山路天酬法話ブログ

クヨクヨする人の妙薬

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健康

令和8年5月25日

 

中医学(漢方)では、クヨクヨする人は「血虚けっきょ」の症状と診断します。いわゆる血液が不足し、脳や神経に十分な栄養が届かなくなって自律神経が乱れ、クヨクヨとした思い悩みが増えるという意味です。

そのような方に、私は妙薬としてナツメをおすすめいたします。ナツメは「大棗たいそう」と呼ばれる生薬ですが、いわゆる食品として簡単に買うことができます。日本料理にはあまり使われませんが、韓国のサムゲタンや中国のフォゴー(火鍋)、またおかゆにもよく使われます。ミネラルが豊富で、滋養強壮や精神安定、鎮痛や利尿への効能があり、クヨクヨする人には最良の妙薬としか言いようがありません。

また、真言密教では「星祭り」の仙果せんかとして、必ず供えます(写真)。星の神様が喜ぶ゛〝仙人のお菓子〟ですから、その効能は充分に納得されましょう。もちろん、お大師様にもお供えしています。

ただし、よく洗ってください。私は洗って乾かした後、ビンに詰めて身近に置き、おやつとしていただいています。中国には「一日にナツメを3個食べると不老長寿を得る」との伝承があり、私は熱心な信者になりました。一説には、花粉症の妙薬とも。ぜひ、お試しあれ。

最高の声出し健康法

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健康

令和8年5月23日

 

声の大きい人は健康で元気です。まわりの人を見てください。まず、間違いありません。反対に声の小さい人は、何か気弱で元気がありません。これも間違いありません。

そもそも、人は生まれたその瞬間から、声を出すことで自分の存在を主張するのです。だから、泣き声の大きい赤ちゃんほど、その元気を証明しています。赤ちゃんの「泣き相撲」も、「なるほど!」と思いませんか。

そこで、進んで声を出すのが「声出し健康法」で、一番人気はカラオケです。お医者さんもすすめますが、肺の悪い人や元気のない人は、若いころの曲を思いっきり歌ってみるとよいでしょう。初期の肺がんが消えた実例があるくらいです。コーラスや詩吟などもおすすめです。野球やサッカーで歓声をあげる人はハツラツとしており、長寿者がプロレス番組に気勢を上げるのも、これみな声が関与しています。

しかし、私が最もおすすめする声出し健康法は、何といっても「読経」です。なぜなら、読経は健康法に加えて〝功徳〟になるからです。自分のためにとどまらず、親のため、先祖のため、国のためになるからです。これほどの健康法がほかにあるはずがありません。

当山では『あさか大師勤行式』(写真)を刊行し、お護摩や総回向法要の折には全員で、大きな声で読経しています。それこそ、老いも若きも、子供までもです。覚えようとする必要はありません。初めはむずかしいと思っても、繰り返しているうちに自然に覚えます。

ちなみに、生まれる前からお腹の中で読経を聞いて育った子は、特に元気で聡明です。これはもちろん読経の功徳をいただいたからで、両親のDNAに仏様の智慧が加わるからです。また太鼓やホラ貝の響きが、勇気を与えます。私は妊娠中の女性には、進んでお参りするようお話をしています。

読経は最高の声出し健康法です。これで先祖供養をなし、願いごとが叶い、お香で心をいやし、四季の花をで、法話が聞けるのですから、お寺ほどよいところはありません。さらに温泉があればこの世の極楽ですが、いかがでしょうか。

*『あさか大師勤行式』(2000円)をご希望の方は、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。振込用紙を同封して郵送いたします。

摩利支天の団扇

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文化

令和8年5月21日

 

孔雀明王に続いて、摩利支天まりしてん(写真は大正蔵図像の一図。このほかイノシシに乗る猪突猛進の姿もあります)の伝授をいたしました。摩利支天は陽炎かげろうの神格とされ、その実体がなく、姿を見られず、傷つけられぬことから「隠形の神」や「戦場の守護神」とされています。

