山路天酬法話ブログ

今日は何が起こるのか

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九星気学

令和元年7月12日

 

私が愛用するこよみに〈四盤暦しばんれき〉があり、ほぼ毎日使っています。朝のお供えとお勤めが終るとパソコンを立ち上げ、電話のそばで四盤歴を開きます。そして、その日の日盤(九星気学でその日の象意しょういを示す盤)を確認し、その日の予測をしておきます。

たとえば、令和元年7月11日の今日は九紫きゅうしの日です(写真・上段右)。そこで今日は何が起こるのか、どんな人から電話が入り、どんな人が訪ねて来るか、それを予測しておきます。九紫は宗教・法律・学問・芸術といった知的な文化を示し、一方では決別・離婚といった分離作用を示します。人物なら名誉職・会計士・デザイン関係などでしょう。

しばらくして、メールが入りました。これは電話の方が早いのではと思い、さっそくお話をしましたところ、大学進学のご相談でした。大学(学問)は九紫そのもので、今日という象意の一端を示しています。つまり、この日の象意が、この日に何が起こるのか、どんな人から電話が入り、どんな人が訪ねて来るかを示しているのです。

同じように三碧の日は騒がしい日になりやすく、若い人が訪ねて来るでしょう。五黄の日は前途の見えにくい厄介やっかいな問題、またお墓や霊的な問題が持ち込まれます。七赤の日に若い女性から電話があれば恋愛の相談であり、中小企業の社長さんが訪ねてくれば売上向上のご祈願となります。

だいたい六割程度は〝当たり〟ます。そんな程度かとお思いになりますでしょうが、皆様はそんな程度もわかりませんでしょう(失礼!)。

さきほど私は予測と表現しましたが、これを〝推理〟と表現すればイメージが変わります。シャーロック・ホームズやエルキゥール・ポアロのように、わずかのヒントから推理を重ねれば、この程度のことはわかるのです。気学は楽しいものです。ぜひ、学んでみてください。

【すみません、書いている内に日付が変わりました。以上は昨日のものです】

縁結びと縁切り

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祈願

令和元年7月10日

 

毎日、たくさんのご祈願が寄せられます。その中には〈縁結び〉もあれば、〈縁切り〉もあります。

縁結びはもちろん、結婚を希望される方の、いわゆる良縁成就のご祈願をします。毎日の護摩木にもよく寄せられますが、霊符という特殊な祈願法もあります。私は霊符の専門家なので、これを浄書して実績を残してきました。そして、結婚をすれば次は子宝となり、ずいぶん依頼されたものです。

良縁も子宝も、引き寄せのパワーが大切で、これを意識してご祈願をします。ご祈願中はかなり体温が上がり、汗だくになります。強いエネルギーが異界から降臨する感じとでもお話しておきましょう。

縁切りは、昔は一方的に女性の願いごとでした。昔の女性は(時代劇で見るように)自分から離縁ができませんでした。現代でも夫婦に限らず、おつき合いをしている男性と別れたいという願いは、多くの女性がかかえる悩みです。ところが、近ごろは男性からの依頼があるのには驚きました。それだけ女性の勢いが強い時代なのでしょう。

縁切りは引き離しのパワーでご祈願します。昨日も依頼があって、霊符を浄書してこれを修しました。二人の男女が背を向けて離れるイメージで、パワーを送りました。時には、流れる川が二又ふたまたにに別れる状況が浮かんだりします。成就すると確信しています。

こんな悩みがありましたら、いつでもお訪ねください。不思議なことがおこりますよ。

コンプラ瓶

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挿花

令和元年7月9日

 

セリの花をいただきましたら意外に美しいので、さっそく挿してみました(写真)。初めてお目にかかりましたが、野菜にもすてきな花があるものです。この季節ではカボチャやキュウリの花なども、いいものですよ。

今日のお話はもう一つ、花器にした白いびんが何であるか、皆様おわかりになりますでしょうか?

