煩悩の泥、菩提の花

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仏教

令和2年8月7日

 

八月も初旬までは、蓮の花の見ごろを楽しむことが出来ましょう。本県の行田市ぎょうだしには「古代蓮の里」があり、朝早くから大勢の観光客でにぎわっています。私も二度ほど訪ねました。そのほか、京都では三室戸寺みむろとでら法金剛院などほうこんごういん、奈良では生連寺しょうれんじや金剛寺など、いささかの思い出があります。

私はかつて、蓮の花を咲かせることに夢中になっていた時期がありました。出来れば今でも続けたいのですが、何しろ毎年春には、蓮鉢はすばちの土を植え替えねばなりません。その、蓮鉢が重いのです。しかも、大量の荒木田あらきだ(粘着力のある土)が必要となります。お寺の住職が夢中になるのはいいのですが、高齢になると大変です。それを覚悟する必要があるのです。

ずいぶん、いろいろな先輩に教えを受けました。初めて蓮の美しさを知らされたのは、黄檗宗おうばくしゅう第六十一世管長の岡田亘令こうれい和尚からでした。まだお若い頃で、伏見のご自坊で奥様の手巻き寿司をご馳走になりながら、得々とくとくとしてその魅力を聞かされました。和尚の蓮はやがて九州の弟子の寺に渡り、それが巡って私のところに送られて来たのです。管長猊下げいかに就任なさるとは思いもよらず、ずいぶん気さくなおつき合いをしたものでした。また和尚からは、他の何びとからも学び得ぬ霊符の伝授まで賜り、私にはよほどのご縁であったのでしょう。深く感謝しつつ、あの世で恩返しをせねばと考えています。

また、蓮づくりの上手な住職や愛好家がいると聞けば、訪ねてはご指導いただきました。栽培法についての本も読み、石灰で消毒をしたり、土の中に加える、ある〝秘伝〟も知りました。学んで道を開けばまた悩み、悩んでは学んでまた開く、人生も蓮の栽培も、同じようなくり返しでなのでしょう。今でもそのように思います。

さて、早朝に蓮の花が最初(一日目)に開く時、その美しさはこの世のものとも思えません。実は私は、お釈迦さまがこの世に出現されたのは、この地上に蓮という花があるからだと信じているのです。なぜなら神さまは清らかな霊地にしか降臨しませんが、仏さまは汚い煩悩ぼんのう(迷い)のどろから、菩提ぼだい(悟り)の花を開かせるからです。春に植え替える時、その泥からは悪臭が漂います。まさに煩悩です。しかし、その煩悩がなければ菩提の花は開きません。ここに仏教の深奥があるのです。煩悩を断つのではなく、その煩悩が、かえって菩提となるころに仏教の根底があるからです。

しかも、蓮は実を残します。仏種を絶やさぬため、つまり仏の修行者を絶やさぬため、蓮はその功徳も積んでいるのです。薬膳やくぜん料理や精進料理に使えます。脾臓ひぞうの妙薬であり、胃腸障害や疲労回復にも薬効があります。その実を残すため、蓮は三日間の開花の後、四日目には静かに散るのです。法要中の〈散華さんげ〉で唱えるがごとく、「香華供養こうげくよう」と。

山路天酬密教私塾

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