山路天酬法話ブログ

続・ギャンブルで財をなすのか

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金運

令和7年11月16日

 

あさか大師では本日、〈金運宝珠護摩〉を奉修しました。たくさんの皆様が参詣し、遠方の方々は同時祈願にて金運増大を念じました(写真)。

この金運宝珠護摩は、皆様が人によろこばれ、社会に喜ばれる何かを与えられるよう、その背中を押すものです。何も与えずして金運が高まることはありません。与えねば与えられないという道理は、決して変わることがないからです。「与えよ、さらば与えられん」は、古今の名言です。

だから、与えずして得たものは、いずれは必ず失います。ギャンブルで財をなすことは、絶対にありません。人をだまして利益を得ても、いずれは信用を失い、その罪をつぐなうことになります。「悪銭身につかず」とは、このことです。

この信念をもって与える人が、結局は金運を得るのです。その手がかり、足がかりをつかんでいただくのが、この金運宝珠護摩なのです。

ギャンブルで財をなすのか

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金運

令和7年11月14日

 

あさか大師では11月16日(日)午前11時半より、恒例の〈金運宝珠護摩〉を奉修いたします。ご参詣の皆様は直接にお護摩のパワーをいただき、金運銭(写真)をいただいてその威力を持続させましょう。遠方の皆様は同時祈念によって感応道交をはかり、金運増大を目ざしましょう。

金運増大のためには、人に喜ばれる何かを、社会に喜ばれる何かを与えることです。与えねば与えられることはありません。与えずして得たものは、必ず失うことになります。人に損をさせて利益を得ても、信用を失い、やがては自分が損をします。人をだましたり、ウソをついて利益を得ても同じです。

また、与えずして得たものは、いずれは返さねばならず、つぐなわねばなりません。だから、ギャンブルで財をなすことは、絶対にありません。たとえ一時的に財を得ても、それを所有する資格(つまり与えたもの)がありませんから、かえって不幸を呼ぶのです。これは国税庁の調査員が証明しています。高額所得の方々がギャンブルをしないのは、この道理を知っているからです。

この金運宝珠護摩は、皆様が人や社会に何かを与える能力が得られるよう、その背中を押すのです。パワーあふれるお護摩によってお金の神様に好かれ、人にも社会にも好かれ、与えられる人になってください。

大師流書道の看板

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書道

令和7年11月11日

 

お坊さんは読経と書道の修練に励まねばなりません。なぜなら、世間の人たちがそのように思っているからです。お坊さんなら、読経はできて当たり前だと思うでしょう。次に、字が上手だとも思っています。字が下手なお坊さんは信用されません。

昔のお坊さんは檀家さんの目の前で、位牌や墓標を書きました。その立派な字を見て、「さすがだな」と思って尊敬したのです。ところが今日は、宗門の大学でも書道の授業がほとんどありません。小僧教育もありませんから、師僧の字を練習することもありません。位牌も塔婆も堕落の一途をたどっています。

実は今日、お坊さんへの疑問が問われる理由の一つがこれなのです。パソコンで書けばいいという問題ではありません。私はこのことをうれい、真言宗の機関紙『六大新報ろくだいしんぽう』に「大師流書道講座」を連載しています。日本の書道史上、最高の宗祖を仰ぎながら、何ともったいないことかと思うからです。

私が大師流書道で揮毫きごうした、セレモニーホールの看板ができました。近所の「志木斎場」正面に設置されています(写真)。

看板屋さんの字でも、書家の字でもなく、まったくお坊さんの字だと、皆さんがおっしゃるようです。このホールに出仕するお坊さんの目に留まることを念じてやみません。

お大師様は勝負にも強い!

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祈願

令和7年11月9日

 

「厄除のお大師さま」は、選挙やスポーツの試合にも威力を発揮されます。これまで、数々の選挙戦で「必勝祈願」をしましたが、一度として敗れたことがありません。

また令和7年全国高等学校サッカー選手権大会埼玉決勝トーナメントでは、10月16日にご祈願した地元の細田学園高校サッカー部が準々決勝に進出しました(写真)。

こんなことは開校以来初めてのことで、昨日は驚いた父母会長様などが御礼参りにお越しになりました。試合前にご祈願をすることも選手たちには初めての経験でしたが、一丸となって戦っています。

