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乱読のすすめ

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令和2年4月15日

 

以前、「どくの効用」についてお話をしました。そこで、もうひとつ、乱読らんどくはどうでしょうか。

私は本が好きですし、読書をしないという日はありません。だからといって、読書を絶対的に妄信もうしんしているわけではありません。読書はあくまで、生きていくための、また考えるための一つの手段なのです。いわば、人生の栄養素のようなものです。もちろん、その栄養素を生かすためには、謙虚に自分を見つめ、社会を見つめ、思考を重ねる必要があります。一生の栄養素が一日では摂取できないように、読書もまた長い継続から効用が顕現けんげんされるのです。

人生とは煩雑はんざつなものです。やっかいな人とつき合い、むずかしい仕事に立ち向かい、めんどうな用事を処理せねばなりません。だから、人生が煩雑なら読書もまた煩雑であるべきで、つまり乱読が必要だというのが私の持論(というほどでもありませんが)です。つまり『論語』も読めば、週刊誌やマンガも読みましょうということになります。

私の書棚の片隅に、殿堂入り本のコーナーがあります。要するに何度読んでもきない本、もしくはそれに類する本のことで、多くは古典の文庫本です。だからといって、古典の至上主義を崇拝すうはいするつもりは毛頭ありません。古典はたしかにすばらしいものですが、それに固執こしゅうすると、融通のきかない石頭いしあたまになってしまいます。音楽ならクラシック以外には価値を認めず、絵画なら中世の宗教画以外には興味を示さない人のようなものです。そういう人はどこかおもしろみに欠け、思い上がった権化ごんげのように見えるものです。読書はあくまで自己流であるべきで、楽しくなければ意味がありません。そのためには乱読が一番だと、私は考えています。

ただ、読書が楽しくなるためには、ある程度の基礎訓練や基礎知識が必要です。そのためには教科書的な普遍本ふへんぼんから入るのもよいでしょう。それによって受験生時代には理解できなかった古典のすばらしさがわかれば、大きな収穫です。そして時には頭を休め、軽い本も乱読すれば、自分の興味はおのずからしぼられて来るはずです。

ついでながら、乱読とはいっても、私は宗祖(お大師さま)の著作は職務としても読まねばなりません。その職務もまた、乱読への楽しみとなることをお伝えしておきましょう。

考える時間

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令和2年4月8日

 

緊急事態宣言が発せられるや、私はほとんど人との接触がなくなりました。もちろん電話はかかって来ますし、手紙やメールなどはいつもどおり処理しています。しかし、これほど考える時間に恵まれることなど、めったにあるものではありません。これは思ってもみないチャンスだと考えています。

私と同じように、自宅にこもって仕事をなさっている方も多いことでしょう。パソコンに向かいながら、会社のこと、同僚のこと、取引先のことなど、時おり脳裏をよぎるに違いありません。でも、今こそはかけがいのない〝自分の時間〟があるのです。ぜひ、必要な情報以外はなるべく遮断しゃだんし、考える時間を作ってほしいと思うのです。

私がどうしても馴染なじめないことの中に、てもいないのにテレビをつける習慣があります。何の音もしない家が、そんなにさびしいのでしょうか。まれに法事やおはらいなどで、人の家をお訪ねすることがありますが、たいていはテレビが放映されています。かといって、その放映を熱心に視ているわけでもないのです。私は即座に消していただくようお願いしますが、この習慣がわかりません。私がテレビを敬遠けいえんする理由は、こんな経験からなのでしょう。

戦後の日本において、テレビの普及ふきゅうこそは最大の功罪こうざいです。番組の楽しみがあり、情報の収集も便利になりましたが、家庭の中から会話をうばいました。そして、考える時間を奪いました。食事をしていても、家族の眼と耳はテレビに向かっています。母親が作った料理の手間など、話題にも出しません。ただはしを運びながら、その眼もその耳もテレビに夢中です。

テレビのない時代、人は考える時間を持ちました。そして、何の音もしないところで、独りになって考えました。この緊急事態の時こそ、そのチャンスなのです。人との接触も少なく、また人への気遣いも少ないなら、考える時間を作ってほしいと私は思います。この上なく有意義な時間となることに間違いはありません。

勝つと思うな、負けまいと思え

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令和2年3月26日

 

