とか、「お金が入りますように」とは祈りません。その無欲さが、かえって大きな功徳を生むからです。つまり、功徳を求めないことで絶大な功徳を生み出すからです。
施餓鬼を修するお坊さんは長命だといわれます。胃腸を患わないともいわれます。お寺の経営もどうにかなるともいわれます。これは施餓鬼を受けた亡者が、食をいただいた御礼をするからです。
お盆も明けますが、私は時節を問わずに、施餓鬼を修すべきだと思っています。功徳を求めずとも、絶大な功徳を生む施餓鬼はすばらしいものです。餓鬼界は熱中症以上の業苦につつまれます。充分な水分を、忘れずに加えましょう。