サッカーにサポーターの力は見逃せません。アウェイでの試合が不利になるのは、このためです。あの熱狂的な声援が〝力以上の力〟を発揮するのでしょう。同時に〝不思議な力〟もまた間違いなく存在します。それがご祈願の威光です。

これはお大師様さまに遍満する法力であって、選手たちにはその法力が試合中にも遍満しているからです。選手たちもご父兄もみな、あさか大師のファンになりました。これが信仰となって持続することを願ってやみません。

この世とあの世は一つです

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先祖供養

令和7年11月8日

 

この世のことを「現世うつしよ」といいます。それは、この世はあの世の〝うつし〟だからです。あの世のフィルムがこの世というスクリーンに映像となって写るという意味です。だから、この世とあの世は一つです。あの世が変われば、この世も変わります。

あの世とはタテの先祖とヨコの前世が合体したものです。これを変えるには、先祖供養によって功徳を積むことです。先祖も自分も、共に変わります。

「先祖代々」とは、血のつながった直系です。次に叔父叔母おじおばは血のつながりはありませんが、先祖代々の傍系ぼうけいとして「先亡」と呼びます。それから、どの家にも「水子」がいることも見逃がせません。この先祖代々・先亡・水子の統合こそ、本当の生きた先祖供養です。

また、私たちは父母の両家からこの世に生まれました。父方ばかりではなく、母系供養こそ忘れてはなりません。あさか大師では父母両家の先祖代々・先亡・水子の供養紙(写真)を渡し、お導師が毎日これを修しています。

次に大切なことは、真言密教のお導師と祈りを融合させることです。依頼するだけでも、自己流でもいけません。真言密教には仏を呼ぶ秘法があり、皆様の祈りを融合させることができます。これをくり返すことで「人生を変える先祖供養」となるのです。

*この「人生を変える先祖供養」をご希望の方は、あさか大師ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。一ケ月2000円で父母両家の先祖供養ができます。むずかしい作法は何もありません。遠方の方には郵送します。全国から多くの皆様が参加しています。

死後がそこにあるからです

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先祖供養

令和7年11月6日

 

死後の世界などあり得ないし、信じないという人は多いはずです。そんなものは科学的ではないといいます。もちろん、死後の世界は眼には見えず、耳にも聴こえません。しかし、見えないから聴こえないから「ない」と断言するほど非科学的な意見はありません。

眼には見えず、耳にも聴こえずとも、素粒子や電波が存在します。天上の彼方で、深海の果てに何があるのかも、私たちは感知することができません。それでも確実に存在しています。

死後を信じなくとも、死後を考える頭脳はあります。また、死後を思う心があることも否定できません。その死後を思う心もまた、眼には見えず、耳にも聴こえません。私たちの心が死後を思うのは、実は死後がそこにあるからです。死後がその心を呼ぶからです。死後があるから、心が呼ばれるのです。何もなければ、呼ばれることも想うこともないのです。その心が、死と共に消え去るのでしょうか。死によって何もかも無に帰するなら、死後がないという確認すらできません。死後を思う心があるのに、これはおかしなことです。

私たちは死後を信じ、あの世とこの世が一つであることを信じ、先祖供養に励んでいます。そして、功徳こそはあの世に持ち越せる唯一の財産であると信じています。今では「人生を変える先祖供養」として知られるようになりました。

*この「人生を変える先祖供養」を希望される方は、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。遠方の方には郵送します。一ケ月2000円の供養料で、父母両家にアプローチする光明真言(写真)の秘法を、毎日受けることができます。

あの世に持ち越せる唯一の財産

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先祖供養

令和7年11月2日

 

あさか大師では11月1日(土)・2日(日)の午後1時より、総回向法要(先祖供養)を勤修しました。両日とも大勢の皆様が集まり、僧侶と共に読経しました(写真)。また遠方の皆様は、同時祈念にて感応道交をはかりました。

人は生まれた時から、いろいろな違いがあります。体が丈夫な人もいれば、逆に弱い人もいます。裕福に生まれる人もいれば、逆に貧困の人もいます。それは、産まれる以前に、何らかのプロセス(前世)があったからではないでしょうか。

