山路天酬法話ブログ
死後がそにあるからです
令和7年11月6日
死後の世界などあり得ないし、信じないという人は多いはずです。そんなものは科学的ではないといいます。もちろん、死後の世界は眼には見えず、耳にも聴こえません。しかし、見えないから聴こえないから「ない」と断言するほど非科学的な意見はありません。
眼には見えず、耳にも聴こえずとも、素粒子や電波が存在します。天上の彼方で、深海の果てに何があるのかも、私たちは感知することができません。それでも確実に存在しています。
死後を信じなくとも、死後を考える頭脳はあります。また、死後を思う心があることも否定できません。その死後を思う心もまた、眼には見えず、耳にも聴こえません。私たちの心が死後を思うのは、実は死後がそこにあるからです。死後がその心を呼ぶからです。死後があるから、心が呼ばれるのです。何もなければ、呼ばれることも想うこともないのです。その心が、死と共に消え去るのでしょうか。死によって何もかも無に帰するなら、死後がないという確認すらできません。死後を思う心があるのに、これはおかしなことです。

私たちは死後を信じ、あの世とこの世が一つであることを信じ、先祖供養に励んでいます。そして、功徳こそはあの世に持ち越せる唯一の財産であると信じています。今では「人生を変える先祖供養」として知られるようになりました。
*この「人生を変える先祖供養」を希望される方は、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。遠方の方には郵送します。一ケ月2000円の供養料で、父母両家にアプローチする光明真言(写真)の秘法を、毎日受けることができます。
あの世に持ち越せる唯一の財産
令和7年11月2日
あさか大師では11月1日(土)・2日(日)の午後1時より、総回向法要(先祖供養)を勤修しました。両日とも大勢の皆様が集まり、僧侶と共に読経しました(写真)。また遠方の皆様は、同時祈念にて感応道交をはかりました。

人は生まれた時から、いろいろな違いがあります。体が丈夫な人もいれば、逆に弱い人もいます。裕福に生まれる人もいれば、逆に貧困の人もいます。それは、産まれる以前に、何らかのプロセス(前世)があったからではないでしょうか。
人は誰しも、いずれは死を迎えます。しかし、何もないところから生まれ、死によって何もかもなくなるとは思えません。では、何が残るのかといえば、生前にその人がどのような生き方をしたかの〝徳〟ではないかと思います。仏教ではこれを〈功徳〉といいます。つまり、功徳こそはあの世に持ち越せる唯一の財産なのです。
それに気づく時、人は新しい人生の門出に立てるのです。私たちはそのように考え、少しでも功徳が積めるよう精進しています。そして、先祖への報恩が大きな功徳になると考え、その供養に励んでいます。
関心をお持ちの方は、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。遠方の方には郵送します。高額な費用はかかりません。それでも真言密教の秘法を、毎日受けることができます。偉大なお大師様と共に、そして私たちと共に功徳を積みましょう。
新しい人生の門出
令和7年10月30日
あさか大師では11月1日(土)・2日(日)午後1時より、総回向法要(先祖供養)を勤修いたします。お導師も僧侶も、そして参詣の皆様も光明真言曼荼羅に向かい、遠方の皆様は同時祈念をなし、共に滅罪生善と精霊得脱を祈ります(写真)。

この先祖供養は単なる回向ではなく、皆様がこの世に誕生した人生のルーツに、直接にアプローチするものです。そして、お導師は真言密教の秘法を毎日修し、皆様の祈りと融合させ、それぞれの感応道交をはかります。
したがって、ご命日や回忌の法要とは違った「人生を変える先祖供養」として知られるようになりました。この先祖供養を始めると不思議な霊験をいただき、多くの皆様からお話が寄せられています。
先祖供養をすすめる寺院は数知れませんが、単なる形式的な作法や読経では、人生を変えるパワーにはなりません。また、法外な供養料を請求する寺院にも注意する必要があります。あさか大師は父母両家の供養を修して、一ケ月2000円です。
当日は初めての方も歓迎いたしますが、勧誘はいたしません。ご自身の眼で判断してください。遠方の皆様は私のブログや著書をご覧いただき、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。そして、新しい人生の門出を目ざしてください。善男善女のご縁をお待ちいたします。
消え失せた花々への挽歌
令和7年10月28日
この夏の猛暑で、あさか大師の山野草は大きな被害を受けました。半日陰を好む山野草に、あの炎天下は耐えられません。早朝や夕方に施水をしても、日中ともなれば「焼け石に水」だったのです。
それでも葉焼けした中から、いくつかの花が姿を見せました。昨日、鮮やかなシュウメイギクが目につき、さっそく一輪を挿しました(写真)。

