山路天酬法話ブログ
トイレの中では
令和元年11月25日
よく、トイレの中に本を置いている方がいますが、せっかくの時間を有効に活用しようということでしょうか。トイレ内に、立派な本棚まで備えつけている方もいらっしゃるようです。しかし、トイレの中で、本を読んでいるほど時間がかかるものでしょうか。
私は本をよく読むほうですが、トイレの中には置きません。理由は簡単で、用を足す時間がきわめて短いからです。おしっこでもお通じでも、ほぼ一分程度です。とてもとても、本など読んでいる時間はありません。
そもそも、トイレに時間がかかるということは、おしっこなら膀胱や前立腺(男性)に問題があるからです。またお通じなら、腸内環境に問題があるからです。私が気になるのは、駅の大用トイレの長い行列です。女性トイレのことはわかりませんが、男性が大用トイレに入るや、なかなか出て来ません。便秘なのか下痢なのか、現代人の腸内環境がいかに悪いかの証拠です。
昨日の大掃除のお話と同じですが、健康はまずよい排泄をして、それからよいものを取り入れることが肝要です。よい排泄もできずに、どんなに栄養のある食事をしても、サプリメントを飲んでも、大した結果は得られません。
お寺の生活はまず掃除をして汚れやごみを取り除き、それから勤行をして仏さまの功徳をいただくわけです。これは心身ともに大切なことで、この手順を忘れぬよう自戒しています。そして、毎日のこの繰り返しが大事だということも肝に銘じています。
断・捨・離
令和元年11月24日
今日はあさか大師堂内の大掃除をしました。12月に入るとまた忙しくなるので、「今のうちに」ということで9人の方が集まってくださいました(写真)。

昨年の暮から毎日、お護摩を修して一年近くがたちました。私の最初の予想では、一年で柱も壁も真っ黒になると思っていましたが、意外にそれほどでもありません。お護摩の折に、玄間や出入り口を開けっぱなしにしていたためでしょう。
それでも、目には見えずとも、かなりのススが溜まっていました。バケツの水を何度も取り換えながらていねいに拭き清め、堂内が一新した気分です。これで心おきなく、新年を迎えられます。
ところで、皆様は年末の大掃除は、家をホコリをはらって新年を迎えるためだと思っているはずです。もちろん、それもありますが、本来は来年から不要なものを処分するという意味なのです。一年の間には、必要なものも手に入れたでしょうが、逆に不要なものも増えたはずです。つまり、家の中を〝断・捨・離〟して身も心も清め、その上で新年を迎えるということがもともとの目的だったのです。
そして、不要なものや悪いものを取り除いて、そのうえで必要なものやいいものを取り入れるというこの手順こそは、何ごとにおいても大切なことです。政治や経済の向上においても、仕事や趣味の上達においても、この手順を間違えるとうまくいきません。
私の身辺にも不要なものが集まりました。思い切って断・捨・離するつもりです。人生は過去を捨てなければ、未来は生かせないということです。
わかりやすく伝える
令和元年11月22日
たしか、福沢諭吉(?)でしたか、こんなことを言っていた記憶があります。
「文章を書くなら、たとえば昨日、田舎からやって来たお手伝いさんにでも、スグに理解するように書きなさい」と。
どこで読んだお話だったかは忘れましたが、いま、何となく思い出しました。しかし、「田舎からやって来たお手伝いさんにでも」とは、おだやかではありません。大変にむずかしいことです。
また、これもどかこかで聞いたことですが、「文章は大道芸人に混じって伝えるほど、わかりやすく書くべきだ」というのです。私もこのブログを書いていて、平易さを心がけてはいますが、ここまで言い切る自信はありません。
そもそも、難しいことを〝むずかしく〟伝えることは簡単かも知れません(いや、それも難しいのですが)。しかし、難しいことを、やさしく伝えることは容易ではありません。特に、仏教の教えをわかりやすく伝えることは、よほどの力量がいるはずです。