これは江戸時代に長崎の金富羅こんぷら商社が、出島で東インド会社と取り引きをした「コンプラ瓶」というものです。正面に「JAPANSH  SAKI」とあり、「ヤパンセ サキ」と読みます。つまり「日本産の酒」、九州の焼酎を入れて、オランダやポルトガルに輸出したのです。かのシーボルトも、いくつかを本国に持ち帰りました。おそらく、日本人が書いた当初のアルファベットということになりましょう。粗雑な磁器で、焼酎のシミまで残っていますが、なかなかに味があります。

それともう一つ、晩年のトルストイがどうしたことかこの瓶を愛玩あいがんし、一輪挿しに使っていました。たしかに、書斎の片隅にこの瓶が映っている写真を見たような気がします。

文豪もこのやわらかな白い発色を好んでいたのでしょう。そして、歴史的な名作を生み出す、その瞑想を支えたのです。私の手元にあるのも、不思議なご縁です。

一生では足りない

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人生

令和元年7月8日

 

詩人・北原白秋は晩年に「白秋詩抄」を出版するにあたって、こんなこと書いています。

「ひそかにじる故は、わが詩業しぎょう通貫つうかんするひとつの脊梁せきりょうが、わずかにこれだけの高さのものかということである」

偉大な詩人にしてこんなことを語るものかと、若い頃には思いましたが、今ではその気持ちがわかるような気がします。人の一生は尊いものでありますが、その理想が高くれば高いほど、その一生に慙愧ざんきの念を覚えるに違いありません。立派な仕事をなし、また立派な業績を残しながら、私たちの力の及ぶところは、こんなところなのでありましょう。私などにはとてもこのような心境には至りませんが、さて、いよいよの時には同じような気持ちをいだくのかも知れません。

しかし、物ごとの完成はかぎりなく遠く、一生の内に成し得ることではないような気がします。能楽の大成者・世阿弥ぜあみは、真の芸術を完成させるには、親と子と孫との三代はかかるといった意味のことを述べています。そして、「芸術は長く、人生は短し」とも申します。「一生では足りない」というほどの気持ちは、私ほどの者でも少しは思うことがあるのです。

お恥ずかしいかぎりではありますが、私もまた生まれ変われるものなら、再び僧侶となってやり残した仕事を成し遂げたいと思っています。先日、六十七歳となりましたが、残る人生をあと二十年と設定しています。それ以上を生きたとしても、大したことはできません。これは私の正直な本音です。

すみません、何やら遺言のようなブログになりました。明日はもっと楽しいお話を書きますから、ね。

境内整備工事

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あさか大師

令和元年7月7日

 

あさか大師では境内駐車場舗装ほそう工事、および隣接水路歩道工事を進めています。昨日と今日の盂蘭盆法要までには終了の計画でしたが、この長雨で予定どおりにはいきませんでした。それでも最後の舗装工事を残すばかりで、間もなく終了いたします(写真)。

これが終了すれば、寺の施設に対する私の役目も、一応の区切りがつきます。大変な重荷を負いましたが、まずはうれしく思っています。また、来年の桜の花見が楽しみで、今からワクワクしています。この後はご信徒や後進の僧侶のため、また地元への貢献のため、私にできることを成し遂げていきたいと考えています。

最近ではホームページをご覧になった方が、少しずつお越しになっています。特に厄除や交通安全(おはらい)祈願、先祖へのご回向や水子供養を希望される方が多いようです。近在はほとんどがお檀家さんを持つ寺が多いので、私のようにご祈願をする僧侶は少ないのです。それだけに、あさか大師の特徴を発揮できればと、今から張り切っています。

このホームページをご覧になった皆様は、ぜひお越しになっていただきたいと思います。太鼓も法螺貝ほらがいも響き渡りますよ。

盂蘭盆法要

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法要

令和元年7月6日

 

