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毎日の施餓鬼法

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令和2年8月12日

 

明日から盂蘭盆うらぼん(お盆)に入ります。盂蘭盆といえば〈施餓鬼せがき〉がつきものですが、もともとの由来は異なります。

盂蘭盆はお釈迦さまの弟子で、神通じんつう(霊能)第一の目連尊者もくれんそんじゃに始まります。餓鬼道がきどうちたお母様を救うため、お釈迦さまの教えにしたがって、この時節(インドの雨期)に大勢の僧侶に食事を供養し、その功徳を回向したことが由来です。つまり、その当時はお釈迦さまや弟子の僧侶こそ、仏さまであったということになります。

施餓鬼の方は同じくお釈迦さまの弟子で、多聞たもん(たくさん教えを聞いた)第一の阿難尊者あなんそんじゃに始まります。瞑想中に餓鬼が現われて、「三日の後に、そなたの寿命は尽きて餓鬼道にちるだろう」と予告を受けました。修行を積んだ阿難尊者も、決して気持のよいものではありません。そこでお釈迦さまに相談して餓鬼法がきほうを授かったと伝えられています。したがって、施餓鬼法はお盆にかぎらず、本来はいつ修してもよいということになります。

ところで私は毎日、夕方の薄暗い時間になると施餓鬼法を修しています。夕食のご飯を専用のおわんに入れ、水を加えて境内の片隅に向い、略作法ではありますが、これを自らに課しています。

なぜ施餓鬼法を修するのか、しかも毎日修するのか言いますと、これが師僧の遺訓いくんだからです。まだ二十代の頃でありましたが、師僧は「真言密教の行者は毎日、施餓鬼法を修さねばならない。その理由はいずれわかるだろう。ただ、施餓鬼法を修した行者は胃腸を病んだり、衣食いしょくに困ることがないことだけは伝えておこう」とおっしゃったのです。

私は昭和二十七年の生まれですから、終戦直後のえの苦しみを知っているわけではありません。たとえ粗末な食事ではあっても、一日として何も食べられないほどの生活を送ったことはありません。十八歳で上京して、貧しい暮らしはしていても、パンの耳をかじってでも何とか生きることはできました。また断食修行なども経験しましたが、飢えの苦しみとは比べようもないはずです。その私が僧侶になったのです。布施ふせ(特に食をほどこすこと)をせずして何をぎょうずるのでしょうか。飽食の時代にご馳走を食べ、満腹をかかえて何が供養か、何が施餓鬼かと思うばかりです。

布施の方法はいくらでもあります。身近な人への布施もあれば、被災地への布施、貧困国への布施もありましょう。それも、可能なかぎりは心がけています。しかし今、私にでき得る最善の方法は施餓鬼なのだと確信しています。なぜなら、コロナウイルスの不安や混乱を含め、「鬼神きじん(死後の魂)みだるるがゆえにすなわち万人乱る(仁王護国般若経にんのうごこくはんにゃきょう)」からです。あの世が乱れれば、この世も乱れるのも当然のことだからです。

蓮の花が開く音

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令和2年8月9日

 

蓮の花についての、別のお話です。よく、蓮の花が開く時、「ポン!」と音を立てると言いますが、皆様はどのように思うでしょうか。その音が聞きたいので、何時ごろに伺えばいいかなどと、問い合わせまで受けた経験もあります。中には立派なビデオカメラをセットし、夜明け前から待ち構えていた方もおりました。

正岡子規の俳句にも、「蓮開く音聞く人か朝まだき」とあります。石川啄木の詩にも、「靜けき朝に音たてて、白きはちすの花さきぬ」とあります。また題名は忘れましたが、川端康成の短編小説にも、上野(東京)の不忍池しのばずいけで音を立てて蓮が開く様子をを描いた作品がありました。文学の世界でも、蓮の花が音を立てて開くという〝言い伝え〟はおなじみのようです。ましてや、文士が描けば臨場感も漂いましょう。

