山路天酬法話ブログ
続・先祖供養は何が楽しみか
令和8年9月8日
私たちは初めてなのに、以前に出会った、あるいは体験したように思うことがあります。心理学ではこれを既視感(フランス語「デジャヴ」の和訳で、すでに見たという意味)といい、脳の錯覚や情報処理のズレとされています。
しかし、私は大胆な仮説として、睡眠中にあの世と交流した記憶の片鱗なのだと考えています。この世はあの世の写しです。この世でおこることはあの世で先におこっています。20代の頃、私が師僧の寺(坂東第十七番)に初めてうかがった時、そのことを実感しました。これは睡眠中に、自分の幽体が肉体をぬけ出した中での体験だったのです。
よく、「〇〇さんの生き写し」などといいます。「〇〇さんの身代わり」などともいいます。これもあの世にいる「〇〇さん」の意志が強く働いていると思います。他界した人の夢を見た場合、たとえ記憶から薄れていても、気づかぬところで人生の一部をなしていることは間違いありません。遠いはずの人が急に接近するのも、この世とあの世の不思議さであり、おもしろさでもあります。
先祖供養をしていると、ドアをノックされたり、足音を聞くことがあります。以前は真夜中にインターホンを押され、あわてて玄関を開けたものでした。もちろん、この世の現実には誰もいません(睡眠妨害になると思うのか、最近はなくなりました)。迷惑になることもありますが、これもこの世とあの世のおもしろさです。
また修法中に、お灯明の炎が二倍以上も高く燃え上がったり(写真)、風もないのにゆらいだりすることがあります。

通常のお灯明なら、この半分も行きません。常識では考えられないことです。これはお護摩と同じで、〈火〉が異次元と感応しやすいためです。特に私は、仏様やご先祖様が喜んでいらっしゃると感じています。歓喜のリズムに似ているからです。視覚で体験する、あの世との楽しい接点です。
真言密教の修法は苦しいこともありますが、お大師様を信じ、そのお力を信じれば、楽しいことがたくさんあります。この世の楽しみは、まずあの世の楽しみから、と思っています。
*あさか大師の先祖供養に参加をご希望の方は、筆者のブログやホームページの「先祖供養」をご覧になり、「お問合わせ」からご連絡ください。一ヶ月2千円で、父母両家の供養を毎日受けることができます。遠方の皆様には郵送します。
先祖供養は何が楽しみか
令和8年9月7日
あさか大師では9月5日(土)・6日(日)の午後1時より、総回向法要(先祖供養)を勤修しました。雨天にもかかわらずご信徒の皆様が参集し、霊前にむかって読経の功徳を捧げました(写真)。

この法要は単なる回向ではなく、私たちのルーツである父母両家にアプローチする「人生を変える先祖供養」を目ざしています。そしてお経を読誦するにとどまらず、真言密教の行法によって仏を呼び、先祖に対しても直接にパワーを送ることができます。
先祖供養による霊験は数知れませんが、私たちが思いを寄せる人たちと、あの世でどんな再会をするか、それも楽しみの一つでありましょう。あの世は時間と空間の制限がありませんので、会いたい人との想念が通じれば、必ず会うことができます。
睡眠中に他界した人と出会うのは、この世とあの世を交流するからです。いわば、どなたでも幽体離脱を体験しているということです。そんなバカなと思うかも知れませんが、それは睡眠から覚めて「夢もみなかった」と思うに等しいことです。夢はどなたでも、睡眠中に体験します。ただ、目覚めてからの記憶にないだけなのです。霊媒師が自分が話したことを、何も覚えていないのも同じ理由です。
私は毎朝の行法で、ご信徒の皆様はもちろん、自分の先祖も読み上げしています。それは私があの世へ往った時の楽しみでもあるからです。四十九日(中陰)の幽界で会えるか、三途の川の向こう岸で会えるか、あの世で過ごす霊界で会えるか、もしかして天上界で会えるか、考えるとわくわくします。先祖供養の楽しみであり、また醍醐味でもありましょう。
*あさか大師の先祖供養に関心のある方は、筆者のこれまでのブログやホームページの「先祖供養」をご覧いただき、「お問合わせ」からご連絡ください。
9月の伝道法語
令和8年9月5日
9月の伝道法語です(写真)。秋彼岸にちなんで境内に掲示し、ご参詣の皆様にご披露しています。

