山路天酬法話ブログ
盂蘭盆会の荘厳
令和7年7月4日
あさか大師では7月5日(土)・6日(日)午後1時より月例の総回向(先祖供養)を兼ねて、盂蘭盆施餓鬼会法要を勤修します。私はすでに前行でご回向を重ねてまいりましたが、いよいよ荘厳も整いました(写真)。
中央の浄飯に立てられた五色の幣を「施餓鬼真幡」といいます。五色は五如来(施餓鬼を司る五仏)を表し、形は宝楼閣を表しています。餓鬼道に堕ちて苦しむ霊や無縁の霊は、ご真言の力とこの真幡に導かれ、仏に結縁するのです。
当日は参詣の皆様と共に「施餓鬼作法」を実修します。本来は深夜の静かな場所で修しますが、日中でもその功徳は同じです。施餓鬼の真言が遍満する中、救済の旋食が天上浄土に導くことを願ってやみません。
ちなみに、施餓鬼を熱心に修す僧侶は食べられない胃腸の病気を患わず、お檀家やご信徒が少なくとも、何とか食べていけると伝えられています。また真言密教の僧侶は、毎日これを修さねばならないとされています。二十代の若い頃、師僧から訓示されたことです。
この世とあの世の冥合(伝道法語)
令和7年7月3日
7月の伝道法語です。お盆にちなんで掲示しました。
私たちは自分の人生は自分で考え、自分で判断し、自分で歩んでいると思っています。しかし、本当にそうでしょうか。
私たちの人生には、思うようには行かないことがたくさんあります。また、思ってもみないことがたくさんおこります。たとえば、気をつけていても事故を起こすことがあります。また反対に、事故に巻き込まれることもあります。
それは自分の考えや判断を超えた何かがあるからです。それは眼には見えず、耳には聞こえず、理解を超えて私たちの人生に深く関わっているからです。
この世のことを「現世」といいます。あの世の「うつし」です。なぜなら、この世とあの世は表裏一体だからです。私たちはこの世に生きていますが、実はあの世にも生きているのです。この世とあの世を共に生きているからです。
あさか大師では7月5日(土)・6日(日)午後1時より、盂蘭盆施餓鬼会法要を勤修します。この世とあの世の冥合です。あの世へのアプローチは、この世の人生へのアプローチです。
7月の強運者
令和7年7月2日
7月7日から8月6日までが、暦法での7月です。六白金星が中宮して、東南が五黄殺、西北が暗剣殺、東北が月破となり注意を要します(写真・下が北となり、一般の地図とは逆になります)。
7月の強運者は一位が五黄土星、二位が四緑木星、三位が一白金星です。
五黄の人は東南(巽)にあって、大きな進展を遂げることができます。持ち前の本領を発揮して、実力を伸ばしましょう。身辺の問題解決にも好機となります。ついでながら、五黄の人はいつも五黄殺なのかという質問をよく受けるのですが、もちろん、そんなことはありません。五黄は帝王の星なので、外の星にとっては「おそれ多い」というほどの意味です。
四緑の人は東にあって、開運のスタート台に立ちました。計画の心願成就に向かって、行動を開始しましょう。ただし、口論や性急な自己主張はケガのもととなります。短気は損気、急がば回れと自戒しましょう。
一白の人は南にあって、太陽が最も盛んであり、旺盛な運気となります。目標に向かって、前進しましょう。慢心を慎み、身辺の人との和合を大切にしてください。違背すると分裂や離別を招きます。
そのほかの人はホームページの「今月の運勢」をご覧ください。暦は上手に生かしてこそ、役立ちます。使われるのではなく、使いこなすことが大切です。
偉大なる植物のドラマ
令和7年6月29日
10年ほど前、塚谷裕一著の『スキマの植物図鑑』(中公新書)という本が話題になりました(写真)。
同書は街角のコンクリートやアスファルトの割れ目、石垣や電柱の根元といったわずかなスキマから、植物たちがいかにたくましく成長しているかを紹介した異色の刊行でした。しかも、植物たちがいかにも窮屈で息苦しく生きているのではなく、何とも居心地よく幸福に過ごしている様相を発見することに、同書の主張がありました。
