2019/07の記事

境内整備工事

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あさか大師

令和元年7月7日

 

あさか大師では境内駐車場舗装ほそう工事、および隣接水路歩道工事を進めています。昨日と今日の盂蘭盆法要までには終了の計画でしたが、この長雨で予定どおりにはいきませんでした。それでも最後の舗装工事を残すばかりで、間もなく終了いたします(写真)。

これが終了すれば、寺の施設に対する私の役目も、一応の区切りがつきます。大変な重荷を負いましたが、まずはうれしく思っています。また、来年の桜の花見が楽しみで、今からワクワクしています。この後はご信徒や後進の僧侶のため、また地元への貢献のため、私にできることを成し遂げていきたいと考えています。

最近ではホームページをご覧になった方が、少しずつお越しになっています。特に厄除や交通安全(おはらい)祈願、先祖へのご回向や水子供養を希望される方が多いようです。近在はほとんどがお檀家さんを持つ寺が多いので、私のようにご祈願をする僧侶は少ないのです。それだけに、あさか大師の特徴を発揮できればと、今から張り切っています。

このホームページをご覧になった皆様は、ぜひお越しになっていただきたいと思います。太鼓も法螺貝ほらがいも響き渡りますよ。

盂蘭盆法要

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法要

令和元年7月6日

 

あさか大師では本日と明日、早くも盂蘭盆法要うらぼんほうようとなります。

本日は僧侶の方々も集まり、お施餓鬼せがきを全員で修しました(写真)。お導師(私)の右側に施餓鬼壇せがきだんがあり、おかゆや野菜や水を献じました。ご信徒の皆様も読経や真言がお上手なので、心強いかぎりです。また、遠くから何十年ぶりに越しくださった方もあり、うれしい一日でした。

夏になると、お寺ではお施餓鬼をしますが、もともとは盂蘭盆法要とお施餓鬼に直接の関係はありません。盂蘭盆法要は供物を献じ、読経や布施をして、その功徳をご先祖に回向することが目的です。その供物を献じた器が〝お盆〟なのです。このお話、覚えておいてください。

お施餓鬼は餓鬼界がきかいちてしまった人を救うことが目的で、野外で修するのが本来の作法です。でも、双方とも夏の風物によく合うことは間違いありません。

ちょっと怖いお話ですが、餓鬼界がきかいちた人は、のどかわいてはりついているため、飲むことも食べることもできません。そこで喉を開き、飲めるように食べるようになし、さらに甘味や水分を加えるのがお施餓鬼の作法です。だから、お施餓鬼を熱心に修した僧侶は、喉や胃を病むことことがなく、長命であるとされるのです。このことは、私が師僧から聞かされたお話です。肝に銘じねばなりません。うれしい一日でもあり、戒めの一日でもありました。

入院生活の思い出

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人生

令和元年7月5日

 

急用が入りまして、三日ほどブログを休みました。

さて、実は私はたった一度だけですが、三週間ほどの入院生活を経験しました。あまりに荒行をやり過ぎたせいか、声帯ポリープが大きくなり、声が出なくなったためです。もう25年以上も前のことですが、都立大塚病院の耳鼻咽喉科で手術を受けました。

入院生活は退屈だと思いましたが、私にはとても楽しい毎日でした。まず、山のように本を持ち込みましたが、それらをことごとく読破することができました。普段はなかなか手をつけられず、いつ読もうかと悩んでいた本もかなりありました。途中で、さらに追加を運んでいただいたほどでした。読書に疲れると、病院内の庭園を散策しましたし、当時のウォークマンで音楽も堪能しました。私の普段の生活では、手に入らない時間ばかりでした。

また、簡単な茶道具も持参し、お見舞いの方々にはお抹茶の接待をしました。皆様、まさか病院でお抹茶をいただくとは思ってもみなかったはずです。とても喜ばれました。また、こんな患者もめずらしかったのでしょう。よく、看護士さんに笑われたものでした。

このような至福の時間が与えられたことに、私は大いに感謝をしたものです。いつも多忙な私に「少し静養しなさい」と、天の声が語っているようでした。人生は必要な時に、必要な場所で、必要な人と出会い、必要なことがおこるのです。もちろん、すぐには理解し得ないこともあります。不運と思うこと、不合理と思うこと、理不尽と思うことも多いはずです。それでも、やがて長い時間が過ぎた頃、自分には必要な経験であったことが理解されるはずです。

今となっては、あの入院生活もなつかしい思い出となりました。自分らしさを取り戻せたような、そんな思い出です。

ほどほどの幸せ

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人生

令和元年7月1日

 

私たちが快感を味わった時、脳内にはドーパミンというホルモンが分泌されます。また、怒りを感じた時はアドレナリンというホルモンが分泌されます。そして、この相反する互いのバランスをとり、心の安定と癒しに導くのがセントニンという〈幸せホルモン〉です。

セントニンは太陽の光を浴びると活性化するとされ、日の出を拝むと幸せな気持ちになるのはこのためなのです。だから、セントニンが分泌されれば、私たちはいつも心が安定して癒され、幸せな気持ちで生活することができるのです。

近年、うつ病やストレスに弱い人が増えているのは、ダイエットや偏食によって、セントニンが不足しているからとも考えられましょう。セントニンはトリプトファンというアミノ酸から生まれますので、トリプトファンを多く含んだ赤身の魚や肉類、乳製品、大豆製品、豆類をたくさん食べるとよいでしょう。

では、こうした食品さえ食べていれば、私たちはいつも幸せなのかといいますと、もちろんそうはいきません。実はセントニンには、別にもう一つ興味深い性質があります。それは、一日に分泌される総量には限界があるということなのです。だから、一生に分泌される総量にも限界があるということになります。

つまり、あふれるような幸福感を覚えても、これが長々と続くことはないということなのです。楽しかった後には、何となく寂しさを覚えるのはこのためです。これはセントニンを一気に分泌したため、残量が少なくなった証拠です。しかし、その寂しさも、いつまでも続くわけではありません。またセントニンが増量されれば、ささいなことにも幸福感を覚えるはずです。

人生は良いことばかりは続きませんが、悪いことばかりも続きません。幸福ばかりの人もいなければ、不幸ばかりの人もいないのです。だから、その幸福の総量をいかにうまく使い、逆に幸福が足りなくなった時に、いかに対応するかで人生が決まるのです。

ついでにお話しますが、私たちは〝ほどほどの幸せ〟が一番いいのです。そしてこの〝ほどほど〟の意味をわきまえた人が、最後まで幸せなのです。

山路天酬密教私塾

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