この世とあの世は共にありますが、川の両岸に喩えることもできます。すなわち、この世を此岸とするなら、あの世が彼岸です。迷いの多いこちら側が此岸なら、悟りを意味するあちら側が彼岸です。そして、その間に流れるのが「三途の川」です。だから、これをどう渡るかが、人生の一大事といえましょう。
仏教は地獄絵図によって、善事によって功徳を積まねばならぬことを教えてきました。三途の川には奪衣婆がいて、亡者の衣類をはぎ取り、その重さを測るという象徴的な姿でこれを説いています。衣類の重さを測るとは、生前の地位や財産への執着、業の深さを意味します。
つまり、すべてを捨てた裸の自分がさらされ、あの世に持ち越せるものは功徳だけであることを教えているのです。三途の川をどう渡るかは、この世でどれだけの善事をなし、どれだけの功徳を積んだかで決まります。
水上を飛ぶように渡る人は業が軽く、生前の功徳が豊かな人です。逆に石を背負ったような足取りで渡る人は、残念ながら生前の功徳が足らない人です。いずれの姿で三途の川を渡るか、それはこの世の生き方しだいです。
9月の強運者
令和8年9月4日
9月7日~10月7日までが、暦法での9月となります。一白水星が中宮するので、南が暗剣殺、北が五黄殺、東が月破となり、注意する方位です(写真・北が下となり、一般の地図とは逆になります)。

9月の強運者は、一位が九紫火星、二位が二黒土星、三位が五黄土星です。
九紫の人は巽宮(木星)にあって自分(火星)が生じられるため、きわめて強運です。パワーがあふれ、目標を達成するに必要な人や情報が集まってきます。かかえている問題を解決する好機にもなりましょう。熱意をもって前進し、最後までやり抜くことが大切です。
二黒の人は乾宮(金星)にあって、自分(土星)が影ながら尽くすことで、成果を得ます。特に目上や上司への配慮を怠ってはなりません。誠実に勤めることで信用が高まり、必ず認められます。決して結果を急がず、あせらずに海路の日和を待ちましょう。
五黄の人は離宮(火星)にあって自分(土星)が生じられるため、強い運勢に恵まれます。過ごしやすい季節と共に、やる気が出ることでしょう。ただ、分離作用がはたらくので、口論や仲間割れには注意しましょう。〈和〉の大切さを忘れぬことです。
その他の人は、ホームページの「今月の運勢」をご覧ください。〈運〉は人の生き方と心がけが作るのです。暦はそのための指針となります。。
続・カレーの秘伝
令和8年9月1日
前回、日本のカレールーにちょっとケチをつけましたが、言い過ぎでした。お詫びをせねばなりません。野菜がゴロゴロはいった家庭のカレーも、なるほど「うまい!」と思うからです。夕暮れ時、手作りのカレーを作る楽しさは、人生における幸せのひとときではないでしょうか。
南こうせつ『荻窪二丁目』の、「荻窪二丁目裏通り どこかの窓から幸せそうな カレーライスの匂いがいつか 僕の心を急がせる」は、決してインドカレーではないはずです。小麦粉や油脂をスパイスで固めたカレールーの発明は、まさに日本の栄誉だと思います。ただ、「おふくろの味」として脳裏に残るためには、何か工夫を加えることも必要でしょう。

たとえば、市販のカレールーにクミン(写真右)を加えると、濃厚でかなりの深みが出ます。また、若い方にはガラムマサラ(写真左)を加えると、香りも辛味も増して喜ぶはずです。主婦の方は独自の味を工夫して、「幸せの匂い」を作り出してはいかがでしょうか。子供たちは、それを待つ時間がごちそうです。ご主人は居酒屋に寄らずに、「心を急がせて」帰るはずです。
老いも若きも、これほど喜ばれる料理はありません。ご自宅の窓から、幸せの匂いを漂わせましょう。いっしょにカレーを食べることで、家庭が平和になります。マンダラ世界に争いがないように、カレーによって世界が平和になります。真言密教が偉大であるなら、カレーもまた偉大な料理です。
*豪雨被災各地の皆様には、謹んでお見舞いを申し上げます。一日も早い復興を遂げ、平穏な日常が戻りますことをお祈りいたします。合掌
カレーの秘伝
令和8年8月29日
私は僧侶をやめたら(もちろん、やめませんが)、インドカレーの専門店を開きたいと思っていたことがあります。子供の頃からカレーを研究し、特にインドカレーについてはかなりの自信を持っているからです。カレーは各種のスパイスと共に、酸味・苦味・甘味・辛味・塩味のいわゆる五味が混然一体となり、絶妙の味覚を完成させた料理です。いわば、諸仏諸尊と異教の神までを融合した「マンダラの料理」でありましょう。まさに、真言密教の極意はカレーにあるといっても過言ではないのです。
インドには、いわゆるカレー粉という商品はありません。家庭ごとにスパイスを調合し、その家庭ならではの〝カレー粉〟を作ります。また、日本の家庭のようにカレールーを入れ、小麦粉でとろみを出す調理法は本来のカレー料理ではありません。インドでは野菜やヨーグルトでとろみを出すので、さらっとしていて、かぎりない奥行きがあります。
夏にはカレーが合うので、一度は作りたいと思っていましたが、今年はどうやら果たせそうもありません。何しろ時間がかかります。以前の記録をさぐって、作ったことにしましょう(写真)。

