続・香りについて

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真言密教

令和2年5月26日

 

八千枚護摩はっせんまいごまにはさまざまな思い出があります。使用していた腕時計が、決まって15分進んでしまうのもその一つでした。「こんなはずはない」と思い、かなり無理をして高級品を買い求めましたが、結果は同じでした。しかしカシオのデジタル腕時計は、安物(!)でも進みませんでした。あれはどうしてであったのかと、今でも思います。

お話をもどしましょう。八千枚護摩中には何度か護摩木がいぶって、キナくささがただようことがありました。その時、思ってみない遠い記憶がよみがえるのでした。それは子供の頃に毎日、風呂を沸かしていた時のことでした。父のいいつけで、これが私の日課になっていたのです。現代のようなユニットバスなどありませんから、たきぎに点火し、竹吹きで風を送りながらマキをくべました。その時、キナくさいにおいが発生するのです。つまり、私はそのにおいを毎日嗅覚きゅうかくとどめていたのです。しかし年齢を重ねると共に、私の記憶からすっかり遠のいて行ったことは申すまでもありません。

ところが、八千枚護摩中に同じにおいに接するや、何十年もの時を超えてよみがえる嗅覚の不思議さには、驚きを禁じ得ませんでした。しかも風呂場の前にしゃがみこんで、その炎をじっと見つめていた幼い自分の姿まで、映像のように浮かぶのです。もちろん視覚も聴覚も、味覚も触覚も、五感のすべてが同じように作動しているのでしょう。一度見たものも、一度聞いたことも、一度触ったものも、みな記憶の底には残っているはずです。母親が作ってくれた〈おふくろの味〉も、味覚として残るのも当然です。しかし、嗅覚がこれほどまでに記憶と直結している事実は、意外というほかはありませんでした。八千枚護摩の思い出の中でも、格別な体験として忘れ得ません。

私たちは自宅の前に巨大なマンションが建って景観をそこなわれても、しかたがないとあきらめるはずです。線路や道路わきに住んで騒音に悩まされても、だんだんに慣れるはずです。注文した料理がまずくても、次は別の店に行こうと思って食べるはずです。購入した洋服の肌ざわりが悪くても、ガマンをして着用するはずです。しかし、悪臭の中で生活することはできません。つまり、嗅覚こそは五感の中でも特別な存在なのです。

現代は空気清浄機はもちろん、消臭剤や芳香剤が数限りなく売られています。それだけ、私たちはにおいに対して敏感なのです。また私たちの生活と嗅覚には、特に密接な関わりがあるのです。ついでですが、〈におい〉は悪いにおいで「くさい」とも読みますが、〈におい〉はよいにおいで香りのことです。お間違いなさいませんよう。

いま、若い女性の間でもお香が流行はやっています。ストレスをやわらげ、安眠へ誘う手立てとしてお香を愛用することは私も勧めています。昨日、香りはこの世とあの世の媒介ばいかいだとお話しました。そして毎日、幽玄なお香をお大師さまにお供えしています。その時、お大師さまの方からその香りをお届けくださっているようにも思えてきます。香りの感応道交です。

山路天酬密教私塾

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