人間はあくせくと働き、動物は餌を求めてさ迷っているというのに、こうした植物は一ヶ所に根を下ろしたまま、光と水と肥料を十分に吸い、実に豊穣な時間を過ごしているのです。都会の片隅、国道わきの騒がしい環境にあっても、それは同じです。何と偉大なるドラマでありましょうか。
こうした植物の様相は、通勤中の通り道、買い物や散歩の道端、公園や工事現場、いたるところに見い出せましょう。その飄々たる楽園を讃嘆するならば、私たちは何も見えていなかった自分に驚くのではないでしょうか。自分の足元に、かくも偉大なドラマがあるというのに、いったい何を見て生きていたのでありましょうか。
あさか大師の境内でも、ドラマは常に見い出せます(写真はエノコログサ)。ああ、植物は偉大なり。偉大なるドラマに幸あれ。
特大五鈷杵を奉安
令和7年6月26日
このたび、あさか大師ご宝前に、弟子僧から寄進された特大五鈷杵が奉安されました(写真)。
五鈷杵とは代表的な密教法具のひとつです。本来はインドの武器でありましたが、煩悩を智慧に転ずる法具として用いられるようになりました。左右の中央に一本の独鈷杵(いっぽんどっこ!)があり、四方に四つの牙(鈷)があります。つまり五つの鈷が仏の五智を示します。
お大師様も立派な五鈷杵を唐より請来されましたが、その現物は東寺(京都)の宝物館に収蔵されています。私も拝観したことがありますが、お大師様が実際にお使いになられたというだけで緊張し、立ちすくんでしまいました。
真言密教の法具は単なるお飾りではありません。それらはすべて、仏の悟りを象徴するものです。残念ながら今日では、密教法具を製作する職人さんが少なくなり、その値段が大変に高価になりました。弟子僧が購入を希望するたびに、私も悩みます。伝統工芸の技術を維持することの難しさなのでしょう。
偶然と必然の観音像
令和7年6月22日
お護摩を修していますと、その炎の中にいろいろな姿を観じることがあります。今年3月、あさか大師の本堂に観音像の化現を公開しました(写真)。
お護摩の写真は長年にわたって拝見してきましたが、これほどリアルな観音像に出会ったことはありません。まさに、お大師さまが示された観音さまの化現でありましょう。
もちろん、これは一瞬の偶然です。お護摩の炎が刻々と燃え続く中で、一瞬の偶然から生まれたものです。しかし、偶然にしてもでき過ぎた感は否めません。二度と写すことはできませんし、写そうと思って写せるものではありません。むしろ、写そうという意図をもって構えると、かえって何も写らないことは経験上、わかっています。
つまり、無心の中で、必然的なご縁がなければ写らないということです。この偶然と必然の狭間にあって、お大師様が刹那に示されたお姿が、この観音像なのです。毎日、お大師様のお護摩を修して来た、私へのご褒美だったのかも知れません。
立派なご縁をいただいたあさか大師のお護摩に、ぜひお参りください。毎日11時半より修しています。また、この写真は本堂内に展示しています。
続・人相も手相も変わります
令和7年6月19日
私は毎日、光明真言の秘法をもって先祖供養を実修し、その加持力が皆様のもとに届くよう念じています。そして、毎月3回の総回向法要を勤修しています。6月15日(日)は午前11時半の金運宝珠護摩に続き、午後1時より3回目の総回向を勤修しました(写真)。
参加するの皆様は、あさか大師で一心に先祖供養に励んでいらっしゃいます。参加した動機はさまざまですが、自分の人生がご先祖と関係していることを何気なく感じているからでしょう。
前回にもお話をしましたが、初めてお会いした折には、ひどく落ち込んでいた方、暗い表情であった方が、一変して明るくなります。つまり、人相が変わるのです。また、弟子僧は先祖供養に加えて印(前回写真)を結び、仏の浄土を観想します。すると手相も変わります。
これは魂が浄化されるからで、別に不思議ではありません。この世とあの世は一体だからです。お大師様がおっしゃるように、仏の浄土もこの世にあるからです。