漢字では「秋明菊」と書きますが、花弁の形は決して〈菊〉ではありません。本花をキフネギクといい、京都の貴船が原産です。キク科ではなく、キンポウゲ科とのことで、混乱するかも知れません。
群生する中では特に引き立つとも思えませんが、一輪挿しがとても似合います。まるで貴婦人が訪れたようだと、参詣の皆様が讃えます。
清楚な純白が美しく、愛着が続くのも、必死に生き延びてくれたからでしょう。いつまで咲いてくれるのか、消え失せた花々への挽歌となりました。夕闇が迫る中、いずれとも、あらばあれ。
日本最大の護摩炉
令和7年10月26日
あさか大師の護摩炉は直系が80センチもあり、日本最大のものです(写真)。これは私が長年の実修経験から創案したもので、この炉を用いて毎日のお護摩を修しています。

護摩壇も炉も、本来は清らかな土にて作るのですが、日本では木製の壇、鋳物や真鍮の炉を用います。この炉は鋳物製ですが、壇は私の実家の土に砂とセメントを用いました。
私がなぜこのような炉を創案したのかと申しますと、皆様の護摩木が増えるとこのくらいの大きさが必要になるからです。また、先祖供養紙やお塔婆まで、作法にしたがってお焚き上げするためでした。
先祖供養紙やお塔婆には、私や弟子僧の読経はもちろんですが、皆様のたくさんの祈りが込められています。お焚き上げの作法は尊重せねばなりません。その場合、この護摩炉は大変に役立ちます。
真剣な祈りには、最後まで責任を持たねばなりません。お大師様に叱られぬよう、自問自答をくり返しています。また一つ二つ、と。
蘇生したカブトムシ
令和7年10月23日
今年7月、ある弟子僧の自宅玄関にカブトムシの〝死骸〟がありました。いや、死骸と思ったのは、その雌のカブトムシがまったく動くこともなく、ゴキブリほどに瘦せ細っていたからです。どう見ても、死骸にしか見えません。
その弟子僧はどこかに葬ってあげようとして、光明真言を何度も繰り返し、一心にお唱えしました。すると、どうでしょう。そのカブトムシの手足がわずかながら動き出したのです。しばらくすると蘇生し、歩き始めました。
その報告を聞いた私は、お寺に持参するよう伝えました。拝見すると、たしかに体が小さく、生き延びるかどうか心もとない状態でした。それでも、虫かごにヤシガラを入れ、水はもちろん、ハチミツやゼリーを与えました。
長らく餌にありつけなかったのか、その食欲は旺盛で、一週間もすると大きくなって来ました。今では肌ツヤもよく、健康そのものです。夜行性なので、夕方からは元気に歩き回っています(写真)。

それにしても、光明真言の功徳は絶大です。私は毎日、先祖供養として光明真言法をなし、念誦に専念していますが、初めての経験として忘れ得ません。昆虫専門店の話では、「そんな事情なら、長生きはしませんよ」とのことでしたが、いっこうに衰える気配がありません。むしろ、体力を持て余しているようにさえ見えます。
真言の功徳は動物にも効能します。医薬の力も大切ですが、お大師様は「呪力は通じて一切の病を治す」とおっしゃっています。今後は延命祈願を兼ねてお唱えしたいと思っています。
10月に桜が咲いた
令和7年10月21日
「秋桜」とはコスモスのこと。ほかに「十月桜」という品種があり、春と秋とに二度咲きます。ところが、ソメイヨシノでありながら、10月に開花する奇妙な現象があります。あさか大師の桜並木にも、わずかながら花開いた姿が散見されました(写真)。

