令和元年8月6日
お盆が近いので、また霊的なお話をします。
皆様は仏壇にお供えしたコップの水に、泡が立った経験がありましょう。これを良い意味に解釈する人もおりますが、たいては悪い意味に受け取る人が多いはずです。私はこのことが大変に気になっておりました。はじめはコップの器内にヌメリがついて、それで泡が立つのではないかと考えました。しかし、コップを洗わずに使用しても泡を見ることがなく、この考えは違っていたようです。
この現象に対して、私は科学的な見解と信仰上の見解と、その両面から考えています。
科学的な見解を申し上げますと、水道の蛇口に至るまでの水圧と温度によって泡が立つようです。遠い所や高い所まで運ばれた水道水は高い圧力を必要とするため、空気の分子がたくさん水中に溶け込みます。また、水中の温度が低いほど多くこれに比例します。これをコップに移した場合、圧力が低く室温が高いために、再び気体となって器内に現れます。これが泡の正体です。
しかし、こうした科学的な見解だけでは、どこかに物足りなさを感じることは否めません。物理現象として理解はしても、「なぜそうなるのか?」という問いに対する答えにはならないからです。たとえば、「生命はなぜ生まれるのか」という疑問に対して、どのような科学的な見解も何ひとつ答えにはならないのと同じです。
私は科学的な必然性をふまえて、その偶然性に意味を見い出すべきではないかと考えています。水道の蛇口に至るまでの必然性をどのように説明しようと、その場所とその時間に汲まれたその水の偶然性を否定することはできません。仏壇のコップに泡が立った時は、〝何かのお知らせ〟ほどの解釈をしてもよいいのではないでしょうか。命日を忘れているかも知れませんし、お墓の草が伸びているかもしれません。よく考えてみることです。
霊的な妄信に走って、非常識にはなりませぬよう。常識に生きて、少しだけ〝超常識〟をわきまえましょう。