令和5年10月29日
「地獄極楽絵図」によりますと、奪衣婆の次はいよいよ閻魔さまのお裁きを受けねばなりません。絵解きをしますと、閻魔さまの横には〈業の秤〉があり、死者の悪業の重さを計っています。下げられている大岩よりも死者の方が軽いとよいのですが、ほとんどは死者の方に傾き、順番を待っている他の死者も気が気ではありません。
その反対側にあるのが〈浄玻璃の鏡〉です。これは死者の生前のすべてが写し出されますので、うそを言ってもすぐにバレてしまいます。「うそをつくと閻魔さまに舌をぬかれる」といった言い伝えは、ここから来ているのです。この死者は、読経をしている僧侶に刃を向けるという大罪を犯したのでした。つまり、この浄玻璃の鏡には死者の本性、心の様相が真実のままに再現されるのです。そして、あの世でどのような世界に行くかが決定します(写真・熊野観心十界曼荼羅より)。
皆様はいかがでありましょうか。こんな絵図は昔の人の、とんでもない作り話だと思うでしょうか。しかし、こうした絵図によって、長く日本人の生死観がはぐくまれ、それが人生の道徳観となって来たことは間違いありません。また、奪衣婆や閻魔さまの出現に違いはあっても、似たようなお話はたくさんあります。
たとえば、スエーデンボルグ(18世紀における最高の霊媒)の『私は霊界を見て来た』(叢文社)によりますと、閻魔さまに代って〈検査の霊〉が現われ、浄玻璃の鏡に代って「ペラペラと本のページがめくられる」と表現されています。自分の一生が一冊の本となって示されるということです。この世とあの世は時間の次元が異なりますので、80年の生涯であっても、一瞬のうちに再現されるのでしょう。
こうしたお話を考えますと、この世もあの世も、要は自分の生き方が自分の人生を決めるということです。仏教徒は常に〈十善戒〉をお唱えしますが、お唱えするだけではすまされない理由がここにあります。悪いことはできません。この世の功徳だけがあの世に持ち越せる唯一の財産です。善事を積んで、先祖供養(ホームページ参照)に努めましょう。