蓮は日の出と共にゆっくりと開き、八時から九時ごろに満開になります。そして昼ごろから少しずつしぼみ、つぼみにもどります。これを三日間くり返し、四日目には蕾にもどれなかった花弁から散って行きます。そして中央のガクだけが残り、しだいに大きくなって蓮の実を残すのです。その蓮の実を、持ち帰ってもよいかとたずねる方もおりました。

結論を申し上げましょう。蓮はゆっくりと開くのであって、決して音など立てません。「ポン!」という音がするというのは、そのイメージなのです。蕾が開く様子から、そんなイメージが伝わったのです。蓮の花は、ワインのコルクをく時のようにはいきません。これは蓮の花を育てている住職や愛好家なら、誰でも知っていることです。

ただ、それでも蓮の花が開く音を、「確かに聞いた」という方がいるかも知れません。これはあくまでも私の仮説ですが、もしかしたら「異界の音」を聞いた可能性があります。つまり〝あの世の音〟をこの世で聞いたのかも知れないということです。そうでなければ、この言い伝えがかくも広まった理由がわかりません。文士までも、まるで自分が聞いたかのように描くでしょうか。たぶん、私のこの仮説は当たっていると思います。それは、仏さまがまさにご降臨こうりんし、お座りになるお知らせの音なのださえ思うからです。

私は蓮の花ばかりは、「この世のものとも思えません」といつも語っています。仏さまがお座りになる花です。霊験が顕現けんげんする花です。俗に「立てば芍薬しゃくやく、座れば牡丹ぼたん、歩く姿は百合ゆりの花」などと言いますが、芍薬も牡丹も百合も、みな美しい花です。この世の花です。しかし、蓮の花ばかりは品格が違います。あの世の花なのです。

蓮の花が開く時、「ポン!」という音などしないことは〈事実〉です。しかし、確かに聞いたという方の、その〈真実〉を認めるべきだと思うのです。あの世の花が、この世に開く音です。

煩悩の泥、菩提の花

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令和2年8月7日

 

八月も初旬までは、蓮の花の見ごろを楽しむことが出来ましょう。本県の行田市ぎょうだしには「古代蓮の里」があり、朝早くから大勢の観光客でにぎわっています。私も二度ほど訪ねました。そのほか、京都では三室戸寺みむろとでら法金剛院などほうこんごういん、奈良では生連寺しょうれんじや金剛寺など、いささかの思い出があります。

私はかつて、蓮の花を咲かせることに夢中になっていた時期がありました。出来れば今でも続けたいのですが、何しろ毎年春には、蓮鉢はすばちの土を植え替えねばなりません。その、蓮鉢が重いのです。しかも、大量の荒木田あらきだ(粘着力のある土)が必要となります。お寺の住職が夢中になるのはいいのですが、高齢になると大変です。それを覚悟する必要があるのです。

ずいぶん、いろいろな先輩に教えを受けました。初めて蓮の美しさを知らされたのは、黄檗宗おうばくしゅう第六十一世管長の岡田亘令こうれい和尚からでした。まだお若い頃で、伏見のご自坊で奥様の手巻き寿司をご馳走になりながら、得々とくとくとしてその魅力を聞かされました。和尚の蓮はやがて九州の弟子の寺に渡り、それが巡って私のところに送られて来たのです。管長猊下げいかに就任なさるとは思いもよらず、ずいぶん気さくなおつき合いをしたものでした。また和尚からは、他の何びとからも学び得ぬ霊符の伝授まで賜り、私にはよほどのご縁であったのでしょう。深く感謝しつつ、あの世で恩返しをせねばと考えています。

また、蓮づくりの上手な住職や愛好家がいると聞けば、訪ねてはご指導いただきました。栽培法についての本も読み、石灰で消毒をしたり、土の中に加える、ある〝秘伝〟も知りました。学んで道を開けばまた悩み、悩んでは学んでまた開く、人生も蓮の栽培も、同じようなくり返しでなのでしょう。今でもそのように思います。

