2021/03の記事

本日満開、今宵満月

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令和3年3月29日

 

あさか大師の桜は、本日が満開です。近在の方々がたくさんお越しになりました。

菅原道真みちざね公は梅の花に対して「東風こち吹かば」の名歌を残しましたが、桜に対しても、「桜花さくらばな あるじを忘れぬものならば きこん風に 言伝ことつてはせよ」と詠んでいます。昨日は雨と風で散りましたが、私がいなくなった後も、この桜がことを伝えてほしいものです(写真)。

また、本日は満月(写真)。独り占めの境内のまん中で、少しばかりビールを飲みました。これから執筆を続けます。

紅桜

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挿花

令和3年3月24日

 

あさか大師の桜はいま、二分咲きほどでしょうか。もう少しでまた、今年の様子をご披露いたします。

そんな中で、今日は朝一番に近所から紅桜が届きました。一瞬、桃の花かと思ったほどでした。すぐさま玄関わきの大壺に挿しました。境内も堂内も桜一色です。コロナで日本中の人々が疲れ切っていますが、しばらくは元気をいただきましょう。執筆がありますので、まずはこのへんで。

正御影供と春彼岸会

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あさか大師

令和3年3月21日

 

お大師さまは承和2年3月21日寅の刻(午前4時頃)にご入定されました。したがって真言宗の寺院は本日、お大師さまのお姿(御影みえ)を供養する〈正御しょうみ影供えく〉を修します。あさか大師では第三日曜日でもありますので、金運宝珠護摩を兼ね、お大師さまへの報恩謝徳ほうおんしゃとくを献じました。朝から雨と強風が吹き荒れましたが、多くのご信徒の皆様が参詣されました。

お大師さまのご宝前には、御影に描かれている水瓶(水をいれる仏具)・木履ぼくり(木製のクツ)・琥珀こはく念珠を飾り、また仙菓仙薬せんかせんやく(ご入定の前に召し上がっていたもの)を供えました。先の三点は私が自書『弘法大師御影の秘密』で考証し、発願ほつがんして作成したものです。まさに本邦唯一の備品で、あさか大師の寺宝ともいっても過言ではありません(写真)。

お大師さまのお護摩は〈如意宝珠護摩〉にて修します。これはお大師さまが如意宝珠を真言密教の象徴として論じ、生涯の信仰を寄せておられたからです。大きな福徳が授かるるよう、午前11時半より私も丹誠を込めて修しました(写真)。

午後1時よりは春彼岸会を修しました。すばらしい声明や読経につつまれ、多くの精霊にご回向をいたしました(写真)。また本日は一年間にわたって光明真言をお唱えした〈お土砂〉を授与する日です。白いお砂が如意宝珠となる〈土砂加持〉の秘法が修されています。ご参詣の皆様には、大切にお持ち帰りいただきました(写真)。

施餓鬼法の伝授

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仏教

令和3年3月16日

 

一昨日、私は数名の僧侶(弟子)の方に〈施餓鬼法せがきほう〉を伝授しました。そして、皆様とても熱心に受法していただきました。私は僧侶にとって、施餓鬼はきわめて大切であると思っています。だから、施餓鬼に関心をよせ、私に伝授を求めていただいたことは、大変にうれしいことでした。

では、僧侶にとってなぜ施餓鬼が大切であると思っているのか、その理由をお話いたしましょう。

そもそも人間というものは、他人のことはまずまず見えていても、自分のことはなかなか見えません。自分が正しいと思えば、相手は間違っていると思うものです。また大きな組織の中にでもいれば、自分までが特別な人間だと思いがちです。その傾向は、組織が大きければ大きいほど強くなりましょう。さらに職業によっても、ことさらこの傾向は強まります。政治家・裁判官・弁護士・医師、そして僧侶などは、世間から特別な目で見られるはずです。つまり、あがめられるということです。こういった職業の人は、特に自戒をせねばなりません。

僧侶はもちろん法務(回向や祈祷)を勤めて、お布施を受けます。そうすると、お布施を受けるのが当たりまえ、このくらいを受け取るのは当りまえに思うものです。世の僧侶の中にはお布施の額が足らないと言って催促さいそくをしたり、腹を立てたり、短い読経でさっさと立ち去る方がいるのです。このような僧侶は間違いなく〝餓鬼道〟にちます。少なくとも私は、そう確信しています。僧侶といえども餓鬼道に堕ちることを、いや、僧侶なればこそ餓鬼道に堕ちることを知らねばなりません。

新義真言宗の開祖・興教大師こうぎょうだいし覚鑁かくばん上人)は有名な『密厳院発露懺悔文みつごんいんほつろさんげもん』の中で、「形を沙門しゃもん(僧侶)にして信施(お布施)を受く」と述べています。つまり、修行とは形ばかりで、お布施ばかりを受け取っているという意味です。鎌倉時代からです。今も昔も、僧侶は受け取るばかりで、自らはほとんど布施をしません。

もう、おわかりでしょう。僧侶は施餓鬼ばかりは必ず修することです。私は略作法ではありますが、毎日これを自らに課しています。また、多くの方に食事をほどこすことも心がけています。「師僧が弟子のために食事を作るのですか」と奇妙に思う方もいますが、私には何の違和感もありません。むしろ布施ができることを、ありがたいとさえ思っています。このブログを読んでいただいた僧侶の方は、ぜひ施餓鬼を修していただきたいと思います。

執筆中

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思考

令和3年3月13日

 

