2019/12の記事

スジャーターの乳粥

カテゴリー
仏教

令和元年12月11日

 

釈迦しゃかさまは悟りを開く前、六年間の苦行くぎょうをしました。断食だんじきのため死の直前ともいえるほどに衰弱すいじゃくし、体は骨と皮ばかりになるほどでした。

その時、村の娘・スジャーターが通りがかり、持っていた乳粥にゅうがゆの供養を受けました。そして、体力を回復したお釈迦さまはネーランジャラー川で身を清め、瞑想めいそうに入って、ついに悟りを開きました。これは仏教のことを少しでも学んだ方なら、どなたでも知っているお話です。ただ、問題なのはその「乳粥」とは何であるかです。

学者の中には「乳粥」を「ヨーグルト」と訳す方もおりますが、それは違っています。実はインドのおかゆを「キール」と呼び、甘い味がするお祝いの料理なのです。甘いお粥というと、皆様は驚くでしょうか。しかし、お祝いに甘いものを出す習慣はよくあることで、日本でも東北や北海道の赤飯は甘く味付けします。また、甘い饅頭まんじゅうやぼたもち(おはぎ)などもその例でしょう。

ただ、その「キール」が、日本のインド料理店のメニューにはありません。私は僧侶の方にこのお話をする必要があった時、かなりの店に問い合わせました。しかし、東京銀座の「ナタラジ」という店でデザートとして出している以外、まったく皆無かいむでした(だいぶ前のことで、最近はもう少し増えているかも知れません)。

「キール」は牛乳でつめたお粥に砂糖を加えます(さらにお好みでナッツ類を加えます)。牛乳を煮つめた状態を「」といい、これも仏教では大切なものです。ついでですが、私は三十代にかなりの荒行あらぎょうをしましたのでわかるのですが、断食して極端きょくたん衰弱すいじゃくした時、ヨーグルトではさほどに体力はつきません。ところが、たとえ一杯でもお粥を食すれば、たちまちに回復します。

それだけに、スジャーターのお粥は甘く、また栄養価も高かったはずです。そして何より、彼女は一生を費やしても及ばぬほどの、大きな功徳を積んだのでした。

日本人の底力

カテゴリー
仕事

令和元年12月8日

 

  昭和39年(1964)に「東京オリンピック」が開催された折、私は小学校六年生でした。

 田舎の小学校にはまだテレビすらありませんでしたが、このオリンピックのため、少ない予算を捻出ねんしゅつして何とか一台を購入しました。まだモノクロの時代でしたが、教員も児童も授業をそっちのけにして競技を観戦しました。みんなが夢中だったのです。今の小学校からは想像もできないほど、大らかで融通ゆうづうのきく時代でした。

 もちろん、私は子供で何もわかりませんでしたが、あれから半世紀以上も過ぎ去って驚嘆きょうたんしました。それは、あのオリンピックが、敗戦からわずか十九年目のことであったという事実です。東京中が焼け野が原となり、食べるものもなく、橋の下やドカンの中で暮らしていた日本人が、わずか十九年であれだけのオリンピックを開催したのです。もちろん、開催する以上は、委員会の審査が通らねばなりません。日本人の底力そこぢからは、恐るべきものとしかいいようがありません。

 私が小学校に入学した前年の昭和33年(1958)、まず東京タワーと国立競技場が竣工しました。東京タワーは、当時としては世界一高いテレビ塔として話題になりました。敗戦から十三年目です。続いて昭和37年(1962)には首都高速が開通し、さらにオリンピックのその年、新幹線が開通しました。当時は「夢の超特急」と呼ばれ、日本人はもちろん、観戦に来日した外国人もあのスピードには目を見はったものです。

 このお話を、私は何度も語ってきました。そして、忘れてならないことは、この急速な発展の中で活躍した中核は、かの戦地に出兵した方々であるということです。あるいは九死に一生を得、あるいは捕虜ほりょとなって強制労働を強いられた方々であるということです。その底力は、日本人としての誇りです。その底力が、今日の日本を築いたのです。仕事の成果は、何があってもくじけぬ底力から生まれるのです。

シクラメンの「かほり」

カテゴリー

令和元年12月5日

 

『シクラメンのかほり』が流行はやった頃、作詞・作曲の小椋佳おぐらけいさんは第一勧銀(当時)の行員でした。取引先の会社で休息をしていた時、なじみのない花であったシクラメンを見て、突然に浮かんで来たそうです。なじみのない花から名曲が生まれるのですから、音楽とは(いや、むしろこの世そのものが)奇妙なものです。

真綿色まわたいろした シクラメンほど すがしいものはないーー」。実は、この歌詞には問題があるとの指摘してきがありました。

 ①「香り」の旧仮名きゅうかなづかいは「かをり」であって、「かほり」ではないこと。

 ② シクラメンにはにおいがなく、したがって「かほり」もないこと。

 ③「真綿色」という日本語はないし、白のシクラメンは純白であること。

様、いかがでしょうか。この指摘に反論ができますでしょうか。

 ①については、歌人や俳人からただちに指摘がありました。「香り」の由来は「香居(を)り」だからです。もっとも、平安時代には「かほり」と表記することもあったそうですが、小椋さんがそこまで意識したとは思えません。

 ②は確かにそのとおりです。少なくとも、この当時のシクラメンに「かほり」はありません。

 ③については私が所持する『日本の色辞典』で調べましたが、やはり「真綿色」はありませんでした。真綿とは絹の綿です。白にほんのりと薄い黄を帯びた色ほどに考えられますが、しかし白のシクラメンはまったくの純白です(写真)。