さて、早朝に蓮の花が最初(一日目)に開く時、その美しさはこの世のものとも思えません。実は私は、お釈迦さまがこの世に出現されたのは、この地上に蓮という花があるからだと信じているのです。なぜなら神さまは清らかな霊地にしか降臨しませんが、仏さまは汚い煩悩ぼんのう(迷い)のどろから、菩提ぼだい(悟り)の花を開かせるからです。春に植え替える時、その泥からは悪臭が漂います。まさに煩悩です。しかし、その煩悩がなければ菩提の花は開きません。ここに仏教の深奥があるのです。煩悩を断つのではなく、その煩悩が、かえって菩提となるころに仏教の根底があるからです。

しかも、蓮は実を残します。仏種を絶やさぬため、つまり仏の修行者を絶やさぬため、蓮はその功徳も積んでいるのです。薬膳やくぜん料理や精進料理に使えます。脾臓ひぞうの妙薬であり、胃腸障害や疲労回復にも薬効があります。その実を残すため、蓮は三日間の開花の後、四日目には静かに散るのです。法要中の〈散華さんげ〉で唱えるがごとく、「香華供養こうげくよう」と。

「追善」と「追悪」

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令和2年7月26日

 

〈死〉だの〈葬儀〉だのと陰気くさい(私はそうは思いませんが)お話をしましたが、もう一つおつき合いください。

昔の葬儀(今でも一部は残っていますが)をいろいろ考えてみますと、「追善」という本義がいかに溶け込んでいたかがわかります。しかも深遠な仏教の哲理が、何の抵抗もなく民間の風習として広まっていたのです。往時の住職がいろいろと思案をめぐらせ、それを檀家だんかの方々に伝えたのでしょう。

たとえば、私が子供の頃の農村の葬儀では配役を決め、行列を整えて墓地に向いました。その日のうちに土葬どそうするためです。もちろん、今のように立派な霊柩車れいきゅうしゃなどありませんから、遺体は荷車にぐるまのようなもので出棺しゅっかんしました。そして、その家の屋敷を出る時、竹で編んだかごを振って小銭こぜに(硬貨)をまくのでした。そして、道端に落ちたその小銭を、大人も子供も夢中になって拾いました。なつかしく思いおこす皆様もいらっしゃるはずです。

これはいったい何を意味するのかといえば、死者に代って遺族が布施をする、つまり追善をするということなのです。死者に生前の功徳が足らないなら、あの世へ往っても心配です。だから、遺族が代って〝善を追う〟のです。子供の頃は、もちろんそんなことを理解していたわけではありませんが、このような風習の中で、死者のとむらいをしたのでした。

また、これは三十年近くも前のことですが、私は依頼を受けて成田市(千葉)で葬儀をしたことがありました。この時は出棺の前に、会葬者の皆様にお団子ほどの小さなにぎり飯が配られました。私は初めて体験しましたが、これもまた死者に代っての追善であることは容易に理解されましょう。現在も、葬儀や法事ともなれば立派なおときをふるまいますが、本来は死者に代っての布施、つまり追善であることを知らねばなりません。

この本義を熟慮するなら、僧侶の読経もまた「追善供養」と呼ばれることも得心するのです。僧侶が読経をするのは、遺体となって読経の機会すら失った死者に代わり、追善をすることにほかなりません。たとえその仏典の意味はわからずとも、仏さまの言葉を唱え、その功徳が死者に回向(供養)されるからにほかなりません。そして、さらに大切なことは、「追善」があるなら「追悪」もあるということです。死者は四十九日までは、中陰ちゅういん(この世とあの世の中間)にいるのです。遺族の声も聞き、遺族の姿も見えています。悪口を言ったり、遺産争いをしたりすれば、それは「追悪」となるのです。

葬儀や法事は単なる形式ではありません。「追善供養」なのです。本義を離れてこれを誤れば、「追善」は「追悪」に変ずることをきもめいじましょう。

五観の偈

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令和2年7月20日

 

