令和2年5月10日
二十年ほど前、九十七歳で他界しましたが、河盛好蔵さんというフランス文学者がおりました。モラリストの翻訳や自分の著作もたくさん残しましたが、何と九十五歳で文学博士の学位を得るという大器晩成の学者でした。晩年は脳梗塞で倒れ、車イスの生活を送りましたが、それでも向上心を失わずに研究を続け、ついに学位を得たのでした。
私は河盛さんのエッセイをかなり読みましたが、特に「人生を楽しむ才能」という言葉には共鳴しました。人生を楽しむには、まさに才能が必要だと思っていたからです。皆様はどのように思うでしょうか。お金さえあれば人生を楽しめるではないかと、そのように思うでしょうか。でも、お金があっても苦しみの多い人はたくさんいます。いや、むしろそういう人のほうが多いかも知れません。お金があれば、かえってそのお金が苦しみになるからです。また、健康であっても人の悩みは尽きません。グルメであっても、ファッションのセンスがよくても、それだけで人生を楽しめるわけではありません。
河盛さんは人生の最後に、こんなことを言っています。
「救急車で運ばれ、それ以来ずっと療養しているのですが、左手と左足が麻痺して動かなくなってしまい、不自由しております。それでも幸いなことに、右手は動きますので、書くには不自由はありません。まだ恵まれております」
「私の今の最大の望みは、フランス語をもっと上手になりたいということです。私はフランス語を読み、翻訳することが仕事でしたが、フランス語に磨きをかけて、もっと自由に書けるようになりたいのです。日本の作家のものをフランス語に訳して、フランスの人たちにもっと知ってもらいたいというのが私の願いです」
「時々、車イスを押してもらって、近所を散歩するのも楽しみです。書きものをする時に、この書斎から見える風情をながめるのも好きです。マロニエがよく見えますが、気分がいいですね。何といってもマロニエはパリの街路樹ですから、私の思い入れも深いのです」
右手が動くことに感謝し、勉学への希望を捨てず、ささやかな風情に感動する、この教養と品格が河盛さんの才能となって輝いたのです。そして、その才能が人生を最後まで支え、人生をまっとうさせたのです。何が幸福であるかを考える時、とても参考になります。ヒントにもなります。感謝と希望と感動と、これが人生を楽しむ才能なのです。