私の担当は、いわゆるカレーソースを作ることで、ほかのトッピングは誰にでもできます。特に炒りココナッツやキノコ類の炒めものは人気があるようです。また辛味を調和させる干しブドウ、飲み物としてはミルクティーにスパイスを加えたマサラチャイがよく合います。鶏肉はヨーグルトに漬けると柔らかくジューシーになります。
もう、9月です。大汗をかいてインドカレーを食べたいと思いましたが、残念でなりません。来年、果たせるかどうか。今夜も粕汁を作って、雑穀米をいただきましょう。
続々・あの世は「ここ」にあるのです
令和8年8月26日
この世とあの世の関係で、もう一つ大切なことをお話いたします。それはこの世の肉体的また物質的世界と、あの世の精神的また霊的世界とがいっしょにあるということです。そして、この世の人はあの世の世界に、生きているうちに目覚めねばならないということです。
この世で健康に恵まれ、おいしいものを味わい、地位を得て、財産を残せれば、それに越したことはありません。しかし、これらは何ひとつとしてあの世に持ち越せるものはありません。持ち越せるものはどれだけ人のために尽くし、喜ばれ、感謝されたかという功徳だけなのです。そして、それを成し遂げるにはあの世の力、つまり精神的また霊的な融合がなくてはなりません。
つまり、個人の努力だけでは功徳は積めないということです。あの世の守護霊や先祖の協力なくして、功徳を積める人生は歩めません。どのような分野でも、すぐれた業績には、必ずあの世との融合があります。偉大な発見も、すぐれた芸術も、それはあの世からのインスピレーションによって成就するからです。
仏教では、あの世の三途の川を渡る時、奪衣婆によって衣服を脱がされると説明してきました(写真は『熊野観心十界曼荼羅』)。これはあの世には、一切の地位も財産も持ち越せないことを象徴的に教示しているのです。私たちはこの世の肉体的また物質的世界な世界から、精神的また霊的世界な世界に目覚めるために、この世に生かされているのです。

あの世への関心を高め、魂を磨き、先祖への報恩を忘れぬ生活に目覚めましょう。先祖供養にも励みましょう。それが人としてこの世に生かされた責務です。肉体としての自分がいれば、霊体としての自分が同時にいます。この世とあの世は、同時にあるからです。そして、あの世は「ここ」にあるからです。
*あさか大師の先祖供養に参加をご希望の方は、ホームページの「先祖供養」をご覧になり、「お問合わせ」からお気軽にご連絡ください。住職も弟子僧も誠実に励んでいます。ご負担のない供養料で、どなたでも参加することができます。遠方の皆様には郵送いたします。
続・あの世は「ここ」にあるのです
令和8年8月24日
あの世が「ここ」にあるとは、また〝いっしょにある〟という意味でもあります。いっしょにあるとは、表裏の関係であり、同時にある関係ともいえましょう。
そのことを説明するには、蓮の花にたとえるのがよいかも知れません。蓮は汚れた泥の中(煩悩)から、清らかな花(悟り)を咲かせます(写真は筆者)。この場合、煩悩の泥がなければ、悟りの花も生まれないというところに仏教の極意があります。つまり、煩悩と悟りはいっしょにあるということです。煩悩がなければ、悟りは生まれないし、煩悩を転じてこそ悟りが生まれるということです。蓮の花が仏様の象徴とされるのも納得されましょう。