昭和39年のこと、美空ひばりさんが唄った『やわら』という曲が大ヒットしました。発売からわずか半年で、シングル180万枚以上という記録的な売り上げだったそうです。ひばりさんはこの年の「第15回NHK紅白歌合戦」、そして翌年の「第16回NHK紅白歌合戦」では二度ともこの曲でトリをつとめ、しかも「第7回日本レコード大賞」にも輝きました。昭和39年はいわゆる「第18回東京オリンピック」が開催され、柔道が初めて正式種目に選ばれたという背景もありましたが、日本中に〝柔ブーム〟を巻き起こしたことも事実でした。

「勝つと思うな、思えば負けよ」という歌詞の冒頭を覚えていらっしゃる方も多いことでしょう。しかし、この冒頭が吉田兼好よしだけんこうの『徒然草つれづれぐさ』(鎌倉時代の随筆)に由来することをご存知の方は少ないはずです。その第百十段に、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり」という名言があります。これは双六すごろくの名人に勝つ手立てを聞いたところ、「勝とうと思って打ってはいけない。負けまいと思って打つべきである」と答えたという逸話いつわを語ったものです。。

勝負ごとというものは、常に勝ち続けられるものではありません。また、勝ち過ぎた人は、必ずある時になると大負けしたり、負け続けるものです。途中まで優勢であっても、逆転負けということもあります。それに勝つことばかり意識する人は、負けると途端とたんに気力がおとろえてしまうものです。だから、負けまいという意識を持ち続けることが大切だと、この双六の名人は語っています。

かつて、西武ライオンズの森袛晶もりまさあき監督は九年間の就任中、八度のリーグ優勝と六度の日本一に導きました。監督は日本シリーズについて、「全勝するのではなく、三敗しても優勝はできると思って戦った」と語っています。つまり、負けない野球で最後に勝つことを意識していたのです。

勝つことにこだわることも大切ですが、最後に勝つことはさらに大切です。人生には負けることもあるのです。その時の気持の切り替えが大切なのであって、ここに極意があるのです。皆様、「勝つと思うな。負けまいと思え」と呪文のように唱えてみてください。逆転勝利への呪文ですよ。

積ん読の効用

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令和2年2月22日

 

読書にもいろいろなパターンがあります。〈黙読〉や〈音読〉はもちろん、何度もくり返し読む〈複読〉、よく味わって読む〈味読みどく〉、心から感銘して読む〈心読しんどく〉などがあります。

昔の寺子屋では、子供たちがとにかく声を出して音読(素読そどく)をくり返しました。声に出すことで、脳を刺激し、記憶しやすいからです。大人になって辞書もパソコンもなく文章を書き得たのは、記憶した語彙ごいが豊富であったからです。声に出して読むということは、記憶力を大きく高めることに間違いはありません。

こうして考えると、僧侶が長い経典を毎日くり返し読誦どくじゅし、いつの間にか暗誦あんじゅしてしまうのも当然のことです。しかも深い腹式呼吸によって大きな声を出しつつ、仏に融合ゆうごうする感情移入が加わりますから、健康のためにも最適です。「声出し健康法」を代表するものでしょう。もちろん謡曲ようきょく詩吟しぎん、声楽や朗読もこれに類するものです。

さて、まじめなお話をした後で恐縮なのですが、私はいわゆる〈どく〉にもすばらしい効用があると思っています。買ってきた本を読みもしないで積んで置くばかりの様子を指して、皮肉に〈積ん読〉と呼びますが、実はなかなかのものです。

〈積ん読〉はほとんど本を横に積み上げ、タイトルも読みにくい状態のはずです。しかし、書棚しょだなながめながら「これは何の本であったか」と思って首を傾けた瞬間、そこで不思議なインスピレーションがくことを見のがしてはなりません。そこから忘れていた記憶や情報を思い出し、新しいアイデアが生まれるからです。

だから皆様、〈積ん読〉を決して恥じることはありません。私がこうして長く『法話ブログ』を続けられるのも、意外に〈積ん読〉の効用なのかも知れません。いや、きっとそうですよ。

思考と小食

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令和2年1月26日

 

トーマス・エジソンが蓄音機を発明した時、彼は9昼夜222時間、不眠不休で実験をくり返しました。その間は水分以外、一切の食事もとらずに集中したとされています。9昼夜といえば、比叡山回峰行者ひえいざんかいほうぎょうじゃ十万枚護摩じゅうまんまいごま(7日間断食だんじき荒行あらぎょう)をも超える超人的な偉業です。

彼は、「頭脳は誰でも同じなのさ。考えて考えぬけば誰にでもできる」とも言い切っています。また、「どうしてそんなに考えられるのですか?」という問いには、「人は何時間も寝るでしょう。腹いっぱい食べるから寝るのです。寝なければ考えられるのです」と答えています。つまり、単に睡眠時間を少なくするのではなく、考えるためには小食が大切だと主張しています。事実、彼は日頃から小食で、黒パン・野菜・果物と、時どき魚を食べる程度であったと伝えられています。