僧侶が寺院で食事をする時は、必ず「食事作法じきじさほう」をします。その作法の中で、最も中心になるのが「五観ごかん」という五つの徳目です。つまり、その五つの徳目を観じ、食事をいただけることに感謝をしようということです。〈偈〉とは詩文というほどの意味にお考えください。

一つにはこう多少たしょうはかり、かの来処らいしょはかる。

二つにはおの徳行とくぎょう全欠ぜんけつはかっておうず。

三つにはしんふせぎ、とがはなるることは貪等どんとうしゅうとす。

四つにはまさ良薬りょうやくこととするは、形枯ぎょうこりょうぜんがためなり。

五つには成道じょうどうためゆえに、いまこのじきく。

まず、「こう多少はかり」とあります。たとえ一粒の米、一茎ひとくきの菜といえども、田畑を耕し、種をまき、実らせ、収穫し、かぎりない人々の手を経て自分のしょくぜんにあるのです。その功績は多少を問わず、どれほどの労苦があったかを知らねばなりません。そして「かの来処らいしょを知る」ことです。その由来を知って、感謝の念を捧げることです。

次に「おの徳行とくぎょう全欠ぜんけつはかって」とは何でしょう。つまり、自分がはたして、この食を受けるに十分な徳があるかいなかを考えなさいという意味です。そのことを反省して「おうず」、すなわち万人の供養を受けることです。

次に「しんを防ぎ、とがを離るることは」とは、心を清らかに保ち、誤った行いをけるということです。そのために「貪等どんとうしゅうとす」るのです。つまり、仏教はとん(むさぼり)・じん(いかり)・(おろか)を、〈三毒さんどく〉として特にいましめます。

次に「まさ良薬りょうやくこととするは」とあります。本来、食事はおなかがすいたからいただくのではなく、身体を養い、健康を守るためのものです。これを「医食同いしょくどうげん」といい、医術と食事は同じであるとします。食事が良薬であるから、「形枯ぎょうこりょうぜんがためなり」なのです。〈形枯〉とは身体が衰えること、生気がなくなることです。それを治療するのが、医食同源の食事であるとの自覚を持たねばなりません。

最後の「成道じょうどうためゆえに、今このじきを受く」は説明するまでもありません。仏道修行をまっとうするために、この食事をいただくという意味です。

産婦人科の「慈心妙手」

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令和2年7月6日

 

東京慈恵医科大学の産婦人科は創立110年を超える伝統がありますが、その初代教授が樋口繁次ひぐちしげじ博士です。博士は子宮筋腫等の婦人病に対する「樋口式横切開法」を確立しましたが、一方では熱心な仏教の信仰者でもありました。あまり知られてはいませんが、私は博士の仏教観が医学界に普及されことを念じている一人です。ちなみに、博士のことを手元の『新潮日本人名辞典』で検索しましたが、残念ながら記載されてはいませんでした。大変に惜しいことです。

一般に科学者は分析や統計に傾倒し、精神的な、また宗教的な人生観を持つ方は少ないように思います。ところが樋口博士の病院では、玄間・控室・院長室・薬局・手術室・看護婦室、いずれにも「慈心妙手じしんみょうしゅ」の額縁がかけられていました。しかも、それらは当時の、名だたる高僧の揮毫きごうによるものばかりでした。「慈心妙手」とは観世音菩薩の慈悲をもって医術に精進するという意味です。つまり、観音さまのような心で患者さんに接するべきであるという教えを示したものでありましょう。これは博士が、その生涯にわたって貫かれた医術の信念でありました。

博士が執刀する患者さんの手術を、学生に見学させる時のこと。患者さんがいよいよ手術台に横たわり、準備がすべて整うや、厳粛げんしゅくな中で博士も助手も看護婦も瞑目めいもくして合掌します。沈黙の時間が続く中、その高貴清雅な姿に、若い学生さんたちもまたいっしょに合掌するのでした。まさに「慈心妙手」の実践を見せられた思いであったことでしょう。