あさか大師では本日と明日、早くも盂蘭盆法要うらぼんほうようとなります。

本日は僧侶の方々も集まり、お施餓鬼せがきを全員で修しました(写真)。お導師(私)の右側に施餓鬼壇せがきだんがあり、おかゆや野菜や水を献じました。ご信徒の皆様も読経や真言がお上手なので、心強いかぎりです。また、遠くから何十年ぶりに越しくださった方もあり、うれしい一日でした。

夏になると、お寺ではお施餓鬼をしますが、もともとは盂蘭盆法要とお施餓鬼に直接の関係はありません。盂蘭盆法要は供物を献じ、読経や布施をして、その功徳をご先祖に回向することが目的です。その供物を献じた器が〝お盆〟なのです。このお話、覚えておいてください。

お施餓鬼は餓鬼界がきかいちてしまった人を救うことが目的で、野外で修するのが本来の作法です。でも、双方とも夏の風物によく合うことは間違いありません。

ちょっと怖いお話ですが、餓鬼界がきかいちた人は、のどかわいてはりついているため、飲むことも食べることもできません。そこで喉を開き、飲めるように食べるようになし、さらに甘味や水分を加えるのがお施餓鬼の作法です。だから、お施餓鬼を熱心に修した僧侶は、喉や胃を病むことことがなく、長命であるとされるのです。このことは、私が師僧から聞かされたお話です。肝に銘じねばなりません。うれしい一日でもあり、戒めの一日でもありました。

入院生活の思い出

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人生

令和元年7月5日

 

急用が入りまして、三日ほどブログを休みました。

さて、実は私はたった一度だけですが、三週間ほどの入院生活を経験しました。あまりに荒行をやり過ぎたせいか、声帯ポリープが大きくなり、声が出なくなったためです。もう25年以上も前のことですが、都立大塚病院の耳鼻咽喉科で手術を受けました。

入院生活は退屈だと思いましたが、私にはとても楽しい毎日でした。まず、山のように本を持ち込みましたが、それらをことごとく読破することができました。普段はなかなか手をつけられず、いつ読もうかと悩んでいた本もかなりありました。途中で、さらに追加を運んでいただいたほどでした。読書に疲れると、病院内の庭園を散策しましたし、当時のウォークマンで音楽も堪能しました。私の普段の生活では、手に入らない時間ばかりでした。

また、簡単な茶道具も持参し、お見舞いの方々にはお抹茶の接待をしました。皆様、まさか病院でお抹茶をいただくとは思ってもみなかったはずです。とても喜ばれました。また、こんな患者もめずらしかったのでしょう。よく、看護士さんに笑われたものでした。

このような至福の時間が与えられたことに、私は大いに感謝をしたものです。いつも多忙な私に「少し静養しなさい」と、天の声が語っているようでした。人生は必要な時に、必要な場所で、必要な人と出会い、必要なことがおこるのです。もちろん、すぐには理解し得ないこともあります。不運と思うこと、不合理と思うこと、理不尽と思うことも多いはずです。それでも、やがて長い時間が過ぎた頃、自分には必要な経験であったことが理解されるはずです。

今となっては、あの入院生活もなつかしい思い出となりました。自分らしさを取り戻せたような、そんな思い出です。

ほどほどの幸せ

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人生

令和元年7月1日

 

私たちが快感を味わった時、脳内にはドーパミンというホルモンが分泌されます。また、怒りを感じた時はアドレナリンというホルモンが分泌されます。そして、この相反する互いのバランスをとり、心の安定と癒しに導くのがセントニンという〈幸せホルモン〉です。

セントニンは太陽の光を浴びると活性化するとされ、日の出を拝むと幸せな気持ちになるのはこのためなのです。だから、セントニンが分泌されれば、私たちはいつも心が安定して癒され、幸せな気持ちで生活することができるのです。

近年、うつ病やストレスに弱い人が増えているのは、ダイエットや偏食によって、セントニンが不足しているからとも考えられましょう。セントニンはトリプトファンというアミノ酸から生まれますので、トリプトファンを多く含んだ赤身の魚や肉類、乳製品、大豆製品、豆類をたくさん食べるとよいでしょう。

