令和2年7月9日
中国書道史における最高傑作に、東晋時代の王羲之による『蘭亭序』があります。これは永和九年の暮春、文人墨客四十一人が会稽山陰の蘭亭に集まり、禊をして「曲水の宴」を催した時の序文です。「曲水の宴」とは庭園の曲がりくねった流水のそばに座り、浮かべた酒杯が自分の前に流れ着くまでに詩を詠むという行事です。もちろん王羲之もこれに参加し、かなりのお酒も飲んでいたようです。
時に宴たけなわの頃、王羲之はネズミ毛の筆をもってこれを書きました。この時は草稿(下書き)として書いたわけですから、いずれは清書をしようと思っていたのでしょう。しかし後日、彼は十数回にわたって清書を試みましたが、ついにその草稿に及ぶものは書けませんでした。脱字は横に追記し(写真)、誤字は上からなぞってはいますが、その二十八行、三百二十四文字こそは深奥の妙を極め、「神品」とされています。しかも、同じ文字であっても字形を違え、特に文中には〈之〉の字が二十字もありながら、そのすべてに変化を尽くし、後代の書家は王羲之をして「書聖」と仰ぎました。
ただし残念なことに、唐の太宗皇帝が王羲之を熱愛するあまり、蒐集した彼の筆跡をことごとく自分の王陵(墓所)に埋葬させたため、真蹟は何ひとつ残っていません。現代に伝わる『蘭亭序』はすべて臨書(書き写し)されたものです。
では、日本書道史における最高傑作は何であるかとすれば、それはお大師さまの『風信帖』以外にはあり得ません。これは平安時代の弘仁二年(あるいは三年)、お大師さまが狸毛の筆をもって書かれた伝教大師(最澄さま)あての書翰(手紙)で、現在は京都の東寺に保管されています。
私は十六歳の高校一年生の時、書道教科書でこの『風信帖』に触れ、まるで稲妻に打たれたような衝撃を受けました。そして、自分もこんな書を残したい、こんな方の弟子になれるなら僧侶になってもよいとまで思いつめるようになりました。さらに、教科書の写真を切り取ってはいつも持ち歩き、何度これを臨書したかもわかりません。全部で三通ありますが、第一通などは全文を暗記していたほどです。
ところが、お大師さまも一ヶ所だけ文字の前後を書き違えていらっしゃるので、これが「弘法にも筆の誤り」の語源かも知れません。「仏法の大事因縁を商量し(共に考えること)」の〈商量〉を〈量商〉と書かれ、間にレ点をつけておられます(写真)。しかし、私も今はお大師さまご入定より高齢となりましたが、その技量も力量も、とてもとても及ぶところではありません。雲の上の存在とさえ思えます。その品格、その筆力、まさに日本の「神品」です。