令和5年4月14日
浄厳大和尚のお話を、さらに続けましょう。
大和尚は十歳の折に高野山にて得度し、以後二十三年間にわたって求道生活を送りました。その間、その才名は天下に聞こえ、これを敬慕しない人はなかったとまで伝えられています。高僧というと、一般には学識的な面ばかりが強調されますが、大和尚の偉才は密教修法による数々の霊験にあると私は思っています。
もちろん真言陀羅尼の編纂をはじめ、口決(行法の意味や口伝)に関する著作も多く、その功績もまたはかり知れません。ただ、大和尚の著作刊行にあたっては驚くほど多くの寄進者によって成り立っていたことは注目すべきです。たとえば、『普通真言蔵』という名著の刊行においては、1042名の方がこれに協賛していますが、そのほとんどはご信徒の方々なのです。これは大和尚が祈念した護符の霊験が、いかに顕著であったかを示す確証にほかなりません。
江戸牛込の西村喜兵衛という人は、舌が腐って飲食もできない業病(前世からの宿業による病気)を患い、医者にも見捨てられましたが、大和尚より光明真言の護符を授かりました。そして深く懺悔して念誦したところ、たちまちに平癒しました。尾道の今田屋新平衛という人は大和尚から阿字(真言密教の象徴的梵字)の浄書をいただき、お軸にして日夜これを祈念しました。すると元禄15年の大火で、民家800軒あまりと共に新兵衛の家も焼失しましたが、大和尚のお軸だけは少しも損じませんでした。諸人はこれを奇跡として崇め、深く礼拝しました。また、日照りにあっては祈雨を念じ、渡海にあっては無事を念じ、いずれも不思議な霊験が記録されています。
大和尚は生涯に十七回の結縁灌頂(ご信徒が仏さまとご縁を結ぶ儀式)を勤めました。その入壇者は何と304055人と記録されています。これほど驚異的な入壇者の数を私は知りません。一日の予定が三日、七日、十日と続き、霊雲寺でのその様相は『江戸名所図絵』にも描かれています。
大和尚は元禄15年、六十五歳で入滅しました。その威光は蓮体という弟子に継がれました。墓所は霊雲寺に近い、台東区池之端の妙極院にあります(写真)。
その入滅が近づいた時、将軍綱吉の命によって大奥の医師が診脈にうかがいました。「何か苦しいことがありましたら仰せられませ」とお話したところ、「何もありません。ただ正法の興隆がまだまだ及ばず、それが心苦しいだけです」と語りました。これが大和尚の最後の言葉でした。