山路天酬法話ブログ
金運宝珠護摩の功徳
令和7年10月19日
本日は午前11時半より金運宝珠護摩を奉修して、たくさんの皆様が参詣しました。皆様が僧侶と共に声高く読経し、堂内に如意宝珠の功徳が遍満しました(写真)。また、遠方の方には同時祈念をおすすめし、それを実行していただきました。
なお、お護摩の前には新一万円札の渋沢栄一について法話をしました。渋沢栄一は幕末、本県深谷市の農家に生まれましたが、農作業のかたわら、懸命に『論語』を学びました。そして、生涯に500もの会社を創立しましたが、思想の根底は常に「論語とそろばん」でした。『論語』は道徳、そろばんは商売を意味します。
道徳と商売は矛盾するように思う方もいるでしょうが、それは間違いです。すぐれた商人は、道徳的にもすぐれた人物であることは間違いありません。なぜなら、お客様を大切にして、お客様が喜ぶことを提供し、互いに利益を上げるためには、誠実で礼儀正しい道徳の力が必要だからです。
人をだまして利益を上げても、一時的には裕福になるでしょうが、いずれは信用を失い、必ず破産します。与えずして得たものは、つぐなわねばならないからです。
この金運宝珠護摩は人徳の向上による、金運増大を目ざしています。「論語とそろばん」とは言い得て妙、すばらしい金言です。肝に銘じねばなりません。
人徳と金運は矛盾するのか
令和7年10月17日
あさか大師では19日(日)午前11時半より、〈金運宝珠護摩〉を奉修いたします。ご参詣の皆様は直接にお護摩のパワーをいただき、金運銭(写真)をお守りにしてそのパワーを持続させてください。遠方の皆様は同時祈念によって感応道交をはかり、金運増大を目ざしましょう。
この金運宝珠護摩は、人徳の向上によって金運を向上させることを目標にしています。人徳と金運は矛盾するように思うかも知れませんが、それは間違いです。すぐれた事業家や資産家は、礼儀正しく、約束を守り、誠実で、人に好かれ、社会に喜びを与える人徳があるからです。
渋沢栄一はこれを、「論語とそろばん」と表現しました。論語は道徳、そろばんは商売を意味します。道徳的にすぐれなければ、すぐれた商人にはなれないと、ずばり喝破しています。
ややもすると、人は「相手が損をするだけ、自分は儲かる」と思いがちです。しかし、お金は互いに利益がなければ動きませんし、自分にも入って来ません。人が喜ぶことを与える人が、自分もまた喜べるからです。才能も大切ですが、人は結局、行きつくところ人徳に尽きるのです。
お金に対する正しい見識をもって仕事に励み、人にもお金の神様にも好かれましょう。論語とそろばんです。
あさか大師の御朱印
令和7年10月15日
あさか大師では御朱印も受付けており、最近はご希望の方が増えています。寺紋の桜模様の料紙で、ちょっと派手な御朱印です(写真)。
筆書きは「奉拝 あさか大師 遍照殿 令和〇年〇月〇日」と読みます。特に〈奉・殿〉は草書体で読めないと思いますが、御朱印ではよく使われる書体です。
お寺への参詣に、御朱印帳を持参なさると、記念にもなり、励みにもなります。ところが、現代はお坊さんの〈小僧教育〉がないためか、書道の稽古が足りません。お札やお塔婆を見ても、ガッカリすることがあります。
お坊さんはやはり、お経と書道だと思います。つまり、読経ができて達筆であることが、きわめて重要だからです。世間では「お坊さんは字がうまい」と思っているのですから、もっと励まねばならないと思います。
お大師さまは日本書道の筆頭です。中国書道の書聖・王羲之(東晋時代)に並ぶ方は、お大師さましかいません。だから、特に真言宗のお坊さんは、宗祖の書を学ぶ責務があります。そのお大師さまでさえ、「数々、古人の至意をうかがう(性霊集)」とあり、書道古典の極意を学んでいるとおっしゃっているのです。戒めねばなりません。
社員の心を一つにするために
令和7年10月13日
一昨日、ある土木会社の社員が全員で集まり、社運隆昌と工事安全の祈願をしました(写真)。時には危険を伴う土木工事は、何よりも点検と安全を心がけねばなりません。社長さんをはじめ、社員一同が真剣な祈りを込めました。
言葉は大切で重宝ですが、言葉だけで人の心はまとまりません。それには神聖な「儀式」が必要だからです。仏壇や神棚があって親や祖父母が礼拝という儀式をすれば、子供は言わずとも真似をします。そして、一家の心が一つにまとまります。
