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挿花
平成31年3月28日
新河岸川の土手にみごとなユキヤナギが咲いておりました。さっそく数枝をいただき、越前の古壺に挿しました。
私は花を習ったことはありませんが、仏さまにお供えするような気持で野の花を挿しております。お店の花ではなく、野の花には格別の趣きがあるからでございます。また、流儀の花のように〝生ける〟のではなく、単に〝挿す〟だけでございますから、技術は不要でございます。
こんな素人の花でございますが、かつて私は宗門の機関紙『六大新報』に15年間も連載を続けました。その半分ほどは『邑庵花暦』というタイトルで創樹社美術出版から刊行し、ホームページにも掲載しております。花も素人なら写真もまた素人で、すべて自分で撮影いたしました。いうなれば素人づくしでございますが、素人には素人の良さもございましょう。
良寛和尚は「歌よみの歌、料理人の料理、書家の書」の三つを嫌ったそうで、ここにも独特の主張を感じるのでございます。これは何も、プロの技術を否定するという意味ではございますまい。プロでなければできない技術があることは当然でございます。しかし、ややもすると技術ばかりが目につく結果に陥いることもございましょう。技術が嫌味にならぬ程度の、ほどほどの加減が必要ではないかと、私は考えるのでございます。高度な技術を、見せずして見せるところがプロの中のプロなのでございます。
良寛和尚が嫌った三つに「華道家の花」を加えましたら、叱られましょうか。いかにも「どうだ!」と言わんばかりの作品を、私は何度も見ました。花器の中で、大威張りをしているかのようです。まるで息もできぬほどの本数です。花は〝何気なく〟が大切なのだと、私は考えるのでございます。