令和2年7月1日
今日から七月に入り、東京近郊では早くもお盆です。スーパーでもお盆用品が並んでいます。お寺でも施餓鬼法要の準備に取りかかっています。近頃は主婦でもパートなどで留守が多く、いわゆる棚経(檀家の精霊棚で読経するおつとめ)もめっきり減って来ました。それでもお盆ともなれば、墓参をして先祖供養を心がける方は多いはずです。
ところで、私は毎日のお護摩でご祈祷もしますが、実は先祖供養にも力を入れています。朝一番にお大師さまの前で勤行をした後、必ず光明真言の土砂加持(砂粒を如意宝珠として供養する行法)を修しています。土砂加持を修することにより、ご祈祷の威力が一段と高まることを確信しているからです。
その先祖供養のことですが、一般にはどうしてもご自分の家だけに片寄りがちです。というより、ほとんどの方がそれを当然のごとくに考えています。男性はたいていは父方の姓を名乗っています。女性は結婚すれば、実家のことなど口出しすることもありません。そして出生のルーツなど問うこともありません。しかし、これはおかしなことです。私たちは父母両家から生まれて来たのです。戸籍上の問題ではありません。それが血の流れというものです。父方はもちろんですが、母方の供養をおろそかにしてはなりません。私はこれを称して「母系供養」と呼んでいます。
私はホームページでも説明(信仰と供養のイメージ図参照)しているとおり、人の生命を一本の樹木にたとえています。父母両家の根があって、私たちは生かされています。成長すれば枝が伸びて葉もつきます。根が強くて十分な水分や栄養があれば、つまり父母両家の供養が十分であれば、立派な実がなるのです。風通しをよくするために枝おろしをしたり、虫がつかぬよう薬剤を用いることも必要でしょうが、根本は地中の根(まさに根本!)にあるのです。
この樹木の図を示して説明すると、多くの方が共鳴して納得し、私の土砂加持に参加してくれます。ところが、肝心な僧侶の方は、こうしたお話にあまり興味を示しません。もちろん先代住職の回忌ともなれば、法要をいたしましょう。またお寺の庫裡(住居)には仏壇がありましょう。そして、仏飯や茶を供えましょう。しかし、どうでしょうか。奥様の実家やその母方のことなど、ほとんど関心を持ちません。「母系供養」の大切さを忘れています。
私は一般の方はもちろんですが、僧侶の方にこそ「母系供養」の大切さを理解していただきたいと願っています。そして、それが血の流れに根ざした本来の先祖供養であることを理解していただきたいと、切に願っています。