このような手術を受けたならば、本人はもちろん、その家族も見学した学生も、その縁に深い感動の念をいだいたことでありましょう。担当した助手も看護婦も、職務に対する新たな喜びと希望を体得したに違いありません。「医は仁術」とも言いますが、これが本来の医術ではないかと私は思います。

およそ合掌ほどすがしく、美しい姿はありません。合掌する本人はもちろんのこと、それを見る者もまた、大きな霊的世界に引入されるからです。さらに私の見解を申し上げるなら、本人の父母や祖父母、叔父や叔母までも見えない姿で合掌していると感じられるからです。つまり、いろいろな人の力が結集して、私たちは合掌する姿を顕現けんげんしているに違いありません。たとえその場は限られた室内であったとしても、そこに込められた祈りは想像も及ばぬ範囲に関与しているに違いありません。人は日常の何気ない生活の中にも、多くの世界と関わりながら〝自分〟という人生を過ごしているのではないでしょうか。

医術の成果も、信仰の裏づけがあればこそ、大きく花開くことを信じてやみません。そして、その花を開くのが合掌の姿なのです。南無観世音菩薩。

「霊障」とは何か

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令和2年7月2日

 

先の大戦では、多くの青年が「特攻隊」として飛行場や空母から離陸し、その若い命を散らしました。

では、その特攻の青年たちは何と叫んで敵艦に突撃とつげきしたのでしょう。「天皇陛下万歳!」と叫んだでしょうか。多くの皆様が、そのように思っていらっしゃるはずです。しかし、実際は違うのです。では何と叫んで、人生の最後を遂げたのでしょうか。私はよく父から聞かされました。「お母さーん!」と叫んだはずだ、と。そして、その胸のポケットには、多分に母親の写真を忍ばせていたはずだ、と。

私の兄は二十七歳の短命に終わりました。亡くなった後にその遺品を整理していましたら、財布の中に、何と母親の小さな遺影が入っていました。私たち兄弟の母もまた三十三歳と短命でした(私が僧侶になろうと決心した理由の一つです)。生前は母の仏壇に線香ひとつお供えしたことのない兄でしたが、私はこの事実に驚きを禁じ得ませんでした。

つまり男性というものは、常に母親を思うということです。母親を思い、母親から愛情を受けたいと、そう思って生きているのです。母親の乳を吸い、母親の「おふくろの味」で育ち、母親からやさしい言葉をかけてもらえることに無上の喜びを感じるからです。だから、母親との関係を悪くして育った場合、その男性には必ず問題が生じます。

これはなぜかというと、男性というものが多くは母方の血を引くからです。陰陽の牽引けんいん関係から、そうなるからです。私は長年にわたって人の相談に応じていますが、このことには確信があります。その男性の母方の、祖父母のいずれかに似るからです。だから、男性に何かの問題がある場合、「母系供養」が絶対に必要だということです。これは霊が〝たたる〟などという意味ではありません。いつもお話していますが、この世とあの世は同じものです。一対の鏡が写し合うように、一対の音叉が共鳴し合うように、同時にあるからです。つまり、私たちはこの世とあの世を共に生きているということです。「霊障れいしょう」という言葉がありますが、あの世の苦しみがこの世の苦しみとなって、共に現れるということです。〝たたる〟のではなく、同じ苦しみを背負い、同じ苦しみを分かち合っているということです。

もう、余白がなくなりました。女性はもちろん、父親を思い、父方の血を引きます。特に父親との関係が結婚運に大きく関わることは、以前にも書きました。だから、女性は特に「父系供養」が大切だということです。おわかりですね。

母系供養の大切さ

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令和2年7月1日

 

今日から七月に入り、東京近郊では早くもおぼんです。スーパーでもお盆用品が並んでいます。お寺でも施餓鬼せがき法要の準備に取りかかっています。近頃は主婦でもパートなどで留守が多く、いわゆる棚経たなぎょう(檀家の精霊棚で読経するおつとめ)もめっきり減って来ました。それでもお盆ともなれば、墓参をして先祖供養を心がける方は多いはずです。

