令和2年4月10日
WHO(世界保健機構)はその憲章前文の中で、健康についての定義を「健康とは病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます(日本WHO協会訳)」としています。つまり、人間というものを肉体的(physicalフィジカル)・精神的(mentalメンタル)・社会的(socialソーシャル)にとらえ、それらが総合的に満たされた状態を〝健康〟であるとしています。この定義はすでに決議より70年以上が経過していますが、いまだによく用いられています。
現代の日本人はその年齢を問わず、多少の持病があって通院していても、まずまず健康であると思っている方が多いかも知れません。また先の定義に鑑みるならば、「幸せを感じる」「生きがいがある」「仕事がうまくいっている」「人を思いやることができる」といった精神的・社会的な要素も含めて健康を考える傾向も強いと思います。
ところが1998年、WHOにて健康の定義を肉体的・精神的・社会的に加えて、宗教的(spiritualスピリチゥアル)な要素を加えてはどうかという提案が出されました。しかし賛成多数であったにもかかわらず、審議の緊急性が低いとして、いまだに決議には至っていません。
スピリチゥアルは一般的な日本語としては「霊的」と訳されていますが、メンタルと同義とする意見もあり、また信仰には熱心でも特定の宗教に傾倒しない日本人には、なかなか定着しません。神と仏が同居し、先祖を大切にする国民には、何をもって宗教的・霊的とするかがむずかしいところです。
しかし、私は「宗教的な健康」「霊的な健康」こそ、人としての最大の尊厳であると考えています。もちろん、ここでの宗教とは特定の宗派や教団を指すわけではありません。また霊的といっても、霊能や心霊現象を意味するものでもありません。日本人は気安く「私は無神論者です」などと言いますが、欧米の人たちからすれば大変に奇異なことであり、また情けなく、しかも恥ずかしいことです。
生きるということは、はっきりした信条とまではいかずとも、その根底には必ず宗教的な理念が必要なのです。また、人は肉体的・精神的に生きると共に、必ず霊的にも共存しています。眼には見えず、耳には聞こえずとも、多くの日本人は仏壇に合掌し、神前に礼拝し、お墓参りも欠かしません。これは霊的に共鳴するからです。私は「宗教的な健康」「霊的な健康」が公的に語られる日が来ることを、切に望んでいます。