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仏像
令和元年8月24日
今日はあさか大師に集まる僧侶の教材とすべく、声明を録音しました。声明とは、お経や真言に節をつけた法楽のことです。日本の音楽に、多大な影響を与えましたが、近年は各地の劇場やコンサートホールでも披露され、一般の方にもかなり知られるようになりました。
ただ、昨夜はクーラーをつけて就寝したために声枯れがひどく、いつものような〝美声〟が出ませんでした。肝心な時に情けないお話です(写真)。
声明を唱えることも仏への供養であり、仏を拝む手立てのひとつです。仏が喜んでくださることを願い、仏への法楽として声明を唱えています。
ところで、皆様は仏だから僧侶や信徒が拝むのは当然だと思うでしょうが、実は違うのです。仏だから拝むのではなく、「拝むから仏になる」のです。仏師が彫りあげた仏像は、あくまでも〈仏像彫刻〉であって、生きた仏ではないのです。 その仏像彫刻に向かって、僧侶がお経や声明を唱え、護摩を焚き、回向を重ね、多くの信徒が拝み、願いをかけるうち、はじめて生きた仏になるのです。
だから、仏像は拝まれてこそ生気がみなぎり、眼差しも顔立ちも生きた仏になるのです。このことが感じられれば、お寺に行っても、どのくらい拝まれているかがわかるようになります。住職が毎日のお勤めをしっかりとしている寺は、いかにも仏らしく感じられるはずです。特にお護摩を修している寺は、パワーが違います。また、昔は相当に拝まれただろうに、今は拝まれていないこともわかります。そんな寺は立派な住職が来ることを、仏が望んでさえいるのです。
仏だから拝むのではなく、拝むから仏になり、生きた仏になっていくのです。若い頃に荒行を重ねた私は、そんな事実を何度も体験しました。