人は誰しも、いずれは死を迎えます。しかし、何もないところから生まれ、死によって何もかもなくなるとは思えません。では、何が残るのかといえば、生前にその人がどのような生き方をしたかの〝徳〟ではないかと思います。仏教ではこれを〈功徳〉といいます。つまり、功徳こそはあの世に持ち越せる唯一の財産なのです。

それに気づく時、人は新しい人生の門出に立てるのです。私たちはそのように考え、少しでも功徳が積めるよう精進しています。そして、先祖への報恩が大きな功徳になると考え、その供養に励んでいます。

関心をお持ちの方は、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。遠方の方には郵送します。高額な費用はかかりません。それでも真言密教の秘法を、毎日受けることができます。偉大なお大師様と共に、そして私たちと共に功徳を積みましょう。

新しい人生の門出

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先祖供養

令和7年10月30日

 

あさか大師では11月1日(土)・2日(日)午後1時より、総回向法要(先祖供養)を勤修ごんしゅういたします。お導師も僧侶も、そして参詣の皆様も光明真言曼荼羅こうみょうしんごんまんだらに向かい、遠方の皆様は同時祈念をなし、共に滅罪生善めつざいしょうぜん精霊得脱しょうりょうとくだつを祈ります(写真)。

この先祖供養は単なる回向ではなく、皆様がこの世に誕生した人生のルーツに、直接にアプローチするものです。そして、お導師は真言密教の秘法を毎日修し、皆様の祈りと融合させ、それぞれの感応道交をはかります。

したがって、ご命日や回忌の法要とは違った「人生を変える先祖供養」として知られるようになりました。この先祖供養を始めると不思議な霊験をいただき、多くの皆様からお話が寄せられています。

先祖供養をすすめる寺院は数知れませんが、単なる形式的な作法や読経では、人生を変えるパワーにはなりません。また、法外な供養料を請求する寺院にも注意する必要があります。あさか大師は父母両家の供養を修して、一ケ月2000円です。

当日は初めての方も歓迎いたしますが、勧誘はいたしません。ご自身の眼で判断してください。遠方の皆様は私のブログや著書をご覧いただき、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。そして、新しい人生の門出を目ざしてください。善男善女のご縁をお待ちいたします。

消え失せた花々への挽歌

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挿花

令和7年10月28日

 

この夏の猛暑で、あさか大師の山野草は大きな被害を受けました。半日陰はんひかげを好む山野草に、あの炎天下は耐えられません。早朝や夕方に施水をしても、日中ともなれば「焼け石に水」だったのです。

それでも葉焼けした中から、いくつかの花が姿を見せました。昨日、鮮やかなシュウメイギクが目につき、さっそく一輪をしました(写真)。

漢字では「秋明菊しゅうめいぎく」と書きますが、花弁の形は決して〈菊〉ではありません。本花をキフネギクといい、京都の貴船きふねが原産です。キク科ではなく、キンポウゲ科とのことで、混乱するかも知れません。

群生する中では特に引き立つとも思えませんが、一輪挿しがとても似合います。まるで貴婦人が訪れたようだと、参詣の皆様が讃えます。

清楚な純白が美しく、愛着が続くのも、必死に生き延びてくれたからでしょう。いつまで咲いてくれるのか、消え失せた花々への挽歌ひきうたとなりました。夕闇が迫る中、いずれとも、あらばあれ。

日本最大の護摩炉

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護摩

令和7年10月26日

 

あさか大師の護摩炉は直系が80センチもあり、日本最大のものです(写真)。これは私が長年の実修経験から創案したもので、この炉を用いて毎日のお護摩を修しています。

護摩壇も炉も、本来は清らかな土にて作るのですが、日本では木製の壇、鋳物いもの真鍮しんちゅうの炉を用います。この炉は鋳物製ですが、壇は私の実家の土に砂とセメントを用いました。

私がなぜこのような炉を創案したのかと申しますと、皆様の護摩木が増えるとこのくらいの大きさが必要になるからです。また、先祖供養紙やお塔婆まで、作法にしたがってお焚き上げするためでした。

先祖供養紙やお塔婆には、私や弟子僧の読経はもちろんですが、皆様のたくさんの祈りが込められています。お焚き上げの作法は尊重せねばなりません。その場合、この護摩炉は大変に役立ちます。

真剣な祈りには、最後まで責任を持たねばなりません。お大師様に叱られぬよう、自問自答をくり返しています。また一つ二つ、と。

山路天酬密教私塾

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