令和5年7月14日
祈願と回向について、さらにお話をいたします。
祈願といい、回向といいますが、最も大切な心がけは何でしょうか。それはズバリ、真言密教の聖教(お次第)の中に書いてあるのです。ところが阿闍梨さまも僧侶の方も、この最も大切な心がけについて、ほとんど注目しません。私はこのことを、とても残念に思っています。
その最も大切な心がけとは、「滅罪生善」という言葉で表記されています。祈願をするにも、回向をするにも、どのお次第にも、「そもそも三密修行の処、滅罪生善の砌なれば」と、ハッキリ表記されていることを知らねばなりません(写真)。
つまり、祈願であれ、回向であれ、この三密(印を結び、真言を唱え、仏を観想する)の修行をすることは、滅罪生善の時にあるのだということなのです。まさに、一刀両断です。滅罪生善こそ好機であり、覚悟であり、極意でもあるからでしょう。奥義秘伝はこんなにも身近にあったのです。
では滅罪生善とは何でしょう。文字どおり解釈すれば、「罪を滅し、善を生じる」ことです。さらに熟慮しますと、罪を滅して、その後に善を生じるという手順になります。罪を懺悔しなければ、善事をなすことはできません。悪いものを取り除いて、その後によいものを取り入れる手順はものごとの鉄則です。仏教が「懺悔文」を重んじる理由もここにあります。
私は行法の中で滅罪生善の一語を唱えるたび、愚かなこの自分が重苦しくのしかかります。しかし、新しい人生を開くためには、過去を悔い改めねばなりません。善とは〝つぐない〟であるからです。つぐないの気持ちがなければ、人を喜ばせ、社会に奉仕することはできません。滅罪生善です。新しい人生もここから開かれるのです。
皆様はいかがでありましょうか。過去の失敗を思い出してみてください。愚かな過ちをくり返した自分が見えてくるはずです。悔いのない人生など、あるはずがありません。その過去を反省し、懺悔し、悔い改めることが修行の始まりです。そして、皆様の新しい人生の始まりです。この自覚がなければ、祈願も回向も成就しません。
最後に、過去とは何と、「過ちが去る」ことだとお伝えして、このお話を終わりにいたします。