まず、この夏の猛暑が関係していることは、容易に推測されましょう。すでに落葉しているのに、何らかの影響で植物ホルモンの働きが変わったように思われます。桜もこの異常気候には迷うばかりです。
野菜や果物の栽培、魚の水揚げも変わりました。スーパーから日本の果物が消え、熱帯地の魚ばかり並ぶ時代が来るのでしょうか。かつて「終末」という言葉が流行りましたが、その終末を乗り越えるべく、私たち一人一人ができることをしなければなりません。この地球も、この日本も、私たちが住む大切な自然です。
今宵は新月。蒼茫とした木立に光はなく、水墨画のような景観が闇に迫ります。地球はいずこに、日本はいずこに。
金運宝珠護摩の功徳
令和7年10月19日
本日は午前11時半より金運宝珠護摩を奉修して、たくさんの皆様が参詣しました。皆様が僧侶と共に声高く読経し、堂内に如意宝珠の功徳が遍満しました(写真)。また、遠方の方には同時祈念をおすすめし、それを実行していただきました。

なお、お護摩の前には新一万円札の渋沢栄一について法話をしました。渋沢栄一は幕末、本県深谷市の農家に生まれましたが、農作業のかたわら、懸命に『論語』を学びました。そして、生涯に500もの会社を創立しましたが、思想の根底は常に「論語とそろばん」でした。『論語』は道徳、そろばんは商売を意味します。
道徳と商売は矛盾するように思う方もいるでしょうが、それは間違いです。すぐれた商人は、道徳的にもすぐれた人物であることは間違いありません。なぜなら、お客様を大切にして、お客様が喜ぶことを提供し、互いに利益を上げるためには、誠実で礼儀正しい道徳の力が必要だからです。
人をだまして利益を上げても、一時的には裕福になるでしょうが、いずれは信用を失い、必ず破産します。与えずして得たものは、つぐなわねばならないからです。
この金運宝珠護摩は人徳の向上による、金運増大を目ざしています。「論語とそろばん」とは言い得て妙、すばらしい金言です。肝に銘じねばなりません。
人徳と金運は矛盾するのか
令和7年10月17日
あさか大師では19日(日)午前11時半より、〈金運宝珠護摩〉を奉修いたします。ご参詣の皆様は直接にお護摩のパワーをいただき、金運銭(写真)をお守りにしてそのパワーを持続させてください。遠方の皆様は同時祈念によって感応道交をはかり、金運増大を目ざしましょう。

この金運宝珠護摩は、人徳の向上によって金運を向上させることを目標にしています。人徳と金運は矛盾するように思うかも知れませんが、それは間違いです。すぐれた事業家や資産家は、礼儀正しく、約束を守り、誠実で、人に好かれ、社会に喜びを与える人徳があるからです。
渋沢栄一はこれを、「論語とそろばん」と表現しました。論語は道徳、そろばんは商売を意味します。道徳的にすぐれなければ、すぐれた商人にはなれないと、ずばり喝破しています。
ややもすると、人は「相手が損をするだけ、自分は儲かる」と思いがちです。しかし、お金は互いに利益がなければ動きませんし、自分にも入って来ません。人が喜ぶことを与える人が、自分もまた喜べるからです。才能も大切ですが、人は結局、行きつくところ人徳に尽きるのです。
お金に対する正しい見識をもって仕事に励み、人にもお金の神様にも好かれましょう。論語とそろばんです。
あさか大師の御朱印
令和7年10月15日
あさか大師では御朱印も受付けており、最近はご希望の方が増えています。寺紋の桜模様の料紙で、ちょっと派手な御朱印です(写真)。

筆書きは「奉拝 あさか大師 遍照殿 令和〇年〇月〇日」と読みます。特に〈奉・殿〉は草書体で読めないと思いますが、御朱印ではよく使われる書体です。
お寺への参詣に、御朱印帳を持参なさると、記念にもなり、励みにもなります。ところが、現代はお坊さんの〈小僧教育〉がないためか、書道の稽古が足りません。お札やお塔婆を見ても、ガッカリすることがあります。
お坊さんはやはり、お経と書道だと思います。つまり、読経ができて達筆であることが、きわめて重要だからです。世間では「お坊さんは字がうまい」と思っているのですから、もっと励まねばならないと思います。
お大師さまは日本書道の筆頭です。中国書道の書聖・王羲之(東晋時代)に並ぶ方は、お大師さましかいません。だから、特に真言宗のお坊さんは、宗祖の書を学ぶ責務があります。そのお大師さまでさえ、「数々、古人の至意をうかがう(性霊集)」とあり、書道古典の極意を学んでいるとおっしゃっているのです。戒めねばなりません。