したがって、戦国時代から江戸時代にかけては楠木正成や徳川家康など、名だたる武将から絶大な信仰を集めたことは言うまでもありません。経典にも、まげかぶとに摩利支天像を入れると強いご守護を得ることが明記され、実行していた武将もおります。

この摩利支天が持っている団扇だんせんにはまんじと日輪が描かれ、仏(大日如来)の化身として勝敗の判定をします。相撲の行司が持っている軍配ぐんばいも同じ意味です。いわゆる制限時間いっぱいになると「軍配を返して」勝負を判定するということです。摩利支天が相撲の中に息づいている事実は、いかに根強い信仰があったかの証明でしょう。

ちなみに、私は子供の頃から、相撲の行司が観客に向かって何を言っているのか、とても気になっていました。「かたや」は「片方は」、「こなた」は「こちらは」です。「はっけようい」は「発気揚々はっきようよう」または「発気用意はっきようい」です。「気合を入れて全力で勝負せよ」という意味でありましょう。

ところが、結びの一番の立行司たてぎょうじの口上が、長い間わかりませんでした。2001年に刊行された齋藤孝氏の『声に出して読みたい日本語』(草思社)を手にして、初めて知ったのです。すなわち、「番数ばんかずも取り進みましたるところ、かたや〇〇の山、〇〇の山。こなた△△の海、△△の海。この相撲一番にて、本日の打ち止め~」となり、15日目の結びの一番のみ「千秋楽にございます」と、丹田からしぼり出すように唱えるのです。行司もまた、全身全霊で発気します。

相撲は日本の国技であり、これを放送するNHKはこうした伝統ある日本語を、わかりやすく国民に伝える義務があります。このほか行司の修練や呼び出しの日常、番付を書く勘亭流かんていりゅう書体の筆技など、番組の間に紹介すれば、視聴率はさらに上がりましょう。明らかな怠慢です。皆様はどのように思われましょうか。

摩利支天のお話が、あらぬ脱線をしてしまいました。お許しを。

孔雀明王の秘法

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真言密教

令和8年5月19日

 

昨日はご要望があって、孔雀明王くじゃくみょうおう(写真)の秘法を伝授しました。同法は真言密教では秘中の秘とされ、今や伝授する阿闍梨あじゃり(法の師僧)も少なくなりました。私も真摯しんしに戒律を守り、真剣な求道者以外には授けないことにしています。

真言密教にはたくさんの仏様・神様が曼荼羅に描かれ、皆様は最も法力が強いのはどなたなのかと、素朴な疑問を持っているかも知れません。ひょっとしたら、聖天様かと思いますか。いや、お不動様か観音様だろうと思いますか。いやいや、大元帥明王だいげんすいみょぅおうだと聞いている、という方もいるはずです。

はっきり申し上げれば、それは大日如来(つまり、お大師様そのもの)であるといえるのです。しかし、大日如来はいろいろな姿に化現してお働きになります。その中であえて申し上げるなら、一字金輪いちじきんりん(大日如来の別身)であるといえましょう。一字金輪は余尊を圧倒する法力があり、いかなる諸仏諸神もこの尊に及ぶものはありません。だから、どの尊を拝んでも、最後には一字金輪の真言を加えて、修法や念誦の功徳が失われないようにするのです。どの尊の御札にも一字金輪の梵字を入れるのも、同じ理由です。

ところが、この一字金輪と孔雀明王は同体なのです。つまり、一字金輪と孔雀明王を一体にして祈れば、最勝の本尊となることは間違いありません。だから秘中の秘なのですが、これ以上は、もうお話できません。

あさか大師にも小さな孔雀明王像があり、私も毎朝の修法に加えています。特に天災や戦争、経済不安に対して、よく祈念を込めています。お大師様の左下に安置してありますので、お心のある方はお参りください。ただし、我欲な願いや呪詛を込めた祈りはお断りいたします。お大師様のお足元で、失礼があってはなりませんので。