私は住職としての義務で毎日の実修をしているのではなく、皆様の変化を楽しみ、共に喜び、生きがいになっているからなのです。さらに、多くの皆様の参加を念じてやみません。遠方の方は郵送で参加できます。詳しくはホームページの「先祖供養」をご覧ください。「お問合わせ」からのご連絡をお待ちしております。
人相も手相も変わります
令和7年6月17日
あさか大師で先祖供養をすると、人相も手相も変わります。
はじめてお会いした折には、ひどく落ち込んでいた方、暗い表情であった方が、次にお会いするととても明るくなります。これはこの道に何十年も関わって来た経験からいえるのであって、間違いありません。また、多くの方々が、このことを実感しています。
これは魂の浄化によっておこることで、不思議でも何でもありません。この世とあの世は一体なのですから、むしろ当然のことです。あの世で喜べば、この世に感応するということです。
また、特に弟子僧の指導をしていると、手相が変わっていくのがわかります。弟子僧は入門すると、ご信徒と同じように先祖供養をします。そして、印(仏様の世界を両手で表現する形)を結びます(写真は八葉印)。細かく指導するためには、どうしても両手に注目します。その時、「ああ、手相が変わって来たな」とわかるのです。
印はこの世の世界から仏様の世界へのアプローチです。だから、ふくよかな仏様のような手になるのでしょう。ご信徒が合掌を続けていても、同じです。先祖供養をして、よく合掌する方は手相が豊かで、どこかに温かみがあります。
お大師様の真言密教は単なる教えではなく、こうした事実があることも知っていただきたいと思います。そして、あさか大師の先祖供養に、さらに多くの皆様がご参加いただきたいと念じてやみません。遠方でも、郵送で参加が可能です。関心のある方は、ホームページの「先祖供養」をご覧いただき、「お問合わせ」からご連絡ください。
ギャンブルで財産は残せません
令和7年6月16日
昨日の午前11時半より、月例の金運宝珠護摩を奉修しました。如意宝珠の浄炎が堂内に遍満し、大きな功徳をいただきました(写真)。
このお護摩は、皆様が社会に何かを与えるパワーを高めるものです。社会に何かを与えなければ、お金は入りませんし、金運が高まることもありません。つまり、「与えずして与えられることはない」という意味です。
それはギャンブルや詐欺によって一時的に大金が入っても、財産としては残せないことでもわかります。むしろ、与えずして与えられた分だけ、必ず〝つぐない〟をすることになります。大金にからんだ怨念やさまざまな感情によって、必ず事件がおきるからです。
この世の中は自分の能力を高め、運を高め、まじめに働いて何かを与える人が、最も得をするのです。それが世の中の仕組みというものです。
金運宝珠護摩はそのためのパワーを与えるものです。皆様のお参りをお待ちしております。遠方の方はホームページの「お問合わせ」や郵便でお申し込みください。護摩木は一本200円ですが、10日以上のご祈願をおすすめしています。ご希望の方には振替用紙をお送りいたします。
教えては学び、学んではまた教える
令和7年6月12日
三日間、留守をいたしましたが、6月10日(火)・11日(水)の両日、京都の仁和寺で不動護摩の伝授と実修、および法楽太鼓の打ち方を指導してまいりました(写真)。
ご参加の皆様は全員、真言密教各派の熱心な僧侶の方々です。つまり、プロのお坊さんの前でお話をしたのですから、かなり緊張し、疲れもしました。
しかし、教えることによって、逆に自分が学べることも事実です。今回も教えるための準備をしながら、多くのことを学びました。何十年も学んでいながら、こんなことも知らないでいたのかと、反省したこともあります。
教えては学び、学んではまた教えるのが僧侶としての、また住職としての勤めなのでしょう。まずは疲れを癒して、また学んでまいります。一日一生、日々が精進です。
*毎日のお護摩(午前11時半)は通常どおりに修しています。ぜひお参りください。