同じように、この世とあの世はいっしょにあるのです。この世はあの世の写しであるから、「現世」といいます。この世の姿はあの世の写しなのです。だから、私はいつも「あの世はここにありますよ」とお話をしています。この世の病気は、あの世の病気です。この世の苦悩は、あの世の苦悩です。この世の姿を通じて、私たちはあの世の姿を知るのです。先祖供養はこの世に生きる私たちの、大切な責務です。来月のお彼岸に向かって、先祖供養の大切さを改めて考えねばなりません。
私たちは肉体によって生きていますが、幽体も霊体も衣類のように身につけています。ただ、普通の感覚ではわかりません。しかし、私のお話を心から信じられる方は、あの世との感覚が鋭い方です。仏縁の深い方です。私と共に、先祖供養に励んでいただきたいと思います。
*あさか大師の先祖供養に参加をご希望の方は、ホームページの「先祖供養」をご覧になり、「お問合わせ」からご連絡ください。高額な供養料はいただきません。勧誘もいたしません。どなたでも気軽に参加できます。遠方の皆様には郵送いたします。
あの世は「ここ」にあるのです
令和8年8月22日
私はいつも、あの世は遠い彼方にあるのではなく、「ここ」にあるのです、とお話しています。「ここ」とは、私たちがいる場所の意味でもありますが、私たちの心の中をも指すのです。だから、あの世は私たちの心の中にあって、先祖もまた、私たちの心の中にいるのです。
19世紀のフランスにおける最も偉大な思想家であり、また教育者でもあったアランは、著名な『幸福論』(写真は岩波文庫)において、「死者たちは死んでいない。そのことはまったく確実である。死者たちは考えている、語っている、行動している、助言し、欲し、承認し、避難することができる。これらはすべて本当である。しかし、それに耳を傾けなくてはならない。それらはすべて、われわれの内にある。われわれの内で、確かに生きているのだ(一部中略)」と語っています。

私は若い頃にこの本に接し、何年かに一度は思い出したように再読してきました。それはまるで古い友人に会うような楽しみで、読書とは人生の邂逅であると憶念したものです。当初の蔵書は製本も劣化したので、二年前に新たに購入し、大切に保管しています。
先祖が私たちの心の中にいるという真実を、かくも大胆に表記している文章を、私はほかに知りません。しかも、このようなアカデミックな著作においてです。実はアランはペンネームで、本命をエミール・オーギュスト・シャルティエといい、生涯を(大学教授ではなく)高校教師として過ごしました。彼の授業を受けたフランスの高校生は、とても幸せな時間を過ごしたと思います。
それにしても、このような文章を残した偉人が、フランスから出ている史実も奇妙です。フランス国民が日本人や日本の文化を特に好むことと、あながち無関係ではないかも知れません。
*あさか大師では先祖供養の大切さを公布しています。お墓や菩提寺がなくとも、わずかな供養料でお気軽に参加することができます。関心のある方はホームページの「先祖供養」をご覧になり、「お問合わせ」からご連絡ください。遠方の皆様には郵送します。
ノーベル賞を生んだ日本のスイカ
令和8年8月19日
暑い日には、スイカでも食べたいものです。スイカは皮も果汁も漢方に用いられ、炎暑のほてりを鎮めてのどを潤し、尿の出をよくする働きがあります。また、少量の塩を加えて食べればナトリウムと糖分を含んだ経口補水液となり、熱中症対策にもなりましょう。ただ、最近はえらく高価で、気軽には買えなくなりました。今日はこのブログのために奮発したほどです(写真)。

また、日本のスイカからは、すぐれたアミノ酸が検出された歴史があります。1930年、東大の和田光徳教授がこれをシトルリン(スイカの意味)と命名し、血流サイクルの改善に効能があることを発見しました。そして、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のルイス・イグナロ博士は、この効能が血管系伝達物質である一酸化窒素(NО)のはたらきであることを発見し、1998年にはノーベル生理学・医学賞に輝きました。
イグナロ博士はこの一酸化窒素の効能を証明するため、64歳からマラソン大会に出場し、妻や友人たちと年に1~2度のペースで完走しています。そのほか、ロードバイク(自転車)にも挑戦しており、その若さには驚嘆せざるを得ません。
19世紀における偉大な医学者であるウイリアム・オスラー博士は、「人は血管とともに老いる」という名言を残しました。血管が硬くなり、血栓ができれば全身の細胞や臓器が衰えます。しなやかな血管とスムースな血流に導くシトルリンが、日本のスイカから発見された功績は、永く歴史に残ることでしょう。スーパーでスイカを見たら、買わなくてもいいから、合掌ぐらいはせねばなりません。

