令和2年6月10日
井原西鶴(江戸時代の俳人・作家)は人間を徹底して〝カネの亡者〟と見なし、『日本永代蔵』を著わしました。文中には「ただ銀が銀をためる世の中」「世に銭ほどおもしろき物はなし」「無うてならぬ物は銀の世の中」「銀さえあれば何ごともなるぞかし」といった銭銀至上主義が列記され、読に終えれば茫然自失、とてもとてもついてはいけません。「経済小説の先駆け」などとも言われますが、しかし一筋縄ではいかぬ手ごわいシロモノです。
この『日本永代蔵』の冒頭は、大阪市貝塚の水間寺(水間観音)のお話から始まります。今でも多くの参詣者が訪れますが、古来より独特の形態を持つ寺院として護持されて来ました。日本のほとんどの寺院は江戸時代からの檀家制度によって支えられていますが、それ以前は篤信者や地元の共同体で運営されて来ました。水間寺は今でも六十歳になると地元の農家や公務員の方、事業家や職人の方が一定の修行を経て僧になるという、唯一無二の形態を保っています。
江戸時代のその頃、驚くことに、有力な寺院は金融業を兼ねて運営をしていました。水間寺もその例にもれません。西鶴はその様相を、「折ふしは春の山、二月初午の日、泉州(大阪)に立たせ給う水間寺の観音に、貴賤の男女詣でける。これ信心にはあらず、欲の道づれ」と表現しています。水間寺では二月初午の日、一年後に倍額返済を条件に、参詣者に小銭を貸し付けていました。年利100パーセントですが、観音さまから借りるのですから返すのは当りまえで、保証人も担保も不要でした。そうなれば多くの人が、野山を越えて集まるのも当然です。
時に江戸から流れてきた素性不明の男に、銀1貫(2万5千円)を貸し与えたのは異例でした。翌年になっても翌翌年になっても返済には訪れません。水間寺でも、とんだ失敗とあきらめていました。ところが13年後のその日、借り金が倍々に積って何と8192貫(約2億円)を馬に背負わせてやって来たのでした。僧侶たちは驚き、「後世の語り草にしょう」ということで、都から宮大工を呼び、立派な宝塔を建立しました。その男、船問屋の網屋といい、江戸では知らぬ者のないほどの大商人になっていたのでした。
それにしても「信心にはあらず、欲の道づれ」とは、水間寺にしてみれば迷惑な表現だったのでしょう。貸し付けは救済活動であるとして、当時からかなりの反論がありました。貸し付けを目当てにやって来ても、観音さまへの信心を失ったわけではありません。その貸し付けによって、多くの人々が救われたことも確かなはずです。
人は利益がなければ動きません。その利益によって衣食が足りる時、はじめて礼節を知るのです。利益が欲なら、むしろ欲によってこそ礼節を知るべきです。その欲に使われた人もいれば、欲を上手に使って立ち直った人もいたはずです。欲に使われれば煩悩ですが、上手に使えば菩提となるのです。人生の旅そのものが「欲の道づれ」だと、私は思います。