ころが、私は数年前に小椋さんの奥さんの名が「佳穂里かほり」であることを知りました。妻に捧げた思い出の歌であるなら、この「かほり」でいいはずです。小椋さん自身はこのことを否定するような発言をしたそうですが、さあ、どうでしょう。「出逢であいの時の君のようです」「恋する時の君のようです」「後ろ姿の君のようです」と、これは明らかに一人の女性を歌っています。

文章作品は、現実と虚構きょこうとが微妙にからみ合うものです。だから、〝うそ〟を描くのは常のことです。つまり、このまぼろしの「かほり」さんとの出逢であいの時と、恋する時と、別れ道の時を、三色のシクラメンで表現した抒情詩じょじょうしのです。奥さんであってもいいし、架空かくうの女性であってもいいのです。そして、純白ではない「真綿色」という造語も、香りのないシクラメンも「かほり」さんには必要だったのです。「まどう別れ道」でゆれれていたのも、シクラメンのような「かほり」さんでした。これが正しいと、私は確信しています。

私が葬儀をしたある男性で、「和尚おしょうさん、何もいらないから若さだけが欲しい」と語った故人がいました。若い青年も、そして熟年も、〝ときめき〟を忘れてはなりません。それが〝若さ〟なのです。歌の最後には、「呼び戻すことができるなら 僕は何をしむだろう」とも。

三歳の子供でも知っているが

カテゴリー
仏教

令和元年12月3日

 

 中国の唐代にはすぐれた詩人がたくさんいました。白居易はくきょい(白楽天)もその一人です。実はその白居易には、仏教説話で語り継がれる有名なお話があります。

 頭脳明晰ずのうめいせきな白居易が杭州こうしゅうの高級官僚となった頃、道林和尚どうりんおしょうという知られた禅僧がいました。いつも樹の上で座禅をしていたので、「鳥窠禅師ちょうかぜんじ」などとも呼ばれていたようです。「鳥窠」とは鳥ののことで、樹の上での座禅姿がまるで巣のように見えたのでしょう。

 白居易はその道林和尚をからかってやろうと思い立ち、その樹下にやって来ました。白居易は樹の上で座禅する道林を見て、「危ないではないか」と言うや、すかさず道林は「危ないのはおまえさんだ。煩悩ぼんのうの炎が燃え上がっておる」と答えました。一本とられた白居易は、それなら、とばかりに「では、仏教とはどのようなものか」と問います。道林は「悪いことをせずに、善いことすることだ」と答えます。白居易はシメたとばかりに、「そんなことなら三歳の子供でも知っているではないか」と巻き返しました。道林は最後に、「三歳の子供が知っていても、八十を超えた老人でさえ行うことはむずかしいのだよ」とトドメを指しました。白居易はその場で、深く礼拝らいはいをして去ったのでした。

 この道林の逸話いつわは「衆善奉行しゅぜんぶぎょう(もろもろの善をなして)諸悪莫作しょあくまくさ(もろもろの悪をなさないこと)」の教えとして、大切にされてきました。まことに、「言うはやすく、行うはかたし」です。人は道理は知っていても、なかなか実行することができません。一つ善いことをしても、二つも三っも悪いことをするのが常なのです。

 真理はやさしく、わかりやすいもののはずです。そして、平凡な言葉であるはずです。いいお話ですね。

生きること、生かされること

カテゴリー
真言密教

令和元年12月3日

 

 今日も得度式とくどしき(仏門に入る儀式)があり、お二人の新発意しんぼっち(得度の志願者)が仏門に入りました(写真)。

 もちろん私が戒師かいし(お導師)を勤めましたが、お二人とも真剣に、そして何度も礼拝らいはいを重ねました。お大師さまをはじめ、国王(天皇)・両親・鎮守ちんじゅと続き、最後に親族や友人ともお別れの礼拝をしました。なぜ家族や友人とお別れするのかといいますと、今後はたとえ家族として同居をしても、また友人として会っても、今までとは違うことを自覚するためです。つまり、世俗にあっても、世俗に染まらぬことを誓うためなのです。式典の後は、どこか覚悟が決まった表情になりました。

 ところで、お会いしたこともない天皇陛下になぜ礼拝をするのかといいますと、私たち日本国民のすべてが皇恩こうおんを受けているからからです。以前にもお話しましたが、日本は世界最古の国家なのです。2600年以上も一度として滅びることなく、天皇家が絶えることなく、これほど平和が続いた国家など、この地球上にはほかにありません。このすばらしい国に生まれた私たちは、その皇恩にむくいねばなりません。私たち一人ひとりが日本のために、その日本は世界のためにあるからです。

 次に両親については、当然のことだからです。たとえ両親とどのような関係にあろうとも、今日の〝いのち〟があるのは、何があろうとも両親のおかげだからです。苦労をかけた両親に向かって礼拝をする時、その両親も新発意も感極まるものがあります。

 鎮守とは生まれ故郷の神社のことです。私は「生まれ故郷を思い出しながら礼拝してください」とお話しています。長い人生の中で、自分の生まれ故郷がどのようなものであったかには、大きな意味があります。日ごろは思い出すこともありませんが、いわば自分自身を作り出した「原風景げんふうけい」なのです。その神さまとの縁によって、私たちが生まれてきたことを忘れてはなりません。また、真言密教はこのように、仏さまも神さまも大事にしているということでもあります。 

 得度式の意味を考えると、改めてお大師さまの偉大さがわかります。私たちはそれほどに、多くの恩によって生きてきたのです。いや、生かされてきたのです。生きることとは、生かされることだったのです。不思議な縁によって戒師を勤めましたが、さわやかな気持ちでお二人の前途を祝しました。

山路天酬密教私塾

詳しくはここをクリックタップ