お金は生きものです

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金運

令和8年5月17日

 

本日午前11時半より、金運宝珠護摩を奉修しました。たくさんの皆様が参詣し、如意宝珠のパワーを受け、金運銭をいただきました(写真)。また遠方の皆様は、同時祈念によってお護摩との感応道交をはかりました。

前回、「お金が人を選ぶのです」とお話しました。これは、「お金は生きものです」いう意味でもあります。生きものである以上、自分が好むところを求め、自分が嫌うところを避けます。私たちはいろいろな人を見て判断し、人を選んで生きていると思うかも知れませんが、実は〝選ばれる〟立場であることを忘れています。

お金もまた同じです。自分はお金を稼いでいると思っていますが、実はお金から選ばれているのです。どういう人を選ぶかといえば、もうお話するまでもありません。自分にふさわしい功徳のある人を選ぶということです。そして、自分を理解し、自分に好意を寄せ、自分を大切にしてくれる人を選ぶということです。人と人との交友と、何ら変わりません。

お金に選ばれる功徳が積めるよう、私たちも励みましょう。金運宝珠護摩はそのことを目ざしています。ただ生きるだけではなく、ただ働くだけではなく、人が喜び、人から感謝をされる何かを与えましょう。それによって自分が心から喜べる時、功徳が積めるのです。そして、生きものであるお金はそういう人を選ぶのです。

お金が人を選ぶのです

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金運

令和8年5月15日

 

あさか大師では5月17日(日)午前11時半より、金運宝珠護摩が奉修されます。お参りの皆様は如意宝珠のパワーを直接いただき、金運銭(写真)を持ち帰って成就を目ざしましょう。遠方の皆様は同時祈念によって、お護摩との感応道交をはかりましょう。

私たちはこの世の財産を、あの世に持ち越すことはできません。つまり、この世の貨幣は、あの世では何の役にも立ちません。それでも、私たちは人生の大半を、お金のために費やしています。あの世に持ち越せないお金のために生きねばならないとは、何んという矛盾でしょうか。

私はいつも、あの世に持ち越せる唯一の財産は〈功徳〉であるとお話しています。功徳とは人に好かれ、人に感謝されるプラスの想念(オーラ)です。金運宝珠護摩が目ざすのは、実は功徳によって金運増大をはかり、この矛盾を超越することです。

お金に対する最大の間違いは、「人がそんをすれば自分はもうかる」という考えです。多くの人がこのあやまちを犯しています。その結果はどうなるでしょう。必ず信用を失い、恨みを買い、結局は人からもお金からも逃げられます。

本当のお金持ちは、何をしたら人が喜ぶか、何をしたら社会の利益になるか、これだけを考えているのです。つまり、何をしたら功徳になるかを考えているということです。すると黙っていても、お金が後ろから追いかけて来るのです。だから、お金がいくらでも入るのです。普通の人は反対です。どうしたらお金になるか、どうしたら儲かるかと、後ろからお金を追いかけています。お金は追われることを嫌います。これでは、お金に嫌われるのが当たりまえです。

お金をかせぐといいますが、実はお金が人を選んでいることを忘れてはなりません。どんな人を選ぶかというと、人に好かれ、人に感謝される、つまり功徳のある人です。功徳は単に働くだけで得られません。単に商品を売るだけでは得られません。人に好かれ、人に感謝される何かを与えることです。そういう人を、お金は選んでいるのです。

続・先祖はどこにいるのか

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令和8年5月12日

 

次に地獄のお話です。凶悪殺人者・麻薬中毒者・悪質な詐欺師・人を犠牲にした富豪・戦争犯罪者などは地獄へ行きます。地獄絵図には恐ろしい獄卒ごくそつ(地獄の鬼)が刑罰を与えていますが、すべては本人の悪業の想念であることを知りましょう(写真は『矢田地獄縁起』より)。あの世では罪の隠しごとができません。それは、本人が一番よく知っており、自分が自分を裁くからです。

