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信仰
令和2年2月10日
人はよく、特定の信仰や何らかの道に入って、それから〝修行〟をするといいます。しかし、私はそうは思いません。信仰を持とうが持つまいが、あるいは信仰に反発する人さえも、等しく修行をしていると思うのです。もちろん政治も学問も、科学も芸術も、料理も趣味も、何一つとして修行でないものはありません。
なぜなら、どのような生き方をしようと、人は苦しみを背負うからです。では、その苦しみはどこから来るのでしょうか。仏教では、それを「業(または宿業)」と呼んでいます。業はあるいは前世から、あるいは先祖から遺伝子のように引き継ぐのです。信じようと信じまいと、それは自由です。しかし、何らかのプロセスがなければ、人は平等に生まれるはずです。しかし、健康に差があり、貧富に差があり、能力に差があるのは、生まれる以前に何かがあったからではないでしょうか。
そして、業が苦しみとなって現れる時、それは〝業の洗濯〟をしているのだと私は考えています。洗濯をすれば水は汚れますが、それは同時に清める姿でもあります。つまり、人は苦しみの中で業の洗濯をしつつ、業を清める修行をしていることになります。
問題は、その事実をどのように受け止めているかです。苦しみによってヤケをおこせば、つまり途中で洗濯をやめれば、修行の意味を失います。かえって業を深める結果にもなりかねません。また、その修行を成就するのにどのような形をとるかも、人それぞれです。信仰に求めるも、それを否定するも、他に求めるも自由です。しかし、どのような形をとるにしても、人は自分が背負った業の洗濯をする天命があると私は思っています。