私はこの逸話いつわが忘れられず、考える仕事をするためには大食は禁物だと自戒するようになりました。睡眠はもちろん大切ですが、問題は時間より質でしょう。食べ過ぎると胃腸に負担をかけるうえ、胃腸に血液を送るための心臓にも、消化酵素を供給するための肺にも、老廃物を解毒げどく排泄はいせつするための肝臓や腎臓など、あらゆる臓器に負担がかかります。そして、その負担を回復するためには、より長時間の睡眠が必要になります。だから、小食にすれば、短い睡眠でかえって健康を保つことができるのです。

皆様は、たくさん食べずにどうやって体力を維持するのかと思うでしょうが、それは固定観念なのです。昔の日本人の食事を考えてみてください。一汁一菜か二菜で、現代人にはとても及ばぬほどの体力を維持してよく働きました。現代人はやはり食べ過ぎなのです。あらゆる所にあらゆる食べものが、時間を問わず間食も夜食も、国を問わず世界中の料理まで用意されています。そして、食べ過ぎから健康を害しているのです。特に頭脳思考の多い仕事の方は、ぜひ小食を心がけて欲しいものです。

わかりやすく伝える

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令和元年11月22日

 

たしか、福沢諭吉(?)でしたか、こんなことを言っていた記憶があります。

「文章を書くなら、たとえば昨日、田舎からやって来たお手伝いさんにでも、スグに理解するように書きなさい」と。

どこで読んだお話だったかは忘れましたが、いま、何となく思い出しました。しかし、「田舎からやって来たお手伝いさんにでも」とは、おだやかではありません。大変にむずかしいことです。

また、これもどかこかで聞いたことですが、「文章は大道芸人に混じって伝えるほど、わかりやすく書くべきだ」というのです。私もこのブログを書いていて、平易さを心がけてはいますが、ここまで言い切る自信はありません。

そもそも、むずしいことを〝むずかしく〟伝えることは簡単かんたんかも知れません(いや、それも難しいのですが)。しかし、難しいことを、やさしく伝えることは容易ではありません。特に、仏教の教えをわかりやすく伝えることは、よほどの力量がいるはずです。

私がお世話になった岩坪真弘いわつぼしんこう先生(淡路島・八浄寺はちじょうじ元住職)は、「山路さん、あなた自分が作った布教の言葉をしおりにしたとして、たとえば喫茶店のとなりにいる若い女子高生にも渡せますか」とおっしゃいました。つまり、見ず知らずの若い女子高生に対しても、理解してもらえるほど、やさしい言葉で布教しているかということなのです。

私はかなりショックを受けましたが、忘れ得ぬ経験でした。岩坪先生は伝道布教において偉業いぎょうをなし、また淡路島の発展にも大きな足跡そくせきを残されました。今は亡き岩坪先生に出会ったことを、心から感謝しています。

深遠なお話をわかりやすく伝える力量は、社会のリーダーには特に問われることです。政治家にも、経営者にも、学者にも、そして僧侶にも問われることです。平凡なお話の中にこそ、真理がひそんでいるということです。

こだわって、こだわらず

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令和元年9月9日

 

文章を書くということは、実に困難なことです。

話すことは出来ても、書くとなると、これは別の次元なのでしょうか。かつて、「話のうまいヤツほど、書けないものだ」などと豪語していた友人がいましたが、まんざらウソでもなさそうです。考えていることを文章に表すとなると、相応のコツがありそうです。

アメリカの作家ヘンリー・ミラーは、「あなたが今、何を考えているか、その考えていることから書き始めなさい」と言いました。つまり、私たちはどう書こうとか、うまく書こうとかいう、そこに〝こだわり〟があるのです。こだわりは、いうなれば一種の迷いです。その迷いがあるかぎり、思うようには書けないという意味を指摘しているのでしょう。

それから、「何でもいいから思いつくままを書き連ねて、それを半分か三分の一にけずれば立派な文章になる」という指導を受けたことがありました。似たようなことを、ショーン・コネリー主演の映画『小説家を見つけたら』で語っていたような気がします。タイプライターを無造作に打ちながら、秀才高校生に文章の書き方を教えていました。とても印象的な場面であったことを、今でも記憶しています。

