令和2年7月24日
私は子供の頃、一度だけ幽体離脱を体験しました。ある冬の日、炬燵に入ったまま横になってトロトロとした時でした。たぶん、わずか数秒だったと思います。横になっている自分の小さな体を、もう一人の自分が見おろしていたのです。天上あたりからだったと思います。意識はすぐにもどりましたが、驚きと共に、忘れ得ぬ体験となりました。これ以上になると臨死体験となって、いわゆる〝あの世〟まで旅することになるのでしょう。
シスターで国際コミュニオン学会名誉会長の鈴木秀子先生は、かつて講演先の修道院で足を踏みはずし、階段から転倒して床に叩きつけられるという事故に遭いました。その時、気を失ったのに、もう一人の自分が宙に浮き、転倒した自分を見つめていたそうです。そして、修道院の方々が救急車を呼ぼうとしていることなど、はっきりと見え、また聞こえてもいました。
鈴木先生は救急車が来るまで、修道院のベッドに寝かされていましたが、その間は不思議な光に包まれました、まばゆいばかりの光でした。その光を浴びつつ、至福の余韻に満たされました。まるで、神さまと一体でした。そのうち、ある外国人シスターの声が耳元で聞こえ、やがて意識がもどりました。
これも臨死体験の、一つのパターンなのでしょう。たいていは医師が腕時計を見て、家族や看護士に自分の死亡宣告をしている様子を天上から見たり、エレベーターのようなものに乗って異次元に向ったり、川岸にたどり着いたり、両親や祖父母に出会ったりするようです。肉親に出会った場合は、「こっちへ来てはダメだから帰りなさい」などと言われ、そこで意識がもどったという体験もよく聞きます。
こうした体験に鑑みてわかることは、臨終に近い病人はたとえ昏睡状態で意識がなくても、本人には周囲の様子がはっきりと見え、人の声も聞こえているという事実です。ただ、それに反応する肉体が衰え、半ば幽体化しているだけなのだという事実です。ここには重要な意味があります。今日のように医師が死亡宣告をするや、まるで死体をモノのように考え、すぐさま火葬場に向かうようなことは決してあってはなりません。再び蘇生する例もないとは言えませんし、人間としての尊厳を失わせる行為であることを戒めねばなりません。現代人の無知の一つは、死に対する思案の欠如によるからです。
臨終の折にも、葬儀の折にも、死者には何度も何度も語りかけることです。死者にとっても、家族にとっても、最後のお別れなのです。それぞれが「ありがとう」と言い合えるだけで、人生のすべてが清算され、すべてが解放されるのです。死はそれ自体が、人生で最も重要な儀式なのです。