ところで、私は毎日のお護摩でご祈祷もしますが、実は先祖供養にも力を入れています。朝一番にお大師さまの前で勤行をした後、必ず光明真言こうみょうしんごん土砂加持どしゃかじ(砂粒を如意宝珠として供養する行法)を修しています。土砂加持を修することにより、ご祈祷の威力いりきが一段と高まることを確信しているからです。

その先祖供養のことですが、一般にはどうしてもご自分の家だけに片寄りがちです。というより、ほとんどの方がそれを当然のごとくに考えています。男性はたいていは父方の姓を名乗っています。女性は結婚すれば、実家のことなど口出しすることもありません。そして出生のルーツなど問うこともありません。しかし、これはおかしなことです。私たちは父母両家から生まれて来たのです。戸籍上の問題ではありません。それが血の流れというものです。父方はもちろんですが、母方の供養をおろそかにしてはなりません。私はこれを称して「母系供養」と呼んでいます。

私はホームページでも説明(信仰と供養のイメージ図参照)しているとおり、人の生命を一本の樹木にたとえています。父母両家の根があって、私たちは生かされています。成長すれば枝が伸びて葉もつきます。根が強くて十分な水分や栄養があれば、つまり父母両家の供養が十分であれば、立派な実がなるのです。風通しをよくするために枝おろしをしたり、虫がつかぬよう薬剤を用いることも必要でしょうが、根本は地中の根(まさに根本!)にあるのです。

この樹木の図を示して説明すると、多くの方が共鳴して納得し、私の土砂加持に参加してくれます。ところが、肝心な僧侶の方は、こうしたお話にあまり興味を示しません。もちろん先代住職の回忌ともなれば、法要をいたしましょう。またお寺の庫裡くり(住居)には仏壇がありましょう。そして、仏飯や茶を供えましょう。しかし、どうでしょうか。奥様の実家やその母方のことなど、ほとんど関心を持ちません。「母系供養」の大切さを忘れています。

私は一般の方はもちろんですが、僧侶の方にこそ「母系供養」の大切さを理解していただきたいと願っています。そして、それが血の流れに根ざした本来の先祖供養であることを理解していただきたいと、切に願っています。

「五重塔」の秘密

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令和2年6月19日

 

大正12年の関東大震災(マグニチュード7・9)では、十万人以上の死者や行方不明者を出し、火災によって東京は一面の焼野が原となりました。その火災による死者だけでも、九万人を超えたとされています。この時、浅草寺せんそうじ浅草観音あさくさかんのん)は幸いにもわずかな被害にとどまり、避難所としての機能を果たしました。右も左もわからぬ混乱の中で、五重塔ごじゅうのとうばかりはすっくと建ち残り、それを目標に人々が集まったからです。

また平成7年の阪神・淡路大震災(マグニチュード7・3)の折にも、ほんの一部を除いて、奈良や京都の五重塔(三重塔も含めて)も無事でした。日本最古である法隆寺の五重塔は奈良時代に建てられ、高さは31・5メートルです。日本最大の高さである東寺とうじ(お大師さまが住職をした京都の教王護国寺きょうおうごこくじ)の五重塔は江戸時代に再建されて、高さは54・8メートルもあります。木造建築でこれほどの高さで、あの震度の中でも倒れないなどという事実は、普通なら考えられません。いったい、五重塔がかくも地震に強い理由は何なのでしょうか。

その秘密は〈心柱しんばしら〉にあります。つまり、五重塔の中心にあって、地上から一番上の相輪そうりん(九段の輪や宝珠などの装飾)までを貫く柱にあるのです。内部構造を見ると、この心柱は五重の階層と固定されてはいないのです。日光東照宮の五重塔にいたっては、何とこの心柱が宙に浮いています。四層目からつるしているだけなのです。では固定もしない心柱が、どうして地震から五重塔を守っているのでしょうか。

