猛女とよばれた淑女

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令和2年1月21日

 

一昨日、斎藤茂吉さいとうもきち茂太しげた父子の厄よけ法をお話しました。そして、茂太の母親のことも、ちょっとだけ紹介しました。

この母親、つまり茂吉の妻がまたとんでもない女性で、「猛女もうじょ」とまで呼ばれました。名を斎藤輝子さいとうてることいい、八十九歳で大往生をげるまで、まさに波乱万丈の人生を過ごしました。

彼女は明治二十八年、東京青山のローマ式大病院のお嬢様として生まれ、学習院女学部に通い、早くから女性雑誌のグラビアを飾りました。「王者の誇りをもった緋牡丹ひぼたん」がそのキャッチコピーであったようです。何ごとにも一流を好み、権威をもろともせず、常に前向きでマイペースでありました。関東大震災・青山大病院の全焼・東京大空襲さえも、気骨をもって無事に乗り越えました。

一方の茂吉は「神童」とまで呼ばれた秀才でしたが、山形の貧しい農家の生まれで、ウマが合うはずがありません。また、愛弟子まなでし・永井ふさ子との恋愛問題も重なり、二人は長らく別居生活が続きました。しかし彼女も、最後は郷里で寝たきりになった茂吉を献身的に介護し、寄り添う日々を過ごしました。

そして、茂吉の死後は海外渡航97回、訪れた国が108ケ国、その距離は地球36周分でありました。中でも七十九歳で南極、八十一歳でエベレスト、八十五歳でガラパゴスなどは驚嘆きょうたんに尽きましょう。多いに〝元気〟をもらえるエピソードです。さらに興味のある方は、孫娘・斎藤由香さんの著書『猛女もうじょとよばれた淑女しゅくじょ』(新潮文庫)をご覧ください。

一昨日、あえて斎藤輝子の名を出さなかったのは、ここで紹介したかったからです。皆様、このブログを読んで元気になりましょう。

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