私がお世話になった岩坪真弘先生(淡路島・八浄寺元住職)は、「山路さん、あなた自分が作った布教の言葉を栞にしたとして、たとえば喫茶店のとなりにいる若い女子高生にも渡せますか」とおっしゃいました。つまり、見ず知らずの若い女子高生に対しても、理解してもらえるほど、やさしい言葉で布教しているかということなのです。
私はかなりショックを受けましたが、忘れ得ぬ経験でした。岩坪先生は伝道布教において偉業をなし、また淡路島の発展にも大きな足跡を残されました。今は亡き岩坪先生に出会ったことを、心から感謝しています。
深遠なお話をわかりやすく伝える力量は、社会のリーダーには特に問われることです。政治家にも、経営者にも、学者にも、そして僧侶にも問われることです。平凡なお話の中にこそ、真理が潜んでいるということです。
終身犯
令和元年11月20日
昔のアメリカ映画ですが、実話を元にした『終身犯』という作品がありました。
主人公のロバートは、恋人に乱暴をした男を殺した罪で懲役12年の判決を受け、刑務所に服役していました。しかし、母のエリザベスを侮辱した看守をさらに殺してしまい、死刑を宣告されました。ロバートはいうなれば、殺人という最も恐ろしい業を背負って、この世に生れて来たのです。しかし、悲しんだ母が嘆願運動を行った結果、終身刑にまで減刑されました。
ある日、彼の独房に一羽の傷ついた小鳥が迷いこんで来ました。退屈ですることもなかった彼は、この小鳥にかぎりない愛情を注ぎました。独房の貧しい食事を与え、必死に看病を続けました。そして、ついにその小鳥が元気を回復して飛び立った姿を見て、彼はこれまでに味わったことのない人生の喜びに打ち震えました。
彼はその後、独房で許されるかぎりの鳥を飼育し始めたのです。そのための研究書も取り寄せ、同好の人とは文通での相談役にもなりました。彼の研究はいよいよ深まり、論文も高く評価され、その道の権威にさえなりました。また、彼の業績に対する減刑運動が起こったり、彼の論文に共鳴した未亡人のステラと獄中結婚までしたのです。
そして、彼の獄中での態度も評価され、やがて他州の刑務所に移されることになりました。新たな刑務所で鳥の研究ができることに夢をいだきつつ、終身犯のロバートは希望に満ちた未来に向かうのでした。
殺人という狂悪な犯罪と、献身を捧げる美しい慈善と、人の心にはいずれともなく秘められています。ただ、その縁に触れて業が催し、悪事に染まらぬことで、人はまずまず平穏に生きられるのです。しかし魔の誘いは、いつ訪れぬともかぎりません。
雑草いけばな
令和元年11月19日
尼崎市の飯尾一渓さんが、「雑草いけばな」という新分野を提唱しました。
〝いけばな〟とはいっても流派の生け花ではありません。道端の野の花を石やガラス瓶、切り株や竹の皮といった身辺にあるものに、さりげなく挿すだけなのです。これがまた独特の魅力に富み、お店の花にはない格別な世界を作り出します。
飯尾さんははじめ、障害児教育のためにこれを創案しました。しかし、その美しさに引かれた人たちがしだいに集まり、花も買わず、花瓶も使わぬ「雑草いけばな・一渓会」が立ち上がりました。大阪・梅田のカルチャースクールや東京・お茶の水女子大などに教室を開き、会員は千人を超えたといいます。
もちろん、「雑草」という名の花はありません。どんな花にも学名があります。しかし、無用とされ、さげすまされた花がアレンジしだいで見違えるように甦る姿はお見事としかいいようがありません。「雑草は見向きもされません。誰の力も借りずに育って、人知れず散っていきます。その無心の姿を、無心のままに受け止めるんです」と、飯尾さんは語ります。
私は数年前、当時八十一歳の飯尾さんと電話でお話をしました。そして、「最後の一冊なんですが、あなたに差し上げましょう」と言って、カラー写真の本も送っていただきました。私の宝ものです。お元気でいらっしゃるでしょうか。
最後まで大切なもの
令和元年11月16日
昨日、人の悩みで最も多いのは、病気とお金と対人関係だとお話しました。
しかし、さらに考えてみますと、病気の悩みは、病気そのものが悩みであると同時に、その病気によって迷惑をかけている家族や職場の人たちのことが気になるものです。またお金の悩みも、お金そのものが悩みであると同時に、それによって迷惑をかけている人たちが必ずいるものです。つまり、病気もお金も、つきつめて考えれば人間どうしの問題、対人関係の問題だといえるのです。人間の問題はやはり、行き着くところ人間なのです。