心柱は土台に乗せるか、宙づりです。では何が支えなのかというと、支えはないのです。つまり、五重の階層はそれぞれに積み重ねているだけだということになります。もちろん、下の階層は上からの重みに耐えねばなりません。そこで、それぞれの四隅には複雑な木組みをほどこし、のしかかる重みを分散させています。この積み重ねの構造により、下の階層が右にれると上の階層は左に揺れ、それぞれが互い違いにれて衝撃しょうげきを吸収します。それでも、震度が強くれば塔の全体は共振して傾きます。そこで心柱が本領を発揮します。塔が右に傾くと、心柱は左に傾くいわゆる「やじろべい力学」が発生し、力が相殺そうさいして揺れに耐えられるのです。千年を超える木造建築が、現代まで残る理由がここにあります。

五重塔は仏さまを供養する象徴的な建築です。コンピューターもなく、微分積分の知識もない時代、深い信仰と自然への洞察がなければこんな智慧は生まれません。現代建築の耐震構造さえ、これをヒントにしているくらいです。五重塔は世界に誇る日本の英知です。そして、仏教の英知です。

下天の内をくらぶれば

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令和2年6月18日

 

私たちは数の単位として、「一・十・百・千・万・億・兆」までしか使いません。しかも〈億〉や〈兆〉にいたっては、まず普通の生活で用いることはほとんどありません。一流会社の経理や国家予算ならともかく、私たちの〝普通預金〟にはまるで「夢の世界」です。

ところが、その夢の世界がさらに続くことをご存知でしょうか。すなわち、数の単位を最後まで記しますと、「一・十・百・千・万・億・兆・けいがいじょじょうこうかんしょうさいごく恒河沙ごうかしゃ阿僧祇あそうぎ那由他なゆた不可思議ふかしぎ無量むりょう大数たいすう」となります。そして、この中で〈恒河沙〉以下は経典に出でいる仏教用語であることもお伝えしておきましょう。つまり、数の単位を考案した中国人は、こんなとてつもない数字を仏教から学んだということになります。

恒河沙ごうかしゃ〉とはガンジス河の砂の数ほどという意味、〈阿僧祇あそうぎ〉は数え切れないほどという意味、〈那由他なゆた〉はとてつもなく大きいという意味、〈不可思議ふかしぎ〉は考えてもわからない遠い境界という意味、〈無量むりょう〉は阿弥陀さまのようにはてしない境界という意味、最後の〈大数たいすう〉は〈無量〉のさらに上があるならばというほどの意味です。いやはや「夢のまた夢」で、仏教の壮大な世界観にため息が出るのではないでしょうか。

〈夢〉といえば、織田信長が好きであった『敦盛あつもり』の一節は「人間五十年、下天げてんの内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。ひとたびしょうを受け、滅せぬもののあるべきか」でした。信長は僧侶や寺院は弾圧しましたが、仏教のことはよく勉強しています。この時代は五十年も生きれば長命で、生まれてすぐに亡くなる人すら多かったのです。平均寿命は四十歳にも届かぬ三十代であったはずです。事実、信長は四十九歳で、あの本能寺で自決しました。

この〈下天げてん〉もまた仏教用語です。壮大な宇宙の中に〈天界〉があり、その天界の一番下という意味です。その下天に住む〈天人〉に比べても、人間の寿命などは一瞬に過ぎません。つまり人間にとっての五十年は、天人からすれば一瞬なのです。だから、夢だと言っています。これを逆に表現したのが浦島伝説です。若い浦島太郎は竜宮城で七日間を楽しみましたが、戻って来たら何百年も生きた老人になってしまいました。時間の尺度がまったく違うからです。

仏教は壮大な宇宙や無限の数字を示すことによって、人間が謙虚になることを教えているのです。こうした夢のような世界を示して、傲慢ごうまんにおちいらぬよう戒めているのです。いま、こんなお話をしている私自身すら、まるで夢をみているような気がします。

山路天酬密教私塾

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