学校に入るには入学式があり、結婚するには結婚式があります。宮参り・七五三・成人式・還暦祝・米寿祝、みな同じです。人の一生は、こうした儀式によって成立するのです。儀式がなければ、人はそれを〝実感〟することができません。
この社長さんはどのような訓示よりも、お護摩の浄炎と読経の響きこそ、社員の心を一つにすることを知っているのです。このような心ある社長さんが増えてきたことは喜ばしいかぎりです。「仏教はむずかしいかも知れないが、信心があればやさしく教えられる」とお大師様はおっしゃっています。
愛染明王と不動明王
令和7年10月11日
あさか大師の本尊〈厄除弘法大師〉の両脇には、不動明王と愛染明王がお祀りされています。その理由は、お大師様の右手の法具(五鈷杵)は金剛界の愛染明王(写真上)を、左手の縄(羂索)は胎蔵界の不動明王(写真下)をそれぞれに表しているからです。
いずれも人間の煩悩を降伏せんがため、忿怒の形相をしています。お大師様は悟りを開かれて、柔和でふくよかなお顔ですが、そのご誓願はけわしく、きびしいものでした。そのためには、このようなお姿が必要だったのです。
そのご誓願とはこの世に人間の苦悩があるかぎり、自分の苦悩も尽きることはないという、とてつもなく遠大なものでした。そのためにも、日輪や火焔を背負い、怖い形相をしたお姿が必要だったのです。
何を成し遂げるにも、きびしさがなくてはなりません。「仏様は慈悲深い」などと甘えてはなりません。慈悲とはきびしく、はげしいものです。私たちの人生に、幾多の試練が与えられるのはそのためです。
だから、乗り越えられない試練は与えられません。活路は必ずあります。仏様を信じるとは、自分を信じることであり、自分を信じる人が乗り越えられることを教えているのです。お大師様がおわします。そして、忿怒尊が試練を与えてくださいます。
サッカー部の必勝祈願
令和7年10月8日
一昨日、地元高校のサッカー部80名が、監督・コーチ・父兄と共に必勝祈願に参集しました(写真)。父兄は千羽鶴を織って護摩壇の前に供え、一心に祈りを込めました。
埼玉県は〈浦和レッズ〉や〈大宮アルディージャ〉のお膝元であり、サッカーの強豪高校が並ぶだけに、彼らはきびしい練習に励んでいます。それでも、堂内の異次元空間に入るや、お大師様の尊前では緊張の連続でした。
彼らは原野を突き進む虎のように狙い、立ちはだかる厚い壁に向かって、今日も挑戦を続けています。健康な体は毬のように弾み、その熱気を放ちながらグランドに走って行きました。日焼けした顔からのぞかせる白い歯が、いつまでも私の記憶に残りました。
この世の月、あの世の月
令和7年10月7日
幼い頃、東の空に昇った月の隣りに、もう一つの淡い月の姿を見たことがありました。私は何だろうと思いつつも、誰に話すこともなく、記憶からもしだいに薄らいでいきました。
ところが三十代になって、ある山奥の断食道場に入門した折、二つの月を描いた絵が目につきました。その意味を道場主に問いましたところ、「片方はあの世(霊界)の月です。あの世にも、この世と同じように月があるのです」という答えでした。私はたちまち幼い頃の記憶が甦り、あ然としたものでした。後年、私が「双月子」という雅号を名のったのは、この体験からの由来です。
昨夜は陰暦八月十五日の〈中秋名月〉でした。そして今夜が天文上の満月で、一日のズレがあります。関東地方はいずれも曇り空で、残念ながら〈お月見〉が叶いません。
そこで、あの世の月に供える意味で、ススキとお団子(弟子僧の手作り)を飾りました(写真)。ススキの右上あたりに、あの世の月があるかも知れません。花器は平安時代の瓦製経筒で、写経を埋葬した容器です。
見えない月に供えるのも粋なものです。境内の地面と、桜並木と、曇り空がおりなす影絵に、お供えが映えました。桜木の枝は重なり、暗夜の虚空に秋のレジェンドがそこにいます。
再び、死者は生きている
令和7年10月6日
昨日お話したように、あさか大師では「死者は生きている」という理念のもとに、「人生を変える先祖供養」を提唱しています。
生きている死者とは、まず血のつながった直系の「先祖代々」です。遺伝子によって、生前の生き方を私たちが受け継ぐ方々です。主に男性は母方を、女性は父方を受け継ぎます。いわゆる隔世遺伝とは劣性の遺伝子を指しますが、優性も劣性も祖父母の生き方が孫や曾孫に出ることは間違いありません。