たとえば、職場の中を考えてみましょう。職場では仕事の成績でも悩むでしょうが、最もやっかいなのは人間どうしの対人関係です。顔も見たくないという上司がいるかも知れませんし、パワハラやセクハラもあるでしょう。また、同僚からのいじめに悩んでいる人も、キリがありません。
趣味のサークルもまた同じです。上達したかどうかで悩むより、サークル内の対人関係で悩むのです。仲間外れにされたり、お茶や食事にさそってもらえず、独りで悩んでいる人が必ずいるものです。
人間どうしのつき合いこそは、人生最大の課題です。自分の考えや意見ばかりを押し通すようでは、うまくいくはずがありません。また、人の立場を思いやる幅広い心と誠意が必要なことはいうまでもありません。最後まで大切なものは、人柄ということです。
私の仕事
令和元年11月15日
あさか大師では毎日、いろいろなご祈願が寄せられます。その多くは護摩木(お願いごとを書く小さなお札)に書き、日ごとに「願いおき護摩木」の棚に並べられます。特に手術や受験などは、10日間とか1ヶ月とかが続けて並べられます。私が毎日お護摩を修する理由は、こうして毎日お願いごとが寄せられるためでもあります。
「ゆりかごから墓場まで」といわれますが、人の悩みは生れれた瞬間から尽きません。発育にも、風邪にも、ケガも、いじめにも、親は心配します。さらに、受験があり、就職があり、結婚があり、出産があり、孫が生まれれば、その孫をまた心配します。つまり親は子を、子はまたその子を心配するのが人の一生なのです。
寄せられる悩みを見ると、最も多いのは病気です。つまり、人はまず何よりも健康を望むということです。健康でなくては働けませんし、健康でさえいれば何とかなると、ほとんどの方が思っています。健康こそは、人生最大の願いなのです。
次はお金のことです。お金が人生のすべてではありませんが、お金がなくては生きていけません。商売をしている方ならなおさらです。とにかく、売り上げを伸ばさねばなりません。営業マンなら、契約も取らねばなりません。もちろん主婦は、家計のやり繰りをせねばなりません。借金があれば、返済せねばなりません。
そして次は、夫婦や家族、あるいは職場での対人関係です。夫婦や家族といえども、どこまで理解し合っているかは多いに疑問です。また職場でも、人は仕事そのものよりも対人関係に悩むのです。職場の対人関係に悩んで、うつ病になっている方がいかに多いかは、想像を絶するものがあります。
つまり、人の一生は病気とお金と対人関係こそ、最も多い悩みだといえるのです。いうなれば、これらの悩みに立ち向かい、いかに解決するかが私の仕事なのです。また多くの寺院や神社があり、占い師がおり、カウンセラーがおり、その中で私を選んでいただけることが、私の仕事なのです。
日の吉凶判断
令和元年11月14日
真言密教では日の吉凶を決める場合、『宿曜経』という経典に説かれる「二十七宿」、あるいは「二十八宿」によって判断します。
私も入籍の日、結婚式の日、開店日、移転日などを問われた場合、これに基づいてお答えしています。つまり、ここでは世間でよく言われる「大安」や「仏滅」は、本来はまったく無視してもよいのです。しかし、おめでたい日が「仏滅」で喜ぶ人はおりませんので、そこは兼ね合わせて判断する必要があります。
問題は、その「二十七宿」と「二十八宿」のどちらの説を用いるかです。皆様がお持ちの暦でもこの両説があって、どちらが正しいのかとよく質問を受けます。むずかしいお話はともかく、結論を申し上げれば、『宿曜経』を請来されたお大師さま(弘法大師空海)は「二十七宿」を用いられました。あさか大師でお渡ししている「開運暦」も、これに従っています。
日本に現存する最古の『宿曜経』は高野山の霊宝館にあり、平安時代の写本ですが、これはもちろん入手することはできません。ところが、2011年の東京古書会館大入札会で京都の同志社大学が、これに次ぐ時代の写本を落札しました。これは高野山のものと比較しても、決して劣るものではありません。写真は私が所蔵する、そのコピー製本です。