ただ、民族の宗教や風習によって、心の想念に違いがあります。日本人には閻魔えんま様や奪衣婆だつえばが象徴的な姿として登場します。それはどんなに法律をくぐり抜けても、人をだまし通しても、自分で自分にウソをつくことはできないからです。これは、地獄に対して私たちが知っておかねばならない真実です。

そこで、私が考えているもう一つの真実をお話しましょう。それは人がこの世でもあの世でも、苦しみを受けるのは悪業の浄化であるということです。仏教は因果応報を説きます。善因善果・悪因悪果であり、自業自得とも言います。しかし、因果の理を説きつつ、因果を越えるもう一つの理があることを忘れてはなりません。

衣類を洗えば、水は汚れます。汚れる姿が洗う姿にほかなりません。その水の汚れが苦しみです。地獄とはまさに、魂の洗濯、魂の浄化なのです。地獄の獄卒はそれを承知し、苦しみを与えて魂を救っている姿なのだと私は考えています。ただ、浄化の苦しみがあまりに大きいと、この世の私たちに悪影響を及ぼすことは否めません。

だからこそ、私たちには先祖供養が大切なのです。この世とあの世は同時にあります。私たちはこの世とあの世を共に生きています。しかし、あの世からこの世は見えても、この世からあの世は、普通の意識では見えません。だから、あの世のことは、理性では判断できません。私のお話も、信じていただく以外にありません。私のお話で何か魂が納得したような、そんなお気持ちになったなら、あなた様は立派な功徳が積めるのです。地獄も極楽も心の中にあります。そして、仏様も先祖も心の中にいるのです。

*あさか大師の先祖供養に関心のある方は、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。先祖供養は継続することが大切です。また、形式的な法事や墓参では、「人生を変える先祖供養」にはなりません。供養料は父母両家を合わせて、一ヶ月2000円です。遠方の方には郵送します。むずかしいことは何もありませんが、最勝の先祖供養です。

先祖はどこにいるのか

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令和8年5月10日

 

「仏様はどこにいるのか」に続いて、「先祖はどこにいるのか」をお話したいと思います。ただ、先祖の場合は一筋縄ではいきません。なぜなら、亡くなって四十九日は中陰ちゅういん(幽界)にいますが、それからは上は天上界から下は地獄界に至るまで、さまざまであるからです。

まず、一般に「浮かばれた人」は霊界に往生します。霊界にもいろいろなランクがありますが、生前にまずまずの善行をなし、遺族の追善を受けた人は霊界で修行を積むのです。その上位に天上界がありますが、いささか難関であるといえましょう。

問題なのは臨終を迎えながら、自分が亡くなったことを自覚しない人たちです。この人たちは幽界をさまよいつつ、どこに行けばいいのかわかりません。死後や霊魂の存在を信じない人、信仰について何の関心もなかった人、自殺や変死などによってこの世を去った人などが、これに該当します。

自分が亡くなった場所だけをよりどころにする地縛霊じばくれい、行くところがなくて彷徨さまよい歩く浮遊霊ふゆうれいなどといった呼び名を聞いたことがあるのではないでしょうか。また、自分の存在を何とか知ってもらいたいと思い、人に憑依ひょういすることもあります。怖いお話ですが、これは本当です。

さらに問題なのは、お墓のことです。お墓は死者がこの世に残した唯一の身体であるお骨を納める場所ですが、それだけに遺族の祈りが届きやすい場所といえます。だから、霊界に往生した死者は、実はお墓そのものにいるわけではありません。お位牌(写真)もまた同じで、祈りがよく届きますが、お位牌そのものに死者がいるわけではありません。これはとても大事なことです。

あの『千の風になって』という歌に、「私のお墓の前で 泣かないでください 私はそこにはいません」とありますが、一面の真理ではあります。ところが、行くところがわからない死者が、いわゆる〝幽霊〟となって自分のお墓をよりどころにすることがあるので厄介です。お墓参りをして具合が悪くなった場合は、この幽霊のせいと思って間違いありません。