では、こうした食品さえ食べていれば、私たちはいつも幸せなのかといいますと、もちろんそうはいきません。実はセントニンには、別にもう一つ興味深い性質があります。それは、一日に分泌される総量には限界があるということなのです。だから、一生に分泌される総量にも限界があるということになります。

つまり、あふれるような幸福感を覚えても、これが長々と続くことはないということなのです。楽しかった後には、何となく寂しさを覚えるのはこのためです。これはセントニンを一気に分泌したため、残量が少なくなった証拠です。しかし、その寂しさも、いつまでも続くわけではありません。またセントニンが増量されれば、ささいなことにも幸福感を覚えるはずです。

人生は良いことばかりは続きませんが、悪いことばかりも続きません。幸福ばかりの人もいなければ、不幸ばかりの人もいないのです。だから、その幸福の総量をいかにうまく使い、逆に幸福が足りなくなった時に、いかに対応するかで人生が決まるのです。

ついでにお話しますが、私たちは〝ほどほどの幸せ〟が一番いいのです。そしてこの〝ほどほど〟の意味をわきまえた人が、最後まで幸せなのです。

オシラさま

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信仰

令和元年6月30日

 

青森から遠路を、また尼僧様ご夫婦がお越しになりました。

今日のご相談は、東北地方に信仰されるオシラさまについてでありました。オシラ様については柳田國男博士などの研究がありますが、民間信仰の故かはっきりしていません。大黒天・三宝荒神・歓喜天などと一体であるとされますが、青森では特に養蚕ようさんの神さまとして信仰されたようでありました。

歓喜天(聖天さま)には特に歓喜団かんぎだん(アンと生薬を巾着きんちゃく状に包んで、油で揚げた菓子)を供えます。私は鎮宅霊符尊ちんたくれいふそんにもお供えしていますので(写真前列の中央)、その仕様などを説明いたしました。

ちょっとお聞きしたいのですが、皆様は神さまと仏さまと、どちらがおえらいと思いますか?

たぶん神棚の方が高いから、神さまだと思っていらっしゃるはずです。残念ながら、実は仏様の方がお偉いのですよ。ただし、ここでいう仏さまは如来・菩薩・明王といった本当の〝仏さま〟でありまして、いわゆるご先祖さまのことではありません。これらの仏さまはお悟りを開いておられるので、特にお好きなお供物などありません。しかし、神さまはまだ執着がありますので、何をお供えするかのルールがあるのです。だから、神さまをお祀りする時は、気まぐれな思いつきであってはなりません。うっかりすると障碍しょうげたたりのこと)を呼びます。だから、「さわらぬ神に祟りなし」というのです。

今日のお話は、神さまとのおつき合いには、それなりの覚悟が必要なのですいうことです。よくよくお伝えしておきますよ。

お香の〈十徳〉

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お香

令和元年6月28日

 

もう、こんな時間になりました。

今日は私の六十七歳の誕生日でした。昨日のブロブにも書きましたが、まさに「転げ落ちる」速さです。まったくの一人暮らしなので、お祝いなどするはずもなく、静かに伽羅きゃらのお香をいて過ごしました。とても幸せでした。さすがに伽羅は最高のお香です。

お香には〈十徳〉があるとされますので、ご紹介しておきましょう。

鬼神きじんを感応させる。

②身心を清浄にする。

けがれを取り除く。

④眠気を覚ます。

⑤さびしい時の友となる。

忙中ぼうちゅうににかん(ひま)をもたらす。

⑦少量にて用をなす。

⑧永く保ってちない。

⑨常用して害がない。

⑩幅広く好感を与える。

今日は「さびしい時の友となる」ではありましたが、いよいよ鬼神が感応し、穢れを取り除いて、何か異様なヤル気が満々となりました。

体力はともかく、この歳にして気力も知識欲も決して衰えません。あふれる蔵書にも立ち向かいましょう。いい誕生日になりましたよ。

山路天酬密教私塾

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