皆様が「二十七宿」か「二十八宿」か迷うことがありましたら、必ず「二十七宿」に従ってください。お大師さまが用いられたのですから間違いはありませんが、『宿曜経』で実際に占いをしている先生方も、みな「二十七宿」を用いています。
平安時代の貴族が用いた暦には、「二十七宿」の下に予定を書き入れるの欄があります。つまり、当時は暦が予定表だったのです。「二十七宿」がそれほどに、生活の中に溶け込んでいた事実も申し上げておきましょう。
「前略」はやめましょう
令和元年11月12日
私はかなり手紙をいただきますし、自分でもマメに書くほうです。何もかもメールで済ませる方がいますが、重要な要件はやはり手紙でこそ誠意が伝わるものです。
手紙は慣れれば苦もなく書けますが、現代人の多くは不得手なようです。しかし、手紙には差出人の教養が赤裸々に出ることは覚悟せねばなりません。特に公用文に誤りがあれば、役所や会社の信用まで落としてしまいます。
手紙の関して、気になることを一つだけお話しましょう。
それは、受取人が誰であれ、「前略」で書き出す方があまりにも多いということです。時候や冒頭の挨拶が面倒なのはわかりますが、目上や未知の人に対して「前略」は失礼です。つまり、社長室にノックもしないで入るようなもので、常識を知らないと判断されてしまします。「前略」はあくまで、親しい者どうしと自戒し、一般的な「拝啓」と「敬具」を礼儀と心得ましょう。
『手紙の書き方』等の本がなくとも、今はネットで検索すれば、月ごとの時候の挨拶が出ています。それすら面倒な方は、「拝啓 時下ご清栄のこととお慶び申し上げます」などと書き出せば充分です。
お大師さまは手紙の達人でいらっしゃいました。常に相手の健康や生活を気づかい、細かい配慮をなさっておられました。いや、偉人とされる方は、みな同じです。たとえ豪放磊落に見えても、細心誠意を重ねるものです。
ちなみに私は、手紙はほとんどパソコンで書き、相手の名前はポイントを上げて大きく入れます。ただし、文末の署名と封筒の宛名は毛筆で揮毫しています。すべてパソコンというのも、味気なさは否めません。
メールの時代だからこそ、手紙はうれしいものです。万年筆なども、人気が高まっていると聞きました。ぜひ、手紙の書き方に慣れていただきたいものです。お人柄が伝わりますよ。
納豆バンザイ!
令和元年11月11日
私は栃木県の農村で育ったせいか、食卓に納豆を欠かすことはありません。年齢のわりには若く見られますが、その秘密は毎日、納豆を食べているからです。
健康によいといわれる食品の中で、どれか一つを選ぶとすれば、「それは納豆です」と多くの医師や管理栄養士が語っています。同じ大豆発酵の食品でも、味噌の塩分を気にする方は多いはずです。完璧な栄養源といわれる卵も、コレステロールに賛否があります。DHAやEPAを多く含んだ青魚も、海の汚染物質を心配する方がいます。ヨーグルトの乳酸菌が腸内環境を整えるといっても、体質に合わない方がいます。トマトのリコピンには抜群の抗酸化力がありますが、体を冷やす欠点があります。つまり、世界中の食品を見渡しても、ただ一つ文句をいわれないのが納豆なのです。
納豆には若返りの成分であるポリアミンが多く、免疫細胞がよみがえり、動脈硬化を予防し、長寿をもたらします。そのほか、ビタミンB₂が多いにもかかわらず、脂肪やコレステロールを気にする必要がありません。また、粘り成分のナットウキナーゼは血栓さえ溶かします。血栓は就寝中に発生しやすいので、納豆は夕食に食べるとよいでしょう。
かつて、関西の方はほとんど納豆を食べませんでした。私が二十代で京都の醍醐寺に入った頃、食事作法で『般若心経』を唱えていると、関東僧侶のもとに納豆が回って来たものです。作法が終ると、私の前には四つも五つも納豆が並んでいました(笑)。でも今は、関西でも若い方は納豆を食べますし、ホテルのバイキングにも納豆が置かれています。
皆様、ぜひ納豆を見直してください。あらゆる食品の中で、最も理想的な逸品が納豆なのです。「納豆バンザイ!」です。