そして次に、地獄のお話がありますが、次回にしましょう。霊界で修行するあの世の先祖は常に子孫を想い、この世の子孫が先祖を想えば、互いに感応します。あの世の先祖が子孫の追善を受けると、必ず子孫に感謝し、よい影響を与えるのは当然です。結論を言えば、先祖もまた私たちの心の中にいるのです。私たちはこの世とあの世を同時に生きているからです。だから、先祖供養は大切なのです。

*あさか大師の先祖供養に関心のある方は、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。単なる形式的な供養でないことは、筆者のほかのブログを読んでいただければわかります。勧誘をしなくても、多くの皆様が共鳴するのは、そこに真実があるからです。

仏様はどこにいるのか

カテゴリー
真言密教

令和8年5月8日

 

「仏様はどこにいるのですか」という、素朴な質問を受けることがあります。これに対して、私は三つの視点からお答えしています。

まず第一には、仏様は私たちの心の中にいるということです。心に仏様がいるからこそ、私たちも人を思いやる気持ちがあり、そして信仰を抱くのです。『仏説聖不動経』に、お不動様は「衆生の心想しんそううちじゅうしたまう」とあるのはこの意味でありましょう。何ものにも動じないお不動様は、私たちの心想にいらっしゃるということで、これを「法身ほっしん」の仏様と呼びます。

第二には、お寺の本堂には仏像や仏画としての仏様がおり、これを「応身おうじん」の仏様と呼びます(写真はお不動様)。

よくお話をするのですが、国立博物館で「密教美術展」とか「〇〇寺名宝展」などの開催があると、たくさんの人々が群がって入場します。入場券を求めるだけでも一時間もかかるのに、列をなして並びます。これは皆様の心の中の法身の仏様が、仏像や仏画の応身に会いたいと思うからです。そうでなけば、高い交通費をはらって、遠方から出向くはずがありません。

そして第三には、仏様は浄土にいらっしゃるので、これを「報身ほうじん」の仏様と呼びます。浄土とは曼荼羅の法界ともいい、真言密教ではここから本尊様をお迎えします。そして、行者は自身の法身と、壇上の応身と、法界の報身を冥合みょうごうさせるのです。

よく、自然という〝大宝殿〟があるのに、どうして寺院や本尊が必要なのかと主張する知識人(?)がおりますが、それは間違いです。私たちは形ある姿を通じてこそ、心の中を見ることができるのです。応身の仏像や仏画があるから、心の法身がこれに感応するのではないでしょうか。「信は荘厳から」とは、この意味なのです。仏様は私たちの心の中に、そして仏像や仏画にも、また浄土にもいらっしゃるのです。

5月の伝道法語

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人生

令和8年5月5日

 

五月の伝道法語を、境内の掲示板に公開しています。お隣りの老人ホームの方が、よく声に出して読んでくれています(写真)。

人生に失敗はつきものです。いや、成功よりも、むしろ失敗することの方が多いはずです。何度もの失敗を重ねた上に、やっと成功があるといった方が適切かも知れません。

だから、前向きなプラス思考も大切ですが、マイナス思考もまた大切です。最悪の事態に対する備える覚悟がないと、イザという時の対応ができません。人はその失敗の時にこそ、真価が問われます。失敗という逆境から何を学ぶかで、次の成功を手にすることができるからです。失敗から何も学べなければ、それは、ただの失敗に過ぎません。もし「成功の法則」というものがあるなら、それは「失敗の法則」でありましょう。逆境の時にこそ、決して沈んではなりません。

しかし、順境の時に浮かれてはなりません。三度ことをなして、三度とも成功したとするなら、むしろ「危ない!」と思いましょう。その成功が浮かれ気分となり、自信過剰となり、増上慢となり、取り返しのつかない失敗を招くからです。人生とは沈まず浮かれずの二つながらを、常に心得ることが大切なはずです。

 

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