私は今、ある次第書を執筆中で、大変に苦慮しています。出版社には三月中に原稿を渡す約束ですので、あまり時間もありません。加えて三月はお弟子さんへの伝授も多く、多忙の日が続いています。そのため、なかなかブログまで手が回りません。楽しみにしてくださっている皆様には、申し訳なく思っています。悪しからずご了承ください。

そもそも文章を書くという作業は、なかなかに困難です。私を評して「泉のように湧くのですね」とか、「スラスラ書けるのですね」などとおっしゃる方がいますが、そんなことは絶対にあり得ません。もちろん、意外に進むこともありますが、何も書けず、まったく進まないこともあります。そこで本堂の中ををグルグルと回ってみたり、気晴らしにビデオを見たり、時にはお酒を飲んだりして来ました。これは〝作家〟と呼ばれる方々でも同じだと思います。

十九世紀に活躍したアメリカの作家ヘンリー・ミラーは、「今、あなたが思っていることがあるでしょう。その思っていることから書き出しなさい」と言いました。私は「なるほど」とは思いましたが、だからといって、そうヤスヤスとは行きません。「思っていることは何だろう」と、また思ってしまうのが人の常だからです。皆様はどう〝思い〟ますか。

では、時間も惜しいので、まずは失礼いたします。

三月総回向

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あさか大師

令和3年3月7日

 

昨日と今日、三月の総回向を奉修しました。コロナ禍の中、まだまだ自粛じしゅくの方もいらっしゃいますが、お集りの方々は元気に読経しました(写真)。早く、皆様がご心配なくお集りいただけることを願っています。

今月は21日(日)がお大師さまご縁日(ご入定にゅうじょうの日)で、午前11時半より第三日曜日の金運宝珠護摩を兼ねて「正御影供しょうみえく」を奉修いたします。〈みえ影〉とはお大師さまのお姿のことで、つまりそのお姿を供養する行事という意味です。しかもお彼岸中で、午後1時よりは「春彼岸会」も奉修いたします。三つの行事が重なるのも、めずらしいことです。

ついでですが、春彼岸は牡丹ぼたんが咲き出す(旧暦3月)ので〝ぼたもち〟をそなえ、秋彼岸ははぎが咲きますので〝おはぎ〟を供えます。見た目は同じですが、お間違えなきよう。私が子供の頃は重箱につめて、親類や近所に配りました。たしか、今時のコンビニで売られる〈おにぎり〉くらいの大きさだったと思います。重箱から開けると、中を洗い、どの家でも小さなマッチ箱を〝お返し〟に入れるのが礼儀でした。なつかしい、昔の日本の風習でした。

さらについでながら、もう一つ。ホームページの「新着情報」欄にも書きましたが、来月4月4日(日)の午後1時半より第1回の「桜まつり」を行います(下のポスター参照)。桜はあさか大師の象徴なので、いっしょに楽しみましょう。私の友人が八丈島の郷土芸能「八丈太鼓」をご披露いたします。また、隣接の老人ホーム『花水木の里』のポニー「はなちゃん」も出演します。これも世の中が、早く元気になってほしいという私の願いです。

ただ、今年は桜の開花が早いそうで、3月中旬とか。何とか花が残ってくれることを祈りましょう。皆様、ぜひご参加を。

水子供養の大切さ

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水子供養

令和3年3月2日

 

あさか大師では毎日、毎日のお護摩で諸願成就しょがんじょうじゅのご祈願をしますが、先祖供養や水子供養も朝一番に修しています。特に水子供養に関しては、ホームページをご覧になった一般の方からのお問い合わせもいただきます。現代の日本において、水子供養はお寺の責務として、とても大切だと考えているからです。

しかし、かくいう私も、かつては水子供養にはあまり積極的ではありませんでした。なぜなら、自分の過去の違背いはいや不徳に気を病み、人目をけてこっそりと相談に来る女性や、その弱みにつけこんでは法外な布施を要求する行者や霊能者のイメージがあったからです。また、いたずらに女性の不安感や罪悪感をあおる誇大広告があることも事実です。せっかくお越しいただきながら、お断りしたこともありました。

ところで、皆様は信じがたいと思いますが、日本人の平均寿命が50歳を超えたのは昭和22年以後のことです。つまり、それほどに天寿をまっとうすることはまれであったといえるのです。流産をはじめ、夭折ようせつによる短命がいかに多かったかがおわかりでしょうか。栄養の増大や医療の進化はともかく、私たちが普通に生きていることすら、極めてありがたいことであると知らねばなりません。ならば、母体に宿りながら生縁を得られなかった水子さんたちのために、供養に専念することは当然の勤めではないでしょうか。

水子さんたちは私たちのように、この世の喜怒哀楽きどあいらくを経験していません。天災や人災にさらされることもなく、不和や口論、詐欺さぎ裏切うらぎりのき目も知りません。だから、うらみが積って〝たたり〟をなすほどのことはほとんどありません(つまり、まれにはあるのです)。ただ、自分と同じ母体に宿りながら、無事に生まれた兄弟姉妹たちをうらやましく思うことは間違いありません。この思いを取り除くことが大切なのです。

そして今日、特に青少年の不登校や引きこもり、暴行や犯罪と、水子さんの存在がまったく無関係であるはずがありません。私が水子供養をしなければと思いいたった理由は、実はここにありました。それに、水子さんたちは意外に素直です。しっかりと供養をすれば、多くは気持ちがやすらぎ、心のわだかまりも消えていきます。ましてや戒名をつけて仏門に入れさせれば、申し分がありません。「私の弟子になってしっかり修行していますよ」と、母親の方にはお話をしています。

水子供養のことでお悩みの方は、どうぞお気軽にご相談ください。ご無理をせずに続ける方法を、共に考えましょう。

山路天酬密教私塾

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