要するに、文字を連ねて文章にする作業の難しさを、いかに平易にこなすかの秘訣なのです。文章をどう書こうとか、うまく書こうとかいう意識につつまれると、それがインスピレーションを妨げるのでしょう。かといって、こうした意識を持たねば上達は望めません。「こだわって、こだわらず」と、何ごともこれが奥義です。

私は特別な文章修行をしたわけではありませんが、このようなお話はどことなく気になります。こうしてブログを書いていても、思い出すことが多いのです。私がお世話になった宗門誌『六大新報』の故・今井幹雄先生も、「書いて書いて、書き尽くさねば、何もわからない」と、よく語っておられました。先生は石原慎太郎さんの『太陽の季節』と、芥川賞を競うほどの名文家でした。先生には及びませんが、お会いできたことを今でも感謝しています。

ものを考える時

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令和元年8月26日

 

私はものを考える時、心がけていることが二つあります。

一つはじっと座って考えるのではなく、とにかく歩くことです。あさか大師はクツのまま入れるゆかなので、その本堂の中や境内をグルグルと歩くうちに、いい考えが浮かぶのです。歩くことが思索と大きく関わることは、十八世紀のフランスの思想家・ルソーが語ったことです。私はルソーと誕生月日が同じなので、個人的にひいきにしているのかも知れません。だから、歩くことと考えることの関わりについては、今までにも何度かお話をして来ました。

もう一つは、考えながら書くことです。そして書いては考え、考えてはまた書いています。どちらが先ということより、指先と脳のフィードバック機能がはたらき、書いているうちにいい考えにたどり着くのです。だから、私のノートは人に見せられたものではありません。まず細かい字で書くことはありませんし、いわゆる書きなぐりが多いのです。また、毛筆は得意なのですが、鉛筆やボールペンは苦手なのです。出版社や印刷社の方は、私の原稿や校正文字を見て、かなり困惑しているはずです。

ついでにお話しますが、作家の直筆原稿ほどひどいものはありません。担当の編集者にしか読めないのです。これは、美しく書くなどということは眼中になく、ただ、ひたすら考えながら書いているからです。「美しい手紙の書き方」といったペン習字の書籍を見かけますが、まったく異なる分野です。もっとも、最近はパソコン原稿が多いので、この問題は解決しているのかも知れません。

お話が大変にそれましたが、ものを考える時は、何かを動かしている方がよいのです。密教の僧が修法をしながら、両手で印を結び、口で真言を唱えるのもこの意味です。脳と心が動かざる一点に集中するためには、かえって手や口が動いている方がよいことを、私は毎日のお護摩でも充分に知っています。

ひらめきが起きる時

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令和元年8月7日

 

突然に、いい方法やアイデアや浮かぶ時があります。いわゆるひらめきが起きる時です。

よく言い伝えられるお話としては、散歩の途中、お風呂の中、うたた寝の後などでしょうか。共通していることは、気持ちがリラックスしてということです。では、リラックスさえしていれば、いつでもひらめきが起きるのかといえば、そうはいきません。ひらめきが起きるには、また別の条件があると思うのです。

だいぶ以前のことですが、ある日の朝刊で、GYXYZ(ジザイズ)という会社の社長・横井恵子さんの記事を読みました。彼女はネーミングという新分野を開拓したユニークな経営者です。つまり、会社やブランド品の名前をつけることを仕事にしています。彼女が手がけた代表作は〈NTTドコモ〉〈au〉〈りそな銀行〉〈あいおい損保〉〈日興コーディアル証券〉などですが、その手腕は驚くばかりです。

「どんな時に名前がひらめきますか?」という記者の問いに対して、彼女は「私にはひらめきなんてありません。考えて考えて、しつこく、またしつこく作り上げていくのが私の流儀です」と答えています。私はこの答えが忘れられず、ひらめきに対するバイブルとさえ思っています。

私たちはひらめきというと、ただ、黙っていても降って湧いて来るようなイメージを持ちがちですが、そうではないのです。考えに考えを重ね、さらに時間をかけてそれを熟成させ、時には忘れ、また考えを重ねて尽き果てた時に、ひらめきが起きるのです。つまり、努力が尽き果てねば、人事を尽くし切らねば、ひらめきなど起きようはずがないのです。

「人事を尽くして」などと簡単に言いますが、本当に人事を尽くし切れば、待たずしても天命はやって来るのです。そのためには、努力に加えて〝運〟も必要です。そして、その運もまた努力が引き寄せるのです。待っているだけでは、ひらめきなど起きようはずがありません。

横井さんのお話に出会えたのは、私の生涯の宝です。今でもその切り抜きを、大切に保管しています。

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