では直系以外の死者で、血のつながりのない叔父叔母は何の関わりもないかといいますと、そうはいきません。特に生前にかわいがっていただいた叔父叔母は、あの世に往っても関わります。両親の兄弟ですから、これも当然のことで、これを「先亡」と呼びます。
それから、どの家にも「水子」がいます。水子は母の胎内に宿りながら、産まれ得なかった無念さを残しています。特に現代の青少年を見ると、まさに水子の無念さが投影されているように思えることがよくあります。
あさか大師では、この先祖代々・先亡・水子を統合する供養紙(お札)をお渡しています(写真)。
この供養紙に向かって私は毎朝、光明真言の秘法を修し、皆様の祈りを融合させています。大切なことは、プロの導師と共に祈ること、そして毎日のこの継続によってこそ絶大なパワーが発揮されるということです。
むずかしいことは何もありません。供養料は月に2000円で、入退自由です。遠方の皆様には郵送しますので、全国から多くの皆様が参加されています。ご希望の方はホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。
死者は生きている
令和7年10月5日
あさか大師では昨日と今日、総回向法要(先祖供養)を勤修しました(写真)。この法要は単なるご回向ではなく、自分のルーツである父母両家にアプローチして、人生を変えることを目的にしています。そして老若男女を問わず、全国からたくさんの方々がこれに参加しています。
人生を変えるいうと、成功哲学や自己啓発あり、占術や方位学 あり、パワースポットありですが、自分のルーツをおろそかにして達成できるはずがありません。これは避けることのできない人生の原点であるからです。
この世とあの世は一つです。私たちはこの世とあの世を共に生きており、あの世の姿がこの世の姿となって写し出されます。だから、この世を「現世」といいます。この事実を拒むことはできません。
20世紀のフランスにおける最も偉大な哲学者であるアランは、「死者たちは死んでいない。そのことはまったくの事実である。彼らは思考し、行動し、助言し、希望し、承認し、非難して生きている。そのことに耳を傾けなくてはならない。すべては私たちの中にあり、私たちの中で間違いなくに生きているのだ」と語っています。
あさか大師ではこれを新しい視点でとらえ、「人生を変える先祖供養」として提唱しています。一ケ月わずか2000円で、毎日、夫婦の父母四家(独身者は二家)への秘法が受けられます。入退は自由で、檀家制度はありません。遠方の方には郵送します。ご希望の方はホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。
10月の伝道掲示
令和7年10月3日
10月の伝道掲示です(写真)。平凡でありながら、人生における最も大切な心がけです。
1日の始まりは家庭でも職場でも、まずは挨拶です。「近ごろの若者は挨拶もできない」という人がいますが、では自分がご主人や奥様と、そして家族の間で、朝の挨拶をしているでしょうか。明るい職場とは、みんなで明るい挨拶を交わしているところです。
また人間関係のトラブルは、挨拶がないから始まるのです。お世話になったのに御礼も言わない、迷惑をかけたのにお詫びもしないでは、必ずトラブルになります。世の中のトラブルを見れば、その発端はこの一点に尽きるのです。
また、汚れたから清掃をするのではありません。人は環境と条件で変わります。気持ちをリフレッシュし、心を正すためには清掃をすることです。お寺では汚れていなくても、毎日、清掃をします。それは心の修行は、身辺を整えることで心が整えられるからです。
1日の終わりに反省がなければ、何の進歩もありません。人は迷惑をかけまいと思っても、必ず誰かに迷惑をかけて生きています。その謙虚な気持ちを忘れずに反省をする人は、常に進歩を遂げることができるのです。
そして、自分が出会った人に対して、感謝を忘れません。人は誰かの世話にならなければ、生きてはいけないからです。人生の幸せとは唯一、「ありがとう